日常


 風呂から数時間。夜も深まって現時刻は夜の七時半。丸い形のした壁掛け時計は静かに時を刻み、垂れ流されているテレビはドキュメンタリーを映している。その中で応星は更に盛り付けたカレイの煮付けにショウガを軽く載せて、満足げに頷いてみせた。大皿に載っている肉と野菜の簡単な炒め物に、茶碗に盛り付けた白米がよく映える。その理由が、テーブルのものの殆どが茶色いものしかないことに気が付いて、応星は慌てて出来合いのポテトサラダを用意した。

 丁度そのときに刃がリビングの扉を開けて部屋に入ってくる。黒のVネックに少しばかり大きめのスラックスを穿いて、風呂上がりの彼は首にタオルを提げたまま椅子を引いた。幼い頃から刃の髪は独特で、紺のような藍色のような髪は毛先にいくにつれて少しだけ赤く染まっている。その原理が気になったことがないといえば嘘にはなるが、応星の生まれつき白髪も大概可笑しいものだと思えば、気にはならなくなった。何の因果か、酷く似た寄った顔立ちの刃もまた髪を伸ばし続けていて。応星より数センチ短い程度の長さになっている。

 試しに「髪は邪魔じゃないのか」と訊いてみれば、刃は自分の箸を取りながら数秒の間を置き、「それは貴様も同じだろう」と口を洩らした。

 兄弟関係とは思えない言葉のやり取りではあるが、幼い頃から妙に特徴的な話し方をする弟に慣れている応星は、そりゃそうかと笑い、流しに鍋を置く。ある程度楽に汚れを落とせるよう水に浸け置きすると、後ろから刃が「片付けはやる」と一言。最早恒例である言葉を聞いて、彼は何の気なしに振り向いてみれば、刃はコップに麦茶をとぽとぽと注いでいた。

「……お前は本当に律儀だな……」
「……? 何がだ」
「普通の男なら家事だの何だのは、全部人任せにするもんじゃないかと思ってな」
「……それを言うならば応星、貴様も人任せにすればいいだろう」

 コップに麦茶を注ぎ終えた刃は、自分のコップを持ち上げて一口だけ飲んだ。淡々とした口調や興味がなさげの表情とは裏腹に、彼は律儀に応星へ返答をした。兄弟、家族という関係性がある他、彼なりの優しさがあるのだと応星は知っている。「俺はもう慣れたもんだからなぁ」と呟き、刃の前の席に腰掛ける。素っ気なく渡された箸を受け取り、いただきますと呟いて煮付けに箸を付ける。

 ホロホロと崩れる魚の白身。その身を箸で摘まみ、口へと運ぶ。前以て下準備をしていたのが功となったか、煮付けはしっかりと細部にまで渡って味が染み込んでいて、応星は満足そうに微笑む。自身の手先の器用さに我ながら最高だと自賛して、箸を進めた。

 刃は変わらず感想のひとつも言うことはなかったが、黙々と食事を進める様を見るに気に入ってはいるのだろう。元より刃の好みは把握していないが、嫌なものに当たれば僅かに、本当に僅かに眉間にシワを寄せる程度の変化を見せるのだ。普段から顰めっ面をしている弟を見ながら、好き嫌いくらいはっきり口にすればいいのに、と応星は何度思ったことだろうか。

 この弟にこそ女の影があってもいいような気がしたが、何せ見た目が威圧を与えてくるのだ。自分がどうにかその威圧感を中和できないものかと、頭を悩ませたことのひとつやふたつ、くだらない。刃がどうにか拠り所を見つけてくれさえすれば、自分はもっと焼き物に没頭できるんだがな――と何気なく考えて、応星はぽつりと呟く。

「刃、お前……彼女の一人や二人、できないのか?」

 ――そう問いかければ、刃は咀嚼を繰り返していた口の動きを止めて、緋色の瞳でじっと応星を見つめる。

 時々思う。この男は本当に自分の弟なのかと。実際は、物心つかない頃にどちらかが引き取られてきたのではないかと。――けれど、たとえそうだとしても、応星にとって刃はたった一人の家族であり、兄弟なのだ。

 だからこそ、兄として弟の身辺が気になった。彼は応星によく似たいい男だ。応星よりも若く、体付きは服の上から見ても申し分ないと分かるほど。こんないい男を女たちが放っておいてしまうのは、やはり生まれ持った威圧感の所為だろうか。
 そうこう考えている間に、応星の目の前にいる刃は、先程よりもいっそう深く、眉間にシワを寄せる。もぐ、と咀嚼を再開しているが、その目は僅かに応星を睨んだ様子で。「この手の話は嫌いだったか」と彼は苦笑した。

「いや、悪い。嫌いな話だったか」
「…………何も言っていない」

 応星が軽く謝れば、刃は反抗するように言葉を返した。何も言っていないなど大嘘だろうが、と応星は軽く肩を竦める。まさに「目は口ほどにものを言う」を体現してくれた刃に、応星は構わず話を進める。

「刃。お前もいい男だし、いい歳だろ。そういう話があれば俺は兄として応援すると言ってるんだ」
「お前も、と言うことは、貴様は自分で自分を『いい男』だと言うのか」
「……? 当然だろ。少なくとも周りよりは好かれてたんだ。ナルシストってわけじゃあないが、周りよりはいい男の部類だろ?」

 刃の言葉に応星は小首を傾げ、さも当たり前のように言った。学生の頃から積み上げられた経験は、応星の中で上手く昇華された挙げ句、現状器用という自信を持つべき点が彼をそうさせているのだろう。応星は刃が自分の言葉に眉間を緩めたのが分かったが、代わりに深い溜め息を吐かれる。

 思えば刃はこういった前向きの思考を見せてくれやしないな。

 ――そう思いながら応星も食事を再開する。その合間に視線だけ刃に向けてみたが、未だ呆れたような顔をして、けれど箸を進め始めるのだ。無言の時間は思考の時間。刃は何かを言うかと応星は待っている間に、ふと気が付いてしまう。
 刃は好んでピアスを付けている。彼岸花のように赤く、血のように深い色の、短冊のような形をしたピアスだ。それは彼のお気に入りで、毎日欠かさず付けている様子を応星は知っている。そして、風呂から出たあとは必ずと言ってもいいほど、外していることも知っている。

 彼がそのピアスを両耳に付けた頃に好みは似るものだと、応星は実感していた。何せ応星も両耳にピアスをしているからだ。右耳にはタッセルを。左耳には何の飾りもない丸い形のそれを。
 初めてそのピアスに出会ったとき、何故飾りが片方しかないのかと疑問に思っていたが、いやに目を惹くそれに心を奪われてしまったのだ。衝動的にそれを迎えた結果、今も欠かさず付けている。
 きっと刃も同じように出会いがあったんだろう、と飾られた耳に何気なく微笑ましさを覚えていた。

 その微笑ましい飾りが片方、失われているのだ。奇しくもそれは応星と同じ左耳で。堪らず応星が「ピアス、なくしたのか?」と問えば、刃は一呼吸置いてから何でもないかのように言った。

「やった」
「……やった?」

 あまりの簡潔な返答に応星が疑問符を付けて返せば、刃は空になった茶碗を置き、また溜め息を吐く。

「……『あげた』」

 分かりにくいか、と言わんばかりに言い直されたそれに、応星は目を丸くした。

 あげた? ピアスって片方を誰かにあげるものなのか? 一体誰に。

 ――好奇心と疑問がぐるぐると応星の頭の中を巡る。驚きのあまり止まってしまった箸から掴んでいたであろう肉が、減ってきているカレイの煮付けにぼとりと落ちて、ニンニクの芽がコロコロと転がった。訊こうか、訊かない方がいいか。――そう悩んでいる間に、刃が触れてほしくないよう、話を変える。

「次は何を作るんだ」

 ――と。

 丁寧に重ねられた食器類を持ち上げて、椅子から立ち上がる刃は、応星を置き去りに流しへと向かった。流しにある洗い桶に水を溜めて食器を浸け置きする音が、応星の背から聞こえてきた。サアァ、と軽い音が応星の思考を洗い流すように、彼の頭の中は次第にまっさらになる錯覚に陥る。

 話をしたくないのなら何も言わずにリビングから出て、自室に向かえばいいだろうという考えが脳裏をよぎる。やはり弟は優しい男であると思い、応星は食器類を眺めながら小さく唸った。
 先程のピアスの疑問を頭の片隅に追いやり、応星は刃からの疑問に首を傾げる。この家にある食器類は大半が市販のものではあるが、茶碗だけは応星が自ら手掛けた作品だ。売り物にするには少々納得がいかない出来ではあったが、処分するにはあまりにも出来が良すぎる。それをふたつほど持ち帰り、使おうと提案したところ、今も尚使い続けているのだ。

 だが、それももう十年近くになると、嫌でも汚れやら何やらが目立つようになる。これなら新調してもいいかもなあ、と考えながら「まだ食器類は作るぞ」と応星は言った。

「小物も、飾りも。あのジジイたちを差し置いて、俺の手掛けた作品たちが何よりも浸透するくらいになるまでは幅広く作るつもりだが――……どうだ、刃。ガラスにも手を出そうかと悩んでるんだが。お前はどう思う。ガラスは若い子にも人気だと思うんだが」

 今のままじゃ若い子向けじゃなさそうなんだよ。

 そう言って刃の意見を求めようと応星は体を捻る。椅子の背もたれに手をついて、片手に茶碗と箸を持って、流しにいるであろう弟の顔を見た。視線の先にいる彼は相変わらず無表情で顔を飾っている印象を受けるが、その奥に微かに、何らかの感情が滲み出ている。呆れだとか興味がないだとか、それらの中に隠されているのは懐かしさと、安心感のようなもの。

 一体何故そんな表情(かお)をするんだと応星は口にしようとしたが、そうする前に刃は一度だけ目を閉じる。そうして「興味がない」と一刀両断するようにばっさりと言葉で断ち切ってから、「俺には分からない」と言った。

「景元辺りにでも話をすればいいだろう。あれなら流行も分かるはずだ」

 腕を組み、呆れるような声色をする頃には、先程の妙な雰囲気はどこかへと消えてしまって。唐突に出てきた友人の名前に応星は「ああ」と納得したように口を洩らす。

 応星の友人である景元は、流れで刃とも面識がある。彼らは初めて会ったにも拘わらず、あたかも十年来の旧友でした、と言わんばかりの様子で話をしていたものだから、流石の応星もそれには脱帽した。何せ、刃は幼い頃から人付き合いが得意ではないのか、女どころか友人の話など一度も聞いたことがないからだ。学校の帰り道、運動会や遠足の話、学生なら浮つくであろう修学旅行での話――それら諸々を含めたとしても、刃から聞く話は全て「退屈だった」の一言に尽きてしまう。

 両親の死が切っ掛けでそうなったのだろうか。それとも元より閉鎖的だったのだろうか。

 ――なんて悩み続けていたのが馬鹿らしく思えるほど、景元と刃は――特に景元が――話をしていたのだ。
 まるで今まで関わりがあったと言うように。すっかり打ち解けている彼らに嬉しさを覚えたのは言うまでもない。

 その景元を話に出され、応星は確かにと片眉を顰めて唇をへの字に曲げた。彼の家は富豪で、父親は有名な会社の社長だ。いずれ跡取りになると話をして、現に跡を継いだらしい景元ならば、多少なりとも流行りには敏感なはずだ。
 何故今まで頭の中に思い浮かばなかったのか、不思議に思いながらも応星は「それもそうだな」と体を正面へ向け直す。疎かにしていた食事を再開して、黙々と食べ進めていると、隣を通った刃はそのままリビングのテレビの前にあるソファーに腰掛けて、じっとドキュメンタリーを見つめていた。恐らく後片付けをするために応星の食事が終わるのを待っているのだろう。

 味わってくれているのかは定かではないが、人よりもいくらか早く済ませてしまう刃の食事に、応星はさっさと終わらせるか、と遂に口を閉ざして手を動かした。話に意識が奪われていたが、残りも半分程度といったところ。炒め物も、応星が食べきれる分だけが残っていて、彼は黙々と食べ進める。

 その間に耳に届くドキュメンタリー番組の内容に、珍しく刃は釘付けになっているようだった。不思議に思い、応星は横目でそれを見ると、前世がどうとか、覚えているだとか何とか、字幕やら何やらが目に映る。何とも不思議ななその内容に、ふと、体の痣を思い出すと同時に刃が独り言のように口を溢した。

「応星、貴様は――前世を信じるか?」