日常


 眠る前の歯磨きを済ませ、応星は自室に戻ったあと、自分の机に向かって作業を進めていた。スケッチブックに適当に取り出した鉛筆と、消しゴムを手にイメージを膨らませる。人脈が広く、匠の中には偶然にもガラスを取り扱っている人間もいた。陶芸よりはいくらか難しそうなそれを、何度か体験させてもらってはいるが、どうにも彼のように上手くはできない。やはり繊細なガラスはそれ相応の技術と時間を浪費するようで、応星はその彼だけを唯一「先生」と慕っている。

 その先生曰く、応星はやはり筋がいいようだ。あといくらか経験を重ねれば立派な作品を作れるだろうとのお墨付きをもらっている。今回食事の場に相談事を持ちかけたのはそれが理由で、新しいことに挑戦しようという好奇心からだ。生憎刃には分からないと言われてしまったが、無理だといった否定的な言葉は一切出てこなかった。つまり、応星ならば結局は何でも作れてしまうということなのだろう。

 くるくると片手に持った鉛筆を回してから、彼は構想を練る。ガラス細工として小物を作るのもいいが、やはり日常的に使えるであろうコップなどが望ましい。その合間に飾りを作ったりして、気に入ってくれた人に迎えてもらえればそれはそれで満足なのだ。金銭面を考慮しなければならないのは確かだが、結局は気に入ってくれるか否かの世界。いくら良作であろうとも、視界にも入らないようであれば、ただの無駄になってしまう。

 そういったことを避けるため、応星はいくつもの案を練った。ガラスのコップに風鈴、金魚鉢なんかも風情があるだろうな、なんて考えてデザインを考える。本当に作れるかなど壁にぶち当たるのは目に見えているが、考えてデザインを生み出すのはタダだ。近頃はガラスのペンなんてものも好まれていることを知っている彼は、その構想を練っていたが――ふと、昼間に会った青年を思い出して手を止めた。

 彼は一体どこの誰だっただろうか。

 思い出す黒髪に、灰青色の芯がある瞳。まだ学生だろうが、応星の目から見ても彼は美形の一人であったことは確実だ。そんな彼には兄がいるというのだから、その兄がどれだけ顔立ちがいいことか、考えさせられる。
 自分たちと同様に、彼によく似た顔をしているのだろうか。背丈はどの程度の差が生まれているのだろうか。応星と刃の違いはといえば、髪の色と瞳の色、そして表情が異なるくらいで、あとは殆どが似ている。世の中の兄弟が到底自分たちと同じだとは思えないが、まだ見ぬ兄弟を考えていると、不思議と筆が進んでいた。

「……いや、いやいや……見ず知らずの兄弟を考えるなんてどこの変人だ?」

 不意に正気に戻った応星は、咄嗟に考えを振り払うように頭を左右に振った。すっかり乾いた白い髪が頬に当たり、ふうと一息吐いて眼前のスケッチブックを見やる。そのスケッチブックに描かれているのは、先程一通り考えてみたガラス工芸のデザイン案。その中にひとつ、無意識で描いたであろう簪がぽつりと存在を主張していた。

「っ、あー……何で簪なんだ……」

 無意識下というものは全く恐ろしいものである。彼にとって簪は、趣味の範囲で十分に作れるひとつの作品だ。ガラスや陶芸に比べれば幾分楽なものではあるが、この現代においてそれを好き好んで使っている人間など数が知れている。普段から和服を着ていなければ日の目を見ないほど、小さな存在だ。

 その簪を、応星は昼間に出会った青年を思い浮かべながら描いていたようで。さらりと柔らかい筆跡で描かれたそれには、楓があしらわれている。金の一本差しに赤の葉、それに加えて細かな装飾だなんて我ながら凝っているものだと褒めてやりたくもなったが、何故簪なのか、疑問が止まらなかった。

 彼は短髪だ。肩にも届かないほど、短く切り揃えられた髪だ。到底髪を結うなどという行動とは無縁のはずなのに、どうして簪を考えてしまったのだろう――。

「…………やめるか」

 一度考えてしまうと、答えが見つかるまで頭を悩ませてしまう。その終わりが見えない思考に、応星は考えることをすぐさま放棄して筆を投げた。ころりと転がる鉛筆も、消しゴムも後目に彼はベッドへと倒れ込む。成長してから数回買い換えた家具はすっかり体に馴染み、心地よさを抱かせた。

 気が付けば夜も更けて、近くに置いているデジタル時計は二十三時を表示していた。もうあと数分もすれば日付を超えてしまう事実に、溜め息を吐いて枕に顔を埋める。すると、思いの外疲れが溜まっていたのか、今までどうして感じなかったのか不思議でならないほど、体の奥底から眠気が押し寄せてきた。
 これはひとつの仕事に没頭して、何日か徹夜をするときの体とよく似ている。物事に取り組んでいるときは少しの疲れも感じないのに、いざ終わりを迎えると指先一本すら動かせなくなるほどの疲労を覚えるのだ。
 こういうときばかりは大人しく横になり、眠るのが一番。

 そんな当たり前のことを知っている応星は、布団を持ち上げ、全身を覆うよう勢いよくかぶる。秋めいてきた気候に布団は心地よく、肺に溜まった酸素を吐くように大きく深呼吸をすれば、彼の瞼は起きることへの抵抗を諦める。
 体にのしかかる布団の重みも心地よく、今日は気持ちよく眠れそうだと思った矢先。応星は意識を手放す寸前で、刃が呟いた言葉を思い出すのだった。

 ――前世を信じるか?

 ――恐ろしく静かで、何も見えない空間に応星は佇んでいた。一寸先も見えない暗闇。光を一筋も通さない黒一色。夢だと頭が認識をしているほど意識は鮮明で、何気なく自分の手を見れば、見慣れない色の袖が視界に映る。何だこの服は――そう口にしたはずが、言葉は一切出てこなかった。

 仕方なく彼は手を下ろし、意味もなく当たりを見渡す。黒、黒、黒――どこを見ても同じように何も見えない景色に頭が可笑しくなりそうだと、眉間にシワを寄せた。試しに足を踏み出し、歩いてみるものの、進んでいるのかも全く分からない。
 そもそも、この足は何を踏み締めているのかも分からなかった。

 ――おいおい、勘弁してくれよ。

 そう応星は悪態を吐いて、あてもなく彷徨い歩く。何もせず立ち止まっていると、暗闇に自分が呑み込まれてしまいそうで酷く恐ろしかった。何でもいいから早く目覚めてくれ、と願うものの、目を覚ます、という感覚は一向にやってこない。いっそ足元に何かがぶつかってくれと思ったのだが、これもまた無意味なようで何も当たらないのだ。

 ふと、このまま目を覚まさなかったらどうなるのだろう、と疑問が浮かぶ。時間にして数分か数秒か。そもそも時間など存在しているかも分からないこの場所に、時間の感覚など意味があるのだろうか。――何て思いながら歩くと、何やら足取りが重くなり、途中で動かすこともできなくなった。

「…………?」

 まるで足元に何かが絡みついているかのような状況に、応星は顔を顰める。その顔は、弟である刃によく似ているのだが、それを見比べる人間などこの場所にはいなかった。
 代わりに応星の意識を奪い始めたのは、足元に絡みつく妙な錯覚でも、辺りの暗闇でもない。光すらも届かないこの奇妙な空間で、ぽっかりと浮かぶように現れた一人の面影だ。

 ――誰だ?

 何も見えないはずなのに、一際輝いて見えるその姿。腰まで伸びた黒く長い髪。いくらか布を重ね、極力露出を控えているはずなのに、腰の細さだけは顕著に現されたその装いに、彼は目の前にいるそれが女かどうかを考える。
 けれど、その背は女よりも高く、その後ろ姿は男のそれと言っても過言ではない。

 一体どちらだろうか。そんな考えが口を突いて出そうになったが、そんなくだらないことを考えている場合ではなかった。これは夢であり、この妙に恐ろしく寂しさを掻き立ててくる空間から抜け出したいと思う応星は、目の前のそれが誰であろうと夢から覚ましてほしかった。

 でなければ支障が出るからだ。満足な睡眠の質は、満足な作品作りには必要不可欠であり、このように目が覚めたあとにも影響が出そうな夢は天敵だ。それを避けるために、方法はどうであれ、応星は目の前の人物に助けを請う。

 俺を夢から覚ましてくれないか、と。

 ――実際、なんて馬鹿げた願いなのかと応星自身も思っている。夢の中で助けを請うなどあまりにも愚かで、滑稽だ。万が一応星の頼みを聞いて起こしてくれたとしても、現実でしっかりと目を覚ますかどうかなど定かではない。彼はただ話し相手がほしかったのかもしれないと客観的に見ながらも、声が届いたかどうかも分からない存在をじっと見つめていた。

 そして――それが踵を返すよう、応星へと振り返る。風を切るように、滑らかに。暗闇の中でも一際目立つそれに目を奪われながら、応星は視界に入るタッセルピアスに見覚えがあって、遂に呼吸を忘れてしまった。
 全くの類似品であるという事実は否めない。しかし、色も長さも見たことのあるそれに、彼は思わず「え、」と声を洩らす。

 振り返ったはずのそれは、長い黒髪で満足に顔が見えなかった。ただ、頭部に生えている水のように煌めき透き通るツノと、常人よりも長く尖った耳が特徴的なことはよく分かった。

 それが、薄く唇を開いてぽつりと言う。

 ――忘れろ

 たった一言。見た目風貌とは裏腹に、鼓膜を揺らす言葉は低く、そのお陰で目の前の人物が男であることを突きつけられる。忘れろ、と芯のある透き通るような声音は少しもぶれることはなく、目の前で呆然と立ち尽くす応星に向かって確かに向けられていた。
 彼はそれを――その声を、言葉を聞いたことがあった。寧ろ何故今まで気にも留めなかったのかと頭を疑いたくなるほどだ。幼い頃より深い眠りに就けば就くほど、正体のない声が繰り返し繰り返し同じことを言うのだ。

 忘れろ、と。
 何も思い出さなくていい、と。
 全て自分が背負う、と。

 ――それは目を覚ませばすっかり頭から抜け落ちてしまって、起き上がる頃には夢を見ていたのかも危ういほど、記憶にも残らなかった。

 そうしていつの間にか深く眠りに就くことも数える程度になって、言葉を聞くことも少なくなって。今の今まですっかり忘れていたほど。それが何故、今になって鮮明に、こちらへと告げてくるのか、彼には分からなかった。
 あんたは一体どこの誰で、何なんだと言いたかった。

 しかし突然、本当に突然のことだ。応星が咄嗟に口を開き、頭の中に次々と湧き上がる疑問をそのまま口にしようと、唇を開いたその一瞬と全く同じタイミングだ。
 目の前の彼が、突如無数の針に全身を貫かれ、そのしなやかな体が一瞬、宙に浮くのだ。

 ドッと貫かれたのは彼のはずなのに、応星は全身から血の気が引く感覚を覚えた。そうして助けにいこうと足を動かしかけたとき、自分の足が地面に縫い付けられたように動かないことを認識する。彼の口から、針から赤黒い血が流れて、応星は自分が動けないことを強く、強く恨んだ。動けとも思った。妙に体の奥底から底知れない悲しさに襲われ、目頭が熱くなるのを痛感する。
 しかし、刺されているはずの本人は、痛がる素振りも見せず、再び口を開くのだ。

 ――何も思い出さなくてもいい。全て、余が背負おう

 バチン、と弾き出されるように応星はハッと目を覚ました。勢いよく飛び起き、両手で顔を覆い、息を吸って呼吸を整えようと試みる。胸の奥から響いてくるような強く激しい鼓動に比例するよう、応星の全身からは汗が吹き出た。まるで真夏の熱帯夜にクーラーも点けず眠ってしまったかのような状況に、心地の悪さを覚える。

 夜は明け、鳥たちの鳴き声が微かに聞こえることから、応星は自分が無事に眠っていたのを実感して、あれが夢であることを痛感した。夢にしては酷く鮮明で、後味が悪く、気分は最悪で。腹の中を掻き回されたかのような不快感に、吐き気を催した。ずくずくと痛む頭と、胸に手を移し、ふうふうと彼は呼吸を繰り返す。大きく吸って、ゆっくり吐いて。誰に教わったのかも思い出せない深呼吸を繰り返していると、自室の扉をトントンとノックする音が鳴った。

「……起きてこないなんて珍しいな」

 そう呟きながら部屋の扉を開いたのは、他でもない彼の弟である刃だ。珍しく髪を結い、エプロンを着こなしているところを見ると、普段応星が勝手にやっている家事を彼がこなしてくれたのだろう。
 刃の姿にハッとして応星は傍らにあるデジタル時計を見ると、時刻は八時半を示していた。通常仕事がある日、刃はこの時間には既に朝食を済ませていて身支度を調えている頃だ。それをしないということは、職場に無理を言って時間をずらしたか、休みを取ったか。どちらかのはずで。申し訳なさのあまり、口ごもるように「ちょっと夢見が悪くてな」と応星は言った。

 そう言ったところで彼はふと、自分がどんな夢を見ていたのか全く思い出せないことに気が付く。
 あれだけ恐ろしく、寂しく、不愉快で仕方がなかった夢。目が覚めたあとでさえ不快感で動悸が激しく、胸がざわざわと騒ぐほどだったのに、その一欠片でさえも覚えていないのだ。

 一体どうして、何故。

 夢のことを思い出そうとする度に、胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになって、応星は言葉を失う。チュンチュン、チチチ、と遠くでは雀たちが仲良さそうに囀り合っている声が聞こえていた。

 朝だ。起きて、動かなければ。

 そう思うのに体は一向に動かず、応星は視線を泳がせて背を丸めるばかり。自分の異常性に気が付いてはいるが、どうすればいいのか、対処法がまるで分からない。
 ――そんな子供のような応星に刃はお玉を片手に腕を組み、壁に寄り掛かる。その衣服が擦れる音に応星は再び刃へと目を移すと、彼は昨日と全く同じ声で、音で、静かに言うのだ。

 応星、貴様――前世を信じるか? と。