星は月の夢を見ていた

 ――目を覚まして応星が一番に感じたことは、今の今まで忘れていたすっきりとした爽快感だ。開いた瞼は軽く、意識は鮮明になる。ほんの数回の瞬きすらも億劫だと思っていた今までが、異常だと分かっていても、突如訪れた開放感は彼の中にある感動を呼び起こした。呼吸ひとつとっても身軽さの残る体に安心感を覚えて、応星はほうっと息を吐く。自分自身を落ち着けるよう、閉じた瞼の裏に浮かぶのは今まで以上にはっきりと、記憶に刻まれた景色だ。

 どこまでも白く広がる空に、地平線の向こうまで地面を赤く染め上げた彼岸の花。漸く名前を思い出した彼の姿を、両腕に閉じ込めた感覚は今も尚、残っている。人よりもいくらか低い体温が応星の腕を通して伝わってきていた。彼は実際に存在していたのだ。繰り返し見ていた夢は「夢」ではなく、実際に起こっていた出来事なのだと、彼は理解する。そして、それを一般的に「前世」と呼ぶのだと、納得した。

 以前刃が言い放った前世の話題は、応星にとって理解し得ない話でしかなかった。目の前にいるというのに、もう二、三歩離れた場所から他人事のように聞いていた。景元と話していたときも、自ら話題に出したというのに、どこか自分には関係のないもののように思えていたのだ。

 あの口振りからして、彼らは応星よりも早くに前世の記憶を持っていたのだろう。景元は前世に親しくしていた仲間が、見た目が全く同じのくせに中身がまっさらだった応星を見て、何を思っただろうか。刃は、自分であったはずの存在を目の前にして、どれほど滑稽だと思っていただろうか。思えば、今世では幼い頃から面倒を見てくれていた白珠と、彼女と共に寄り添うことが多かった鏡流には一度も会った試しはないが、二人は存在しているのだろうか――。

 様々な感情と、思考が入り交じる中。応星は目を開き、ぼうっと天井を見つめる。藤紫の瞳に映るのは、暗い夜に沈んだ木目の目立つ見慣れない天井だ。応星の家とは違い、古風なそれの中心にあるのは、また古い見た目の、傘のついた真四角の照明がひとつ。紐を引っ張れば明かりが点く仕組みのそれに、どこか懐かしさを感じながら徐に体を起こすと――畳の香りが鼻腔をくすぐった。

 随分と古風な家に寝かされていたらしい。畳の上に敷かれた布団に寝かされていた応星は、ぼんやりと靄がかかったような頭に手を添えて、ゆっくりと辺りを見渡す。不思議なほど暗闇に沈む和室に辛うじて見えたのは、寄り掛かれば体が埋もれてしまうほどにやみつきになるビーズクッションだ。それも、ひとつではなく、みっつも密集していて、多少の好奇心が揺さぶられる。あの山に体を沈めたら一体どれほど心地がいいのだろうか――そう、手を伸ばしかけてから、カタカタと音を立てる障子に、応星の手が止まった。

 風が吹いたのだ。頬を撫でていた柔らかく冷たい風が、障子を微かに揺らしていた。その音がする方へと視線を向ければ、目映い月明かりが夜空から降り注いでいる。戸の向こうにある縁側の向こう――広い庭には一本の木が佇んでいて、風が吹く度に木の葉を揺らし、葉を散らしている。それを眺めながら、柱に寄り掛かり、酒を嗜む彼の姿に――応星の足は無意識に動いた。

 布団を払い、弾かれたように足を踏み出して畳を蹴る。彼は応星の存在に気が付いているはずなのに、少しも顔を向けようとはしなかった。

「――丹楓……っ」

 ――それでも応星は彼に手を伸ばし、柱に寄り掛かっていた体を自分の元へ引き寄せる。
 月明かりを受けて艶めく黒い髪。仄かに香る花の香り。自分よりも多少低い体温が、応星の腕の中にすっぽりと収まる。抱き寄せた拍子に着物がはだけ、露わになったその素肌は夜に見ても分かるほど、白かった。

「……起きたのか」

 応星の言動に驚いた様子もなく、彼は静かに言葉を紡いだ。手元に納めていたらしい盃を傍らに置き、そっと応星の頬に手を伸ばす。その手は、前世の頃とは違って素肌が晒されていた。
 白魚のように細い指が応星の頬を撫でる。そうっと割れ物を扱うような仕草に、どうしようもないほど胸が熱くなった。勢い余って抱き寄せたというのに、彼は相変わらず応星の腕の中で無表情のまま。――それでも変わらない天色の瞳には、彼なりの優しさが滲んでいるような気がした。

「……ああ、すまない。取り乱した」
「ふん、構わん」

 彼が頬を軽く撫でると同時に、応星は理性を取り戻すように静かに腕をほどく。心では多少なりとも惜しげを感じていながらも、目覚めたばかりの頭は彼に落ち着くよう命令を下していた。

 解放された丹楓は腕を組みながら再び柱へと寄り掛かり、応星に視線を投げる。龍尊としての翡翠のツノや尻尾は見当たらないものの、常人よりも尖った印象のある耳は記憶の中にいる丹楓と全く同じものだった。衣服もすっかり現代に染まっているが、和風家屋(このいえ)に住んでいるのか色無地の着物をまとっていた。応星の洋服とは全く異なる雰囲気と、彼の容姿が相まって、ぐっと来るものがあるが――それを堪え、応星は「ここは」と小さく呟く。

「家だ。余の」
「丹楓、の」
「そうだ。応星、其方を招くことは決してないと、思っていたが……こんなことになっては、そうも言っていられなかったからな」

 腕を組み、呆れた様子で溜め息を吐いた丹楓に、応星は不思議そうに瞬きを繰り返した。

 ――応星が気を失ったあと、自分よりも大きな体を支えきれない丹楓は、応星の体を掻き抱きながらその場に屈み込んだ。意識のない人間の体は鉛のように重く、下手に床に頭を打ちつけてしまえば事故になりかねない。それを阻止するため、丹楓は意地で応星の頭を抱きかかえて膝を曲げた。

 その甲斐あって彼は頭を打ちつけることはなかった。代わりに、丹楓の体の自由を奪ったまま意識を失ってしまったがために、丹楓は応星を見捨ててその場を去ることができずにいた。この緊張した状況に場違いなほど似つかわしくないクラシック音楽は、どこか遠く聞こえていて、代わりに飛び跳ねる心臓の音が煩わしく感じてしまっていた。掴まれた片手はそのまま、人を呼ぶことすらままならない丹楓は辺りを見渡す。誰か、いるだろうかと思って見た矢先、慌ただしく駆け寄ってくる自分の弟――丹恒の姿をその視界に入れた。そのあとに続いてやってきた、応星によく似た姿の刃を見て、ふつふつと怒りが湧いたのを実感する。

 ――しかし、応星が意識を失った今、怒りに身を任せるわけにはいかないと、理性を奮い立たせた。

 ――一言で表せば、仕組まれていたのだ。

 数日前、丹恒が物珍しく丹楓に対して出かけないかと不器用な誘いを向けてきた。それは、秋風の吹くある昼下がりのことだ。縁側でぼんやりと日を浴びていた丹楓は、かけられた言葉に目を丸くしていた。幼い頃から面倒を見てきたが、丹恒が大きくなるにつれて、どう接するべきか悩んでいた丹楓は、まさか外出を誘われるとは思わず、「何て」と聞き返した記憶がある。彼は丹楓と同じくして前世の記憶があり、自分がどういった存在であったのか、丹楓とどのような関係性だったのか、知っているはずだ。知っていて丹楓を兄として見ていたのは、面倒を見てきた恩があるからだろう。

 二人の実家はここから遠く離れた場所にあり、お世辞にもいいとは言えない一族の集まりだった。丹楓はおろか、丹恒までも家に閉じ込め、外との関わりの一切を絶たれていたのである。それに嫌気が差した丹楓は、丹恒の手を取って実家を飛び出し、この街へと流れ着いたのだ。

 彼がそうした理由は、「そうしなければならない」と本能が告げていたからだ。はっきりとした理由を知ったのは、実家を飛び出して数ヶ月が経った頃。ある出来事が切っ掛けで前世の記憶を取り戻したことで、その行為は正しかったのだと安堵の息を吐く。生まれながらにして記憶を持ち合わせていれば、もっと早くに行動に移せただろう、と後悔していた矢先に丹恒が自分にとって何なのかを知った。

 ――それでも彼は丹恒を弟として見て、丹恒もまた丹楓を兄として見ていた。前世でどれだけ迷惑をかけていようが、丹恒は「前世は前世だ。過ぎたことは重要ではない」と言って、[[rb:現在>いま]]を生きていた。丹楓もそれに倣うよう、前世に縛られることがないように過ごしていたが――どうやら周りは彼を独りにしようとはしなかった。

 ある日、景元が白珠と鏡流を連れて丹楓に会いに来た。彼らは皆、前世の記憶を持ち合わせていて、前世と何ら変わらない関係性を見せてきていた。景元は穏やかな春の草原のように柔らかく微笑み、鏡流は氷のように素っ気ない態度を崩すことはなかった。そのどれもこれもが前世に関係があると知っている丹楓は、白珠に向かってひとつ、謝罪を溢す。「すまなかった」と小さく俯いて、蚊の鳴くような声で言えば、彼女は「平気ですよ」と花が咲くように笑った。

「前世がどうであれ、あたしたちはもう一度巡り会えたんです! そんな悲しそうな顔、しないでくださいよ!」

 元気になったらまた皆で集まりましょう!

 ――その言葉に丹楓はおろか、鏡流や景元までも、救われていたのを覚えている。
 しかし、いち早く応星との邂逅を果たしていた景元から告げられた事実に、その陽気さは霧散したのだ。

 応星だけだった。この場にいない応星だけが、前世の記憶を持ち合わせていないのだ。白珠と知り合い、鏡流と剣を交え、景元と口論をし、丹楓と悪友と呼ばれた百冶の肩書きを持つ応星だけが、前世の記憶をひとつも持ち合わせていなかったのだ。

 その事実に純粋に喜びを見せていた白珠は口許を覆い、「そんな……」と絶句していた。こんなのあんまりです、と言って、目尻に涙を溜めていたのだ。それを鏡流が慰め、景元は丹楓に「どうしようか?」と問いかける。一か八かで顔を合わせてみるかどうか、彼はそれを丹楓に提案した。幼い応星と面識のある白珠や、応星と仲が良かった丹楓が顔を合わせれば記憶が揺さぶられるかもしれない、と言っていた。

 その提案に白珠は乗り気ではあったが、丹楓はたった一言だけ口にする。

「不要だ。何も覚えていないのなら、思い出させる必要など、ありはしない」

 そう言って、景元の提案をはね除け、静かに目を逸らした。乗り気だった白珠はがっくりと肩を落としたが、鏡流に「そう落ち込むことはない」と宥められて「確かに無理して思い出すものではないですね」と微笑む。前世の繋がりは絶たれたものの、思い出は自分たちの中にあるのだと言って、己を鼓舞していた。今世でも死に別れたわけではない。いつか新しい関係が築けないわけでもない。――それらが彼女を勇気づけて、心を奮い立たせていたのだろう。

 ――反面、丹楓は応星に前世の記憶がないことに安心感を抱いていた。

 今日は帰りますと告げて、身を翻した彼らを見送ってから、丹楓は己の胸元にそっと手を添える。服を軽く引っ張って、隙間の空いた襟首から胴体を眺めれば、直径三センチほどの奇妙な傷跡が刻まれていた。生まれ持っていたその跡を彼は一瞥してから、「忘れたままでいればいい」と独り言を洩らす。

 思えばこれが、応星にとって呪いのように降りかかっていたのだ。

 景元や白珠、鏡流は定期的に丹楓の元を訪ねて、他愛ない話をしてからその場を去った。前世で龍尊の力を分けた白露は、今世では白珠の親戚として生きているらしい。とっても愛らしいんですよ、手が小さくて――と笑っていた顔を、丹楓は天色の瞳に焼き付けていた。どうやら彼女もまた、前世の記憶を持ち合わせているようで、大人びた振る舞いを取ることが多いようだ。

 ここまで来ると誰も彼もが前世の記憶を持ち合わせているのではないか、と考えることが多くなった。その中で唯一記憶がないと言われているのは、丹楓が知る限りでは応星以外いなかった。
 彼はそれを吉兆だと思い、緩く笑みを浮かべる。応星には何も罪はない。応星が抱えるべき罪はどこにもないのだと、そうっと胸を撫で下ろしていた。景元から話を聞く限り、応星はこの街にいるという。丹楓は彼と極力顔を合わせることがないよう、立ち回るだけだった。

 一度だって顔を見れば、記憶の中に留まっているだけの、応星への感情が溢れてしまいそうだったから。人知れず抱え込んでしまった、彼への想いを再認識して、記憶がないことに胸が張り裂けてしまいそうだったから。
 だからこそ丹楓は、決して応星と相まみえることがないよう、尽力していたつもりだった。

 ――丹恒に仕組まれて、喫茶店で邂逅するまでは。

「――つまり、俺が刃に呼び出された理由が、お前に会わせることだってことか」
「そうだと余は考えている。でなければ、あれほど人払いが完璧にできている喫茶店など……存在してたまるものか」

 ふん、と鼻を鳴らし、丹楓は眉間にシワを寄せた。彼は傍らに置いた酒に酔っているわけでもなく、素面のまま応星と会話をしている。前世からそうであったように、丹楓は酒に強く、滅多なことが起こらない限りは、酔うことはないだろう。――それが、嘘偽りのない言葉であることの裏付けに思えて、応星は床に膝をついたまま、小さく目を逸らした。

 会いたいと思ってしまったのは、自分だけではないかと彼の中に不安が芽生える。丹楓は何があっても応星に会わないよう、立ち回ってきたのだ。それが、己の身内によって努力を打ち崩され、いとも容易く邂逅を成してしまうなど、丹楓にとって笑い話にもならないのだろう。応星に事情を告げた彼は酷く無愛想なまま腕を組み、応星の顔を見つめていた。

 夢の中で丹楓は応星に対して怒りを覚えていないと言っていたが、それが本心である保証はどこにもない。もしかすると、罪を押しつけた自分を、許してはいないのかもしれない――そんな不安が、応星の背後から忍び寄り、胸を刺す。自分で蒔いたはずの種だというのに、途方もない悲しみを覚えて、唇をぐっと噛み締めた。

 ――その様子を見かねたらしい丹楓は、呆れたように深く溜め息を吐き、「そのような顔をするな」と応星に手を伸ばす。白く、滑らかな指先が応星の輪郭を撫でた。

「これは、其方が前世を思い出さなかったときの話だ。今は違うだろう」

 恐らく刃は、応星が前世の記憶を思い出そうとしていることに気が付いたのだ。深い眠りに就いているはずなのに、日常に支障を来すほどの影響に、何らかの不便を抱いた結果――丹恒と手を組んだに違いない。

 接触を控えるように言ったのだが。――そう呟く丹楓の手を取って、応星は彼の存在を噛み締めるようにその手を握る。丹楓ははっきりと口にすることはなかったが、これからは応星と顔を合わせてくれるのだろう。素直じゃないな、なんて独りごちて、応星はふと、丹楓に目を向けた。

 前世と何ら変わりのない双眸。夜に溶け込むほどの黒い髪。前世とは違い、露わになった白い肌――その胸元に、自分と同じように刻まれた古い傷跡に、狂おしいほどの愛しさを覚える。以前、興味本位で調べて知ったツインレイという言葉を、今になって思い出してしまった。当時はそんなもの存在しているはずがないと思っていたが――、こうも目の前にしてしまうと、不思議なこともあるものだと受け入れてしまう。

 前世から恋い焦がれ、求めた存在が、今世では同じ人間として生きていることが、何よりも嬉しかった。

「――……ところでさっきの話、気になることがあったんだが、いいか?」
「何だ」

 目覚めたばかりの頭と胸が、急速に働き始めるのを振り切り、応星は彼の手をパッと離す。それを、丹楓は一瞥してから自分の元に引き寄せて、応星に応えた。

「白珠は言ったんだろ? 『元気になったらまた皆で集まりましょう』って。それはどういう意味だ?」

 丹楓が言っていた今までの話の中で、頭に引っ掛かる単語を拾い、応星は彼に問いかける。今世でも白珠の不幸体質は消えていないのかと不安を抱えたが、応星の心配を他所に丹楓は澄ました顔ではっきりと言った。

「ああ……余が車に跳ねられて数ヶ月ほど意識を失っていただけだ」

 それを知っていたからそう言ったのだろう。

 ――丹楓は思い返すように自分の斜め上に視線を投げて、懐かしそうに呟いた。そう心配するものではないだろうに、と首を縦に振り、相変わらず心配性だな、と何気なく口を洩らす。
 それに――応星は「は……?」と信じられないものを聞いたと言わんばかりに、言葉を洩らした。

 丹楓が車に跳ねられ、数ヶ月意識を失っていた。――その事実が応星の身を焦がし、彼に対する想いによって早鐘を打とうとした心臓が、急速に冷えて止まるような錯覚を得る。凝視する丹楓の体に傷跡は残されていない。あるのは、応星と共に貫かれたときに刻まれた、古い痕跡だけだ。跳ねられてしまった際にできるような外傷など、どこにも見当たらなかった。

 それでも丹楓は、衝撃で硬直する応星に事実を告げる。まるで隠してもどうせ無駄になると言わんばかりに、自分自身の口から全てを語った。

 ――丹楓が車に跳ねられたのは、この街に流れ着いてからそう時間が経っていない頃。幼い丹恒が彼の手元を離れ、道路に飛び出してしまったのだ。左右も確認せず、家に縛られていた少年は、身の危険が迫っていることも理解できず。その姿を見かねた丹楓は、無意識のうちに体を動かしてしまったのだという。

 守らなければならない。そう、たとえ何があっても。

 その先入観から彼は丹恒を連れて実家を飛び出した。己の命など惜しむこともないように、眼前に迫る車を前に、身動きが取れなくなった丹恒の体を抱き締め、自分の体で全ての衝撃を請け負った。
 その結果――丹恒は数日意識を失い、丹楓は数ヶ月ほど意識をなくしていたのだというのだ。

「どうやらそのときに丹恒は記憶が戻ったようでな……余が目を覚ましたときには既に、大人の顔をしていた」

 恐らく景元との接触も関係しているだろうが。
 そう言って丹楓は再び応星の顔を見やって、バツが悪そうに小さく眉を顰める。

「傷跡はない。どうやらこの体は堕ちて尚、龍尊に近いようだ。お陰で前世とそう変わらない見た目をしているだろう?」

 だからそんな顔をするな、と丹楓は再度応星に言い放った。応星は自分がどのような表情を浮かべているのか分からないが、丹楓が慣れない慰めをしてくるほど、酷い顔をしているのだろう。体調は万全ではないのだから、と続ける彼に、応星は唇をきゅっと結び、拳を握る。彼が危険な目に遭っていた頃にのうのうと生きていたのだと、酷い罪悪感が応星の胸に募った。

 ――しかし、それも全て過ぎ去ったこと。彼は首を左右に振って罪悪感を振り払ったあと、丹楓に「お前もその衝撃で前世を思い出したのか?」と問う。

「それとも、生まれ持って?」

 そう言葉を続けて丹楓の顔色を窺えば――丹楓は、今まで開いていた唇を結び、口を噤んだ。

 心なしか、無表情の中に薄く悲しみが見え隠れしているように見えて、応星は思わず彼の頬に手を伸ばす。つるりとした滑らかな感触を味わいながら、彼はそのままそっと、丹楓の顔を胸元に寄せた。
 そうでなければ今にも崩れてしまいそうな危うさがあったからだ。白百合のように凜とした佇まいをしていようとも、茎は容易く手折れてしまうように。少しでも今の丹楓に踏み込んでしまえば、ガラスが割れるように崩れてしまいそうだと、思ってしまったからだ。

 抱き寄せられた彼は何も言わず、抵抗することもなかった。ただ、応星の温もりを確かめるよう、彼の手に自分の手を添えて、縋るように服を握り締める。それが丹楓なりの最大の甘えだと、応星は踏み込まないままぽんぽんと軽く頭を撫でた。何も聞かないでおく、と言えば、彼は応星の胸の中で「ああ」と言う。心なしか、微かに震えているような気がした。

 丹楓も丹楓なりに何かがあったのだろう。それを聞き出すのはお門違いというもので。応星は数分間、ぼうっと夜空と庭を見つめていた。

 月明かりが広い庭をぼんやりと照らしている。月の高さと傾き具合からして、夜も更けているのだろう。さあさあと音を立てて揺れる木の葉の音に視線を向けると、聳え立つ楓がはらはらと木の葉を散らしていた。

 楓、或いは紅葉。呼び方は違えど、全く同じそれに、応星は好意を寄せていた。何故好意を寄せていたのか、今になってはっきりと気が付く。応星は無意識のうちに丹楓を好いていたのだと、堪らず失笑してしまった。どんなに女と関係を築こうが何だろうが、答えは初めから決まっていたのだ。長続きしないことも、振られてしまうことも、全てにおいて納得がいってしまった。

 ――そうして応星が丹楓を抱き寄せること数分。彼が小さく身動ぎをするものだから、応星は物足りなさそうにそっと手を離す。すっかり落ち着きを取り戻したような、相変わらずの無表情に流石だなと溢れそうになる賛美を胸に押し止め、「平気か?」と呟いた。

「ああ……応星、其方ももう、寝るといい。知らないだろうが、三日三晩眠り続けていたのだ。朝に起きなければできることもできんぞ」

 丹楓は応星の問いに首を縦に振ってから、吐息混じりに応星の現状を述べた。どうやら応星は気を失ったあと、自宅よりもこちらの家が近いと、この和風家屋に招かれたようだ。そしてそのまま、今までの疲労を掻き消すように深い眠りに就いていたのだ。応星の体を運んだ刃は、小さく鼻を鳴らして応星を一瞥してから、惜しむこともなくこの家を出て行ったのだという。

 丹楓から告げられた事実に応星は溜め息を吐いて、軽く頭を抱えた。三日、三日か、と独り言のように呟いて、溜めに溜めている仕事のことを思い出しては身の毛がよだつ。家の掃除ができていなければ、匠たちにまともな連絡も入れていない。刃が応星の身を案ずることなど皆無に等しく、家の状況がどうという近況報告など期待するだけ無駄だ。

 そう思えばやることなどいくらでも湧いてくる。彼は弟ではあるが、成人している身。一人でこなせることは多いだろうが、自分自身のためとなると途端に興味を失ったように蔑ろになるものだから、不安は拭えなかった。刃も何かに夢中になれればいいんだが、と応星はふと、顔を上げる。目の前には不思議そうにこちらを見る、綺麗な男がいた。

「――……」

 不安を抱えるのは悪いことではないが、とにかく今は丹楓の言う通りにするべきだろう。
 応星は顔を上げたあと、多少不安そうに顔を見上げてくる丹楓の手を取る。少しでも力を込めれば折れてしまいそうなほど頼りない腕を引いて、「抱いて寝てもいいか?」と問う。

「――だ……な、にを……!?」

「折角こうしてまた会えたんだ。今夜は丹楓、お前を抱き締めて眠りたい。それくらいは許してくれるだろ? 龍尊様?」

 驚き、目を丸くする丹楓に、応星は揶揄うような口調でそう言った。縁側に置き去りにされた酒瓶と、盃を後目に、応星は畳のある和室へと丹楓と共に入る。白い障子がぴんと貼られた襖を閉めて、逃げ道を塞いだ応星はその勢いのまま、布団へと寝転がった。
 もちろん、丹楓の体を抱き締めたまま、だ。

「不敬」

 べし、そんな擬音が似合う丹楓の攻撃に、応星は「いて」と声を上げる。揶揄うために紡いだ「龍尊様」の言葉に応えるよう、紡がれた彼の言葉は前世のものと全く同じものだ。龍尊である自分に対する尊敬の念が足りないと言わんばかりのそれに、応星はくつくつと笑う。腕を放せと言いたげにぺしぺしと叩き続けるものだから、応星はそれに応えて腕をほどいて――丹楓の頬を両手で包んだ。

「う、」
「一緒に寝てくれるだろ?」

 有無を言わさない応星に、丹楓の目が小さく細められた。それに拒絶もなければ、嫌悪もないことが彼にはよく分かる。何せ応星は、丹楓と悪友と呼ばれるほど、仲が良かったからだ。お陰で今日はよく寝られそうだ、なんて言えば、丹楓は「了承していない」と咄嗟に口を挟む。これは応星が勝手に決めているだけだと言って、何とか応星の手から逃れようと試みていた。

 その様子があまりにも愛らしくて、呑気に見守っていると。丹楓の黒髪から覗く片耳に、タッセルピアスが付いていることに気が付く。奇しくもそれは、応星が身につけているものと全く同じもので――。緩む口角を抑え、身動ぎをする丹楓の額に唇を寄せた。

「……な、……」

 驚いた顔。暗闇では分かりにくい上に、滅多に染まることのない頬の代わりに、丹楓の耳が僅かに赤く染まる。前世も照れたときは耳が赤くなりがちだったな、なんて懐かしさに想いを馳せながら、応星は丹楓の体を抱き寄せて布団をかぶった。

「断ることなんてないよな。俺は今世でも腕の良い職人なんだ、朝にはやることが沢山ある。しかも俺は病み上がりだ。この応星の頼みを蔑ろにするなんて、しないよな……?」

 布団をかぶって作り出した暗闇の中で、耳元に囁くように言えば。丹楓は悔しそうに口許をへの字に曲げて、その頭部を応星の胸元にトン、とぶつける。そうして「今夜だけだ」と呟くものだから、応星はフッと微笑んで静かに彼を抱き締めた。
 心臓がゆっくりと脈を打つ。丹楓の小さな呼吸が耳をくすぐる。夢ではない現実に、その存在を確かめるように後頭部へと手を回して、頭を小さく撫でた。意識は微睡み、ゆっくりと瞼が落ちる。今までとは異なる心地のいい微睡みの中で、応星は自分の背に回された彼の手を感じた。

 彼の手が応星の背を撫でる。あれだけはっきりとしていた意識が、次第に薄れていく。

 ――あの夢を見るかもしれないという不安は、もうどこにもなかった。