星は月の夢を見ていた


「本当によかったです~、体調も持ち直したようで」

 にこにこと朗らかな笑みを浮かべた停雲に、応星は愛想よく笑って「心配かけて悪かった」と呟く。すっかり傷跡もなくなった右手で頭を掻き、じっとこちらを見る彼女を見つめて首を傾げた。停雲は新緑の瞳を瞬かせながら嬉しそうに目を細め、「顔色がよくなりましたね」と言う。

 前世の記憶を取り戻し、丹楓との邂逅を果たした応星の生活は一変した。工房に顔を出して師匠やら匠たちに挨拶をしたときには、それはそれは大層驚かれ、寿命が縮んだと何度も言われてしまった。冗談になり得ないそれに両手を振って、そんなに心配するものでもないだろ、と告げたものの、思い切り置かれた手のひらは応星の髪を乱すよう、わしゃわしゃと頭を撫でる。それは、既に失った両親たちの手のひらによく似ていて、堪らず笑いが溢れてしまった。

 時間を見つけて景元にメッセージを送れば、数分後に『無事でよかった』と簡素な返事が送られてくる。彼も彼なりに応星のことを気にかけていたようで、体調を訊ねてきた他、身辺に変化はないかと応星に問いかけた。景元は前世の記憶を取り戻したあとの、応星の人間関係が崩れていないか、柄にもなく心配なのだろう。前世では生意気にも口答えをしていたのにな、なんて小さく笑って、応星は『何の心配もないぞ』と返す。

 そして、数回のやり取りのあとに、いつか全員で集まって酒を飲もうと約束を交わした。景元はやはり仕事が忙しく、時間を見つける暇がないのだ。今すぐにというにはいかないことは重々承知の上で、応星は了承した。今もなお、白珠や鏡流の現在を彼は知らないが、応星も応星で仕事が積み重なっており、少しばかり余裕が足りなかった。仕事が一息吐き次第近況をまた聞きに行こうと、応星は決意しながら工房と向き合っていた。形を整え、焼き、時には金継ぎと対面する。熱中する癖は直ることもなく、気が付けば日が沈んでいることもしばしば。

 それを繰り返すこと数日。すっかり葉が散った街中を見やって、立ち並ぶ自分の作品を彼は眺める。どれもこれも手塩にかけて育てた我が子のようなもの。しっかりと最後まで使い切ってくれる人に引き取られてほしいと思いながら、応星は携えた品物を停雲へと手渡した。

 割れないよう幾重に包装を施し、緩衝材に埋めて箱に収めたそれを、亭雲は静かに受け取る。「今回も丁寧なお仕事ですね」と笑う彼女に、応星は礼を言った。

「けれど、病み上がりなんですから無理はいけませんよ」
「それ、口煩く言われまくってるんだ。もう耳にタコができそうだ」
「あらあら、うふふ」

 皆さん、応星さんのことが好きなんですねぇ。

 冗談めかした様子で言えば、停雲は口許を軽く隠しながら笑って言った。そして、預かった品物を抱えて店の奥へ行くと言うものだから、応星はその背に「俺は用があるからもう行く」と告げる。すると、停雲は軽く振り返って小さく頭を下げた。それに応星も軽く会釈をして、店を後にする。

 街中を歩き、人通りを眺める応星はふと、空を見上げる。青い空に白い雲が転々と浮かんでいて、日差しは心地がいい。肌を撫でる風は冷たいものの、その日差しが彼の体温を支えてくれていた。それでも首元に入り込む冷風に、応星は両腕を抱える。そろそろマフラーだの何だのを用意するべきかと考え――、ほう、と息を吐く。
 街を歩きながら、銀杏の並木道を眺めたあとに視界に入る目的地に、彼は一度だけ目を閉じた。

「待たせたか?」

 ――そう呟く応星に、目的地である喫茶店の前にいた丹恒が、スマホから応星に目を向ける。灰青色の瞳に、短く切り揃えられた黒い髪。未だあどけなさの残る輪郭は丹楓よりも丸く、背もいくらか小さい。
 その丹恒が、首を左右に振って「いや」と呟く。伊達だか、度が入っているのかも分からない黒縁の眼鏡を取って「少し前に着いたばかりだ」と応星に告げた。

 その口振りはやはり、どこか丹楓に似ている。低く淡々としている様は感情もろくに込められていないが、それでも丹恒には丹恒の特徴がある気がした。兄弟だから似ているのは当然だと言えば当然なのだが、ほんの僅かな違いが丹楓と丹恒を上手く分けている。それに気が付けるのは応星だけか――それとも、応星と同じ存在であった刃もか。

「応星さん、中に入らないのか?」

 そう、不思議そうに首を傾げる丹恒に、応星は「やっぱりちょっと違うな」と呟く。首を縦に振って、納得するような仕草に丹恒は小さく眉を顰めていたが、応星は気にするなと言って喫茶店の扉に手をかけた。
 チリン、と来店を告げる鈴が頭上から鳴り響く。そして耳に届くクラシック音楽と、コーヒーの香りに静かに呼吸を落ち着けてから、目の前にいるそれに愛想笑いを向けた。

「…………」
「お? 随分と愛想のない店員だなぁ? 折角の雰囲気を損なう酷い奴がいるもんだな」
「……お、応星さん……」

 じと、と細められた目が応星を眺める。黄昏の色が混じる緋色の瞳が、敵意を剥き出しにしていた。白いシャツに、黒い前掛けエプロンはやはり応星の見立て通り、彼――刃によく似合っているものだ。

 刃は喫茶店に入ってきた応星を睨んだあと、流れるように丹恒へと視線を向ける。何故貴様がここにいるんだと言わんばかりの視線に、丹恒がバツが悪そうに目を逸らしたのを、応星は横目に見ていた。やはり彼らは何らかの面識があり、且つ丹楓が言った通り彼らはそれなりの関係があるのだろう。

 わざわざ手の込んだことを――そう思いながら、応星は丹恒を背に隠すように刃の前に立ち、「コーヒーをふたつ」と言った。右手で人差し指と中指を立てて、ピースのサインを送る。それに刃は嫌そうに顔を顰めていて、ぐっと唇を噛み締めた。

「ん? 客にそんな態度でいいのか?」

 にこにこと微笑みを浮かべながら応星は軽く首を傾げてみせる。敢えて存在を誇張するように「客」という言葉を使えば、彼は誰にでも聞こえるように舌打ちをしたあと、踵を返した。返事こそはしなかったが、応星の注文を受けたがためにコーヒーを用意しに行ったようだ。昼が過ぎて十四時を迎えた店内はとても静かで、一時間後にやってくる客のために仕込みを施しているようだった。

 そこにやってきた応星と丹恒は、苛立ちを隠しきれていない刃を見送ってから、席を探した。応星は丹恒の手を引き、店に入ってすぐに左へと曲がり、突き当たりの席へと連れて歩く。すると、席に近付くにつれて彼が小さく慌て始めるものだから、応星は悪戯っぽく笑いながら、「いいから」と言った。そこは、応星が丹楓と邂逅するために用意されていた席と、同じ場所だったからだ。

 突き当たりの席に辿り着き、座るように促せば、丹恒は怖ず怖ずと気まずそうにソファーへと座る。それを見送り、応星も同じように向かいの席に座ってから、頬杖を突いてじっと彼の顔を見つめていた。似ても似つかない灰青色の瞳が、藤紫色の瞳に射貫かれて微かに揺れる。体を強張らせて、きゅうっと結ばれた唇は、明らかに緊張を表していた。

「そんなに緊張することはないだろ。取って食うわけじゃないんだから」

 ふう、と息を吐き、応星は軽く手を振る。自分には悪意はないと言いたげな仕草を取るが、丹恒は身構えたまま。お陰で肩に提げているバッグも下ろすことはなく、居心地が悪そうに「分かってる」と呟く。
 薄群青の、学生特有のスクールバッグ。その先端にあるファスナーの手持ち部分に、赤い布がちらりと揺れる。血のように深い赤に、応星は見覚えがあって。――ああ、やっぱり「俺」だなぁ、と感慨深く思うのだ。

「――まず、俺は別に怒っちゃいない。寧ろ感謝してるくらいだ。わざわざ刃と手を組んで丹楓に会わせてくれたんだろ?」

 今日はその礼だよ。――そう言えば丹恒はちらりと応星に視線を投げ、「そんなことを言われる筋合いはない」と呟いた。

 応星と初めて会ったあの日。丹恒は既に前世の記憶を持っていて、刃との邂逅も済ませている。その中で刃の前世とも言える応星に会い、彼はその日のうちに丹楓に報告をしたのだ。お前の友人の、応星さんに会った、と。事前に話を聞いていた通り、前世は覚えていないようだったと。そのりんごも、応星さんにもらったものだとも言った。

 それが悪かったのだろう。丹楓は一度手にした赤い果実を丹恒に押し返し、覚束ない足取りで自室へと戻ってしまった。「応星にもらったもの」が丹楓を傷付ける材料になることを知ったのは、この日が初めてだった。

 彼は極力応星の存在を感じたくはないと言っていたが、何の縁か――数日後には再び応星との出会いを果たした丹恒は、応星の異変に目敏く気が付いてしまう。
 ――丹恒は刃と定期的に会うような関係だった。正確に言えば、刃が半ば無理矢理にも丹恒に会いに来ているようだった。行く先に見慣れた暗い髪と上背を見やって、呆れたように溜め息を吐く。そして、それを利用して応星の現状を、丹恒は刃から聞いていたのだ。

 酷くよそよそしい丹楓の態度。悪化し続ける応星の夢。――それらに互いに煩わしさを覚えた二人は、いっそのこと丹楓と応星を引き合わせてしまえばいいのでは、という結論に至る。

 そうして訪れたあの日。店の奥に隠れていた丹恒は、応星が倒れたその直後に慌てて姿を現したのだ。

「あのあと、丹楓にはこっぴどく叱られた。余計なことをしてくれたな、と……でも、俺はあれが最善だったと思う」

 申し訳なさそうに眉尻を下げながらぽつぽつと語る丹恒に、応星は黙って話を聞いていた。その間にやってきた刃は、見事音も立てずにカップとソーサーを二人の前に置くと、じっと応星を睨むように見つめる。そこにあるのは、二人の会話に対する好奇心でもなければ、何故ここに来たのかを咎める嫌悪でもない。

 ただひとつ。純粋な嫉妬が、応星を強く睨んでいた。

 一向に立ち去らない彼に、応星は堰を切ったかのようにふはっと笑い始める。くっくっと肩を震わせ、腹を抱え。何のことだかまるで理解に及んでいないかのように目を丸くする丹恒に、「本当に好みは似るんだなぁ」と涙を拭いながら言った。

「で? お前たちは付き合ってるのか?」

 もしそうならそう言ってくれて構わないぞ。

 そう言って応星は目の前に出されたカップの持ち手を握り、コーヒーを飲んだ。ほうほうと湧き立つ湯気に熱湯を連想したが、思いの外すんなり飲み下せるそれに、感嘆の息を吐く。これを淹れたのは刃か、はたまたまた別の店員か。――そう考えを巡らせていると、応星は目の前にいる丹恒が口をはくはくと動かし、開閉を繰り返していた。その顔は、丹楓とは違い、頬が赤く染まっている。

 丹恒は丹楓とは違ってすぐに羞恥が顔に出るのか、とコーヒーを堪能していると、彼は漸く「どうして」と呟いた。どうして分かったんだ、と小さく目を細める。その隣で刃は何でもないかのように澄ました顔をしているものだから、応星が気が付いた理由も分かっているのだろう。

 応星は持っていたカップをソーサーの上に戻したあと、すっと人差し指で彼のバッグを差す。そこに飾られている赤い飾りに、応星は確かに見覚えがあって、刃のことも指差した。

「それ、刃からもらったんだろ。――いや、押しつけられたって言った方が正しいか? こいつは素直に物事を口にするタチじゃないからな」
「……余計な」

 口許の端を上げ、応星はこの状況を楽しむように言った。刃の反応からして応星の憶測は外れてはいないのだろう。彼は幼い頃から口数も少なく、感情すらも希薄だ。その上、好意という好意を丹恒に口にするよりも、手が動いたに違いない。
 そして、それを突き返さず無くさないよう、目につく場所に飾っている丹恒は、彼を受け入れたのだろう。ピアスとしての機能をなくしたそれは、すっかり薄群青を彩る飾りへと姿を変えているが、どうやら刃は満足しているようだ。流石に学生という身分であるため、校則を破るようには見えない丹恒には、この状況に持ち込むのが精一杯だったのだろう。

 違うか、と応星は腕を組み、人当たりのいい笑みを浮かべた。それは、見る人が見れば圧をかけているようにも見えるが、当の本人にはその気は全くない。ただ、二人の関係性が気になって、返答を待っているだけである。

「……違わない」

 その答えを呟いたのは他でもない丹恒であり、刃はさも当然と言いたげに腕を組んでいた。それが客を目の前にして取る態度か、と告げてやろうかと思ったが、応星も応星で刃にはいくらか借りがある。いちいち店員としての態度にクレームを入れるよりも先に、彼は呆れたように「手は出してないだろうな」と刃に言った。

「……出したくとも出していない」
「刃、変なことを言わないでくれるか」

 流石の彼も未成年には手を出してしまうなどとは考えなかったようだ。応星は自分の身内が犯罪者にはなっていないという安心感を胸に、ほっと安堵の息を吐く。丹恒は頬を赤く染めながらコーヒーを口にしていて、羞恥心をどうにか掻き消そうと試みているようだった。

 ――刃に女の影がないのは、丹恒という存在を好いているからだろう。前世に両親を失い、故郷を追われた応星は、無意識のうちに家族というものに強い執着を抱いていた。今世でも両親を失った彼に残されたのは、たった一人の弟で。もう二度と血の繋がりを失いたくないがために、応星は自分を蔑ろにしてまで奮闘してきた。職人の道に進んだのもきっと、前世が強い影響を与えていたのだろう。

 彼が力尽くで縛り付け、抱えていた弟は、いずれあの家を出て行く。それもきっと、最愛を傍に置いておくに違いない。何故なら刃は、他でもない応星だったのだから。

「――さて、初々しい二人を置いて俺はお暇させてもらうかな」

 ふ、と微笑み、応星は席を立ちながら刃に手を差し出した。彼が携えている黒いバインダーに挟まっているであろう伝票を寄越せ、という意味を込めたそれに、刃は難なく応える。レシートを表にしないよう、黒いバインダーで隠しながら差し出されたそれに、丹恒がハッとした様子で勢いよくバッグへと手を伸ばした。

「あの、俺の分」

 自分の分は自分で払うと言いたげに開かれた口を、刃が人差し指で押し止める。おーおー、いちゃついてくれるねえ、と野次を飛ばしながら応星は言った。

「こういうもんは素直に受け取ってくれ。年下に出させるわけにもいかないし、これからも世話になるからな」

 そう言って軽く手を振ってその場を後にした応星に、丹恒は目を丸くしてからその場に留まっていたようだ。応星の後を追う形でついてきた刃に会計を頼み、彼は懐から小ぶりの財布を取り出す。下手に長財布に手を出せば違和感が伴うからと、何年も使い古した親しみのある財布は今もなお手に馴染む。

 小銭を取り出して、二人分の料金を払う。レシートは、という言葉に、いらない、と言えば刃はそれをくしゃりと握り潰した。

「満足か、応星」

 ぎっ、と獣のように鋭い瞳が、応星の体を射貫く。あからさまな敵意と、嫉妬が渦巻くそれに応星はほくそ笑んで「そんな顔をするなよ」と彼を宥めた。

「お前は本当に俺によく似てるな。少なくとも俺は、丹恒に手を出すことなんてしないからな? 変な解釈はやめろ」

 嫉妬深い男は嫌われるぞ?

 揶揄うように笑い、肩を叩けば、刃は鬱陶しそうに応星の手を払う。そして、「どの口が言っている」と、応星を見透かしたかのような一言を言い放った。まるで、嫉妬深いのはどちらだと言いたげなそれに、応星の手が一瞬だけ強張る。
 しかし、すぐに振り払われた手を軽く振って、「分かったよ」と呆れたように呟いてから、踵を返した。どうやら揶揄いすぎるのはよくないようだ。

 喫茶店の扉を開き、冷たい風に小さく身震いをする。何の気なしに振り返って店内を見れば、刃の姿はそこにはなかった。店内に戻ったか、丹恒の元へ向かったのか――生憎、応星には見当もつかない。我ながら厄介な人間性だな、と視線を空に戻し、ほう、と吐息を吐いて応星は目を閉じる。人の流れ、木の葉が擦れる枯れ枝。車のエンジン音、いくつもの足音。――どれもが生を実感させてくれるもので、「俺は生きてるのか」と彼は何気ない呟きを溢した。

「――応星」

 ――すると突然、ぼうっと空を仰ぐ応星に聞き慣れた低い声が投げかけられる。それは、どんな騒音の中でも応星の耳に届き、いつだって応星の名前を呼んだ。その声がした方に顔を向けると、首元まですっかり衣服に身を包んだ丹楓が、不思議そうな顔で応星を見上げている。

 暗い色無地の着物に黒い襟が顔を覗かせていた。彼の首元を寒さから守るためのその服を、着物を街中で見かけることの少ない応星は、物珍しそうに丹楓をじっと見つめる。和風家屋に、着物。丹恒とは違って和に包まれた丹楓の姿は、応星の目を惹きつけるのに十分すぎた。

「……丹楓。どうしたんだ、こんなところで」

 よく似合っている、という賞賛を呑み込み、応星は小首を傾げる。羽織を羽織っているが、どうにも寒そうに震える丹楓に近付いて、多少の風除けになりながらも丹楓の言葉を待った。
 彼の容姿は良くも悪くも周りの目を惹く。その視線避けも兼ねて丹楓に近付いたが、肝心の彼はその真意には気が付いていないようだ。

「酒が飲みたいんだが、家になくてな。流石に学生である丹恒に、買いに行かせるわけにもいかないだろう」

 わざわざこうして出歩いてきた。そう言ってそそくさと応星の体にすり寄り、丹楓は暖を取る。いくら冬に差しかかっているとはいえ、日差しは出ているし、まだ暖かい方ではあるが――どうしても体温の低い彼には耐えられないのだろう。カタカタと小さく震えている丹楓に手を伸ばし、頬を包めば、彼の頬はすっかり冷え切っていた。

 酒が飲みたいが、家にひとつもない。だから自分で買いに出たはいいものの、あまりにも寒いのでどうしようかと悩んでいたようだ。丁度その頃に応星が喫茶店から出て、ぼんやりと空を眺めているものだから、声をかけたのだという。

 丁度いいから付き合えと、有無も言わさない丹楓の言葉に、応星は微笑みで返した。元より応星に丹楓からの誘いを断るという選択肢などなく、付き合えと言われなくとも身勝手に彼の傍を歩くつもりでいたのだ。その違いは、丹楓が応星を必要としているか否かであり、声をかけられた応星は、体が満たされるほどの優越感に浸る。他でもない丹楓が、こうして自分を求めているという事実に、心が躍るのだ。

「俺も大概だな」
「何がだ」

 ふ、と肩を竦めて独りごちれば、丹楓は不思議そうに応星を見上げた。その瞳は秋晴れの空と同じように青く、いやに綺麗な空の色をしている。そこに、応星を避けるという考えは全く見当たらなかった。

「独り言だ……酒は俺が選ぶので大丈夫か?」

 丹楓から手を離し、応星は素朴な疑問を洩らした。前世では応星が丹楓に酒を持ち寄ることが主だったが、今世ではそうもいかない。彼には彼の好みがあり、応星には応星の好みがあるのだ。応星が適当に選んだものが、丹楓の苦手な味だった、なんてことが起これば、彼は罪悪感と後悔に苛まれるだろう。

 ――しかし、そんな応星の懸念を他所に丹楓は「構わない」と言った。

「久し振りに応星が選んだものが飲みたい」

 そう言って、無自覚に応星を喜ばせるものだから、応星は小さく顔を顰める。今すぐにでもどうにかしてしまいたい衝動を抑え込んで、「そうか」とやっとの思いで呟きながら、丹楓の手を取った。こうすれば手が温まるだろ、と言って、軽く指を絡める。すると、丹楓は「ぬくい」と呟き、握る手に力を込めた。

 意図的か。はたまた無自覚か。そんな考えを頭の片隅に追いやって、気を紛らすよう「そういや、よく俺だって分かったな」なんて言えば、丹楓は「愚問だな」と言う。

「応星、余は以前から其方の、星に染まった髪色を好いているのだ。夜空に瞬く星の煌めきを、余が見紛うことなど――ありはしない」

 そうはっきりと、言われてしまって。応星は口許をそっと空いている片手で覆い隠しながら、なるほどな、と口を溢す。
 ドクドクと胸の奥で五月蠅く騒ぎ立てる鼓動。――それは、女と付き合っていたときには決して味わえなかった脈動。今世でも応星は月に魅入られ、それを追い求めるのだろう。

「……俺も一緒に飲んでいいか」

 ぽつりと呟かれた言葉。それに、丹楓は澄ました顔で、「当然だ」と言い放つ。一体何を遠慮しているのだ、と丹楓は訝しげな顔で応星に問いかけていた。
 ――もう周りの目など気にすることもない。彼との邂逅を、咎める人物もいない。

「ああ、そうだったな。俺とお前に遠慮なんていらないか」

 丹楓の返事に応星は笑って、再び空を見上げた。
 冬に傾き始めた青い空。日が高く昇るそこに、白い月が微かに浮かぶ。今夜は天気が崩れる心配はないだろう。仮に天気が崩れたとしても、何も問題はない。応星にとっての月はもう、自分の傍らにあるのだから。

 彼らは冷たい風に背押されるままに歩き、人の波に足を踏み入れる。穏やかに笑い合う二人の姿を、淡い月だけが優しく見守っていた。