春先の憂鬱

 ――時折自分の力だけではどうしようもないほど、途方もない喪失感に苛まれる。頭の中で考えをまとめようにも、考えていたことが遠く、他人事に思えるほど頭が働かなくなる。気持ちの整理をしようとも、細い糸がいくつも絡まってしまい、がんじがらめになってほどけないよう、蟠りが募るだけだった。
 体は重く、肩から下は鉛でもぶら下がっているのではないかと思えるほど。それが、どうしようもない虚無感であることは明白だった。
 だから何をするにも身が入らない。明日のことを考えようにも、頭に靄がかかったように白んで、気が付けば放心していることが殆どだ。どこかへ歩いて行こうにも足取りは重く、唇の間を割って出てくるのは溜め息ばかり。
 つい先程、彼はナビゲーターの意思により非番を与えられた。それどころかイスタバンにまで休めなどと言われ、協力関係にあるタキやクスッタにまでほんのり体を心配されるほどだ。
 彼はそれに渋々頷き、自室で黙々と研究に没頭していた――筈だった。
 しかし、現実は理想通りにはいかず、彼は外科医時代を思い出すようにメスを持って、ぼんやりと窓の向こうを眺めるだけ。
 何をするにも酷い倦怠感が体にのし掛かった。
 ――そんなときに雨が降り始めるものだから、彼は人知れず、席を立った。

 休みを与えられて間もないと思っていたが、実際はもう数時間も前のことだったようだ。与えられた自室から出てみれば、日はすっかり沈み、辺りは静けさに包まれている。何故空を見て日が落ちたことに気が付かなかったのかと頭を抱えたくなるほど、当たり前のことに驚きすら覚えた。
 日中は光霊達で賑やかである巨像の中は、夜になるとすっかり静まり返っている。日差しが差し込んでいた廊下には、蛍灯の明かりだけが穏やかに漂っているだけ。そして、少しずつ強くなっていく雨音が巨像の中で響き渡るのだ。
 ざあざあと音を立てて降り頻る雨を目指し、ワタリは重い足取りで歩を進める。ひとつ、またひとつと床を踏み締め、漸く出入り口に辿り着いた頃には雨が酷くなっていた。草原が広がる心地好い大地には、大小様々な水溜まりができている。水溜まりに落ちる度に水が弾けるのを見ると、雨粒のひとつひとつが大きいのだとよく分かった。

 普段のワタリなら決して雨に飛び込むなどしなかっただろう。
 ――しかし、今日の彼は酷く憂鬱で、ただぼんやりと雨に打たれたい気分だった。

 雲が重なり合い、日が沈んで黒く見える曇天の下にワタリは足を踏み出した。勢いのいい雨は巨像から出てきたワタリの体を瞬く間に濡らしていく。風は特に感じられない。頭や体を強く打ち付ける雨が今日ばかりは不快にはならなかった。
 しとどに濡れた体では何をするにも気力が湧かない。彼は自分がどうしようもなく無気力であることを、雨の所為にして空を仰ぐ。胸の奥の蟠りはどれだけ時間が経とうが、晴れることはない。まるでこの空のように黒く、暗く、重苦しいばかりだ。
 そうしてふと、忘れていた感情を取り戻すと、妙に目頭が熱くなった気がして、ワタリはぐっと拳を握る。泣くだなんて突拍子もなく、そして有り得ない話だ。この気候が悪いのだと決め付けて、深く息を吸った。
 深呼吸を繰り返すと、漸く気持ちが落ち着いてくる。時間にしてたった数分のことではあるが、その数分の合間にワタリの体はすっかり水浸しになってしまった。辺りの服が体に張り付いてきて心地が悪い。
 ワタリは視線を戻し、ただ口を閉ざしたまま踵を返す。普段なら軽々と翻る彼の上着は、雨に晒された所為か、重そうに小さく弧を描くだけだった。
 そうしてざあざあとけたたましく鳴り渡る雨を背に、彼は巨像の中へと戻る。水を含んでぬかるんだ地面を踏み締めた後に巨像へ戻るのに、多少の申し訳なさを思いながら。
 後で掃除をしてやろう。そう思い出入り口に足を踏み入れ、コツ、と踏み鳴らした後。彼は「あ、」と小さく呟きを洩らした。

 体を拭くものを用意しておけばよかった。

 仄かに明かりが照らす出入り口には、体を拭けるタオルのひとつもない。ずぶ濡れになってしまったワタリの足元は、ぱたぱたと水が滴り、少しずつ水溜まりを作り上げていく。冷えきった体には濡れた服があまりにも冷たく、寒気が背筋を伝った気がして、小さく震えた。
 酷く落ち込んだ気持ちでは、自分が外に出た痕跡も、廊下を歩いた痕跡も残したくはない。しかし、体を拭くものがない以上、ワタリが出歩いた形跡が残されてしまう。
 一体どうしたものか。ワタリは無表情のままぼんやりと床を見つめて、頭を悩ませる。このままでいれば風邪を引きかねない。いくら春先になったとはいえ、天気が変わりやすく、気温も上下しやすい。彼は光霊であり、暗殺者であり、元医者だ。体調を崩すことをなるべく避けたいと思っているのだが――夜も更けた時間帯では、誰も出入り口を通ることはないのだ。

「…………参ったな……」

 どうしようか悩んでいると、雨に打たれて紛れた妙な喪失感がふつふつと湧いてくる。胸の奥に溜まる蟠りも、体の重さも、少しずつ元に戻っていくようだった。
 体を襲う無気力感を味わいたいなど、ワタリが思う筈もない。どうにかしてこんな気怠さを投げ捨ててやりたいと思っているのだが、その方法がまるで見当たらない。体を動かしたり、研究に没頭したりするだけでは足りない何かを満たすまでは、到底現状から抜け出せないように思えてしまった。
 そうして再び可笑しな寂しさを覚えるものだから、ワタリはぐっと拳を握り始める。何かを圧し殺すように、唇を強く結んだ。

「――ウォン!」

 ――唐突に掛けられた鳴き声にワタリは肩を震わせた。静かで雨音しか聞こえない巨像で、あまりにも突然のことにワタリの心臓がドクドクと脈打つ。無意識に胸元に手を添えながらそろ、と声のした方に目を向けると、二頭の狼がワタリに向かって駆け寄って来ているのが見えた。
 白い毛並みに空のように澄んだ浅葱色の瞳。どこかの誰かを彷彿とさせてくるその容姿に、妙に胸が騒いだ。彼らは啓光の第二軍団長、バートンの訓練を受けた特別な狼達だ。戦闘に関しては単なる狼よりも抜きん出た才能を持っている賢い狼達。
 そんな狼達がワタリに駆け寄ると、妙に馴れ馴れしく――懐いたようにくるくると足元の周りを回って、その場に腰を下ろした。
 名前はウルヴとヴィートだ。主人であるバートンがそう呼んでいたのを、ワタリはよく覚えている。飼い犬は飼い主によく似ると言うが、狼達も同じなのだろうか――その風貌はまさにバートンの姿を思い出させてくる。
 しかし、彼がワタリに懐いていたかどうかは話は別だ。

「…………あんた達は寝なくていいのか」

 その場に屈むこともせず、ワタリは足元に腰を下ろす狼を見て小さく呟いた。抑揚をつけて話をした筈ではあったが、思ったよりも声色は淡々としていた。一日中口を開いていなかった所為か――喉の奥から出てきた声は、僅かに掠れているようだった。
 そんなことは露知らず。ウルヴとヴィートはワタリが何を言おうともその場を動くことはない。ワタリから滴る水が少しずつ水溜まりを増やしていくのにも拘わらず、彼らはワタリを見上げて座ったままだ。このままでは足が濡れかねない。
 どうしたものかとワタリが考えを張り巡らせていると、ふとあることに気が付いた。寧ろ今まで気が付かなかったことが不思議なくらいだ。
 ウルヴの口許にはビニール袋に詰められたタオルが入っていて、それをワタリに差し出している。どちらも青い瞳をじっとワタリに向けていて、受け取れと言わんばかりの圧を掛けているようだった。
 ワタリが雨に濡れているのを見越して用意してきたのだろうか――なんてありもしない考えをして、普段なら受け取ることのないそれに手を伸ばす。布地を直接口にしないよう袋越しに用意されたタオルは、ワタリの潔癖性を考慮してのことだろう。
 彼はそれを受け取り、何も言わずに袋の口を開けた。中にある白いタオルは新品のもの。黒い手袋越しにそうっと触れてみると、柔らかな生地が彼の手を包む。
 誰もいないことを確認して出てきた巨像だ。恐らく、外にいる間に目撃されてしまったのだろう。それも運悪くバートンに、だ。

 彼は根っからの戦闘マニアだ。同じ属性の光力を持つからと、共に戦場へ向かうことの多いワタリは、バートンの性格を嫌というほど理解している。自分の戦いの邪魔になるというのなら、目の前からそれを排除して暗鬼と戦う始末だ。
 かくいうワタリは体の調子が悪いばかりに、バートンの怒りを刺激してしまった。巨像にいる間くらいはなるべく波風立てないよう、極力配慮はしていたつもりだが、やはり避けられようもない事態に陥ってしまったのだ。
 己の不注意でイスタバンに何らかの損害を与えないように――と思っていたが、逆に自分の所為で迷惑を掛けてしまった。

 そのことも相まって酷く億劫であったのだが――目の前のそれに、ワタリは思考を放棄する。

 そして――

「…………ウルヴにヴィート。少しだけ、頼まれてくれるか」

 ――手中に収まった無愛想な優しさを、全身に浴びたくなってしまった。