扉を開けてほんの少し嫌そうに眉を顰めるバートンに、ワタリは視線を投げ続けた。――いや、正確には顔を上げているが、視線は足元に落としたまま。何もせずただぼんやりと立ち尽くした状態で、彼はバートンの苛立ちがこもる視線を一心に受けていた。
ワタリの手元には与えられたタオルがひとつ。濡れた形跡もなく、柔らかさを保ったまま彼の手に握られている。その分、髪や服の裾から滴り落ちる水滴は、彼が歩いた形跡をぽつぽつと残していった。足元にはウルヴとヴィートが静かに腰を下ろしていて、ワタリやバートンの顔をじっと見上げている。
狼達の案内を辿って着いたのは他でもないバートンの部屋だ。非常に足取りは重く、何も考えないように努めている筈の頭では嫌な記憶ばかりが思い浮かんでしまう。それらを一蹴してもらうべく、辿り着いたバートンの部屋の前で、ワタリは立ち尽くしていた。
狼達の帰宅に扉を開けたバートンはワタリの顔を見るや否や、どこか迷惑そうな顔をした。当然日中の出来事が腹立たしく思えての表情だろう。彼は善くも悪くも態度に出やすく、ワタリにとっては比較的扱いやすい人物でもあった。
そんな彼に掛ける言葉も見付からず、ワタリはぼうっと立ち尽くしているのだった。
「何しに来やがった。用がねぇなら帰れ」
そんなワタリに掛けられたのは突き放すような一言。無愛想で飾りのない冷たい言葉だ。まさにバートンの性格通り、と言えそうな言動に、ワタリは一周回って安心感すらも覚える。
このままでいい。そう思いながらワタリは彼の言葉を待った。引き返せと言われ、部屋に戻ることを押されて、渋々戻れれば明日には元通りになる筈なのだ。
ウルヴとヴィートはやけに不安そうな目を向けているが、彼は何も言わず、バートンの言葉だけを待っていた。
そして――不意にやって来たバートンの手が頬を掠めたのを見て、徐に身を引いてしまった。
「な、何だ」
「何だはこっちの台詞だ。そこに突っ立ってんなら入れ、邪魔くせぇ」
体を引いた筈なのに、手を引かれてワタリは部屋の中に入ってしまう。それに倣うように狼達もバートンの部屋に入り、一目散に寝具の方へと走っていった。まるでこうなることが分かっていたかのように、だ。
体勢を崩しながら入った部屋は至って普通の部屋だった。白い軍用コートが掛けられ、手入れされた後であろう銃や刀が立て掛けられている。小さな机には広げられたままのチェス盤があり、誰かと対局していたかのような形跡が残っていた。
他人の部屋に入ることのないワタリはその部屋を不思議そうに見渡した。部屋の造りは然程変わらない筈なのに、家具の配置や部屋の主によって姿を変える部屋が、この上なく珍しかった。機能性だけを重視した、という点においてはそれとなく親近感が湧く。
そんな部屋にどうして招かれたのだと疑問がふつふつと湧き出てきた。
うんざりした顔付きのバートンは、ワタリの手からタオルを奪い取り、頭に投げ付けてその上から手を載せる。数十センチ高いバートンの手が頭上から落ちてきて、彼は「う、」と声を上げた。ぐしゃぐしゃと乱暴に撫で付けるような手付きは頭を拭いてくれているようだ。
「人の部屋の前に水落としやがって。大人しく部屋に戻ればよかったんだ」
「…………あんた、見てたのか」
「あぁ? 何のことだか」
触れられたくない筈の手を避けず、大人しく拭かれているワタリにバートンは一瞬だけ体が強張る。それに気が付いたワタリは、タオルの隙間からちらりと彼の顔を見上げたが、すぐに顔を隠され頭を回される。
乱暴な手付きだというのに、その手がやけに心地好くて――ワタリは抵抗もせずにそれを受け入れ続けた。
バートンがわざわざ彼の頭を拭き出したのは、滴り落ちる水滴が気になって仕方がないからだろう。外では未だにけたたましい音を立てて雨が降り頻っている。しかし、他人がいるとどうもその音が遠く聞こえていて、少しずつ心が落ち着いてくるようだった。
そんなことも相まってか、左右に小さく揺らされるワタリの目に、僅かな眠気が見え隠れする。
漸く拭き終わる頃にバートンはタオルをそのままワタリに掛けて、「あとは自分で拭いてろ」と言った。その足取りで机の上にあるチェスへと向かい、椅子に座ってじっとそれを見つめる。ひとつ駒を取り、悩むような仕草を見せてから――コツン、と音を立ててチェスを進め始めた。
戦略を立てるのにチェスは向いているらしい。ナビゲーターが驚いた様子でバートンが一人チェスをすることを、ワタリに教えてきた。その当時のワタリは特別興味はなかったが、実際に目の前にすると感慨深く思えてしまう。
こんなこともあるもんだな、なんて思いながらワタリは足を動かした。寝具の傍で寝そべっている狼達に飛び込んで、その毛並みを堪能する。潔癖の顔が今日ばかりはすっかり鳴りを潜めていて、毛皮越しの体温が酷く心地好かった。
ウルヴとヴィートは揃ってワタリの様子を不思議そうに見つめてから、彼の頭に顔を載せる。ワタリの抵抗はない。――そんな姿を見て、バートンは「何してんだ」と呟いた。
「寝るならてめぇの部屋で行けよ」
「…………ああ……」
「……おい、先生。話聞いてんのか」
「………………ああ」
狼達を枕にして深呼吸を繰り返すと、獣の匂いが鼻を突いたが、どっと押し寄せてくる眠気には耐えられない。ワタリの奇行に目を疑ったバートンは頻りに声を掛ける。
しかし、当のワタリはすっかり目を閉じたまま生返事をするだけだった。
降り続ける雨音が彼にとっては子守唄も同然なのだろう。呼吸をして上下に動く胸元がゆっくりと、深く、動く。今にも眠りに落ちてしまいそうなワタリは、何とか意地で小さな意識を保っていた。
しかし、彼よりも早く眠りに落ちている狼達の腹はいやに心地好く、その抵抗はあまりにも虚しい。
それでもワタリは小さく唇を開き、呟く。
「……日中は、足を引っ張って……悪かった……」
「あ?」
普段から戦闘を共にすることが多い――だからこそ、手に取るように互いの考えていることがよく分かる。誰がどう動きたいのか、ナビゲーターの指揮に従いながらどう戦うのか。それ故に調子が悪いときに足を引っ張られてしまうとなると――腹を立ててしまうことも。
その所為で日常に支障が出るのは仕事にも影響が出かねない。それだけは避けていたいため、彼は小さく言葉を口にしたのだ。
バートンは大して気にしていない――のではなく、過ぎたことは気にしていても仕方がない、と言いたげに「もう過ぎたことだ」と呟いた。――直後に駒を置く音が鳴る。
コツン、とある一定の間隔を開けてから鳴る音が、更にワタリの眠気を掻き立てる――。
「……バートン……」
「何だよ」
吐息交じりのワタリの言葉に、バートンは舌打ちを溢しながら答えた。少しでも自分の邪魔をされたくない様子だ。
そんなことも露知らずに、ワタリは目を閉じたまま言葉を洩らす。
「十分……したら、起こしてく…………」
「……先生」
「………………」
「……先生……おい、ワタリ…………チッ、くそ……!」
言葉を言い切ることもなく、ワタリの意識はすっかり眠りに落ちてしまう。
そんな様子を見かねたバートンは――頭を掻いてチェスを放り投げるのだった。