桜にすらも譲れない

 燃えるようなどす黒い感情を、人は「嫉妬」と呼んだ。

 春の訪れに誰もがハメを外した昼下がり。未だ日が高く昇ったままの空だというのに、外では既に頬が赤く染まった光霊達が笑い合っていた。暖かな陽気に華やかな桜の木。風が吹く度に軽やかに舞い踊る花びらに、辺りから響く声は、ナビゲーターの心身を癒やした。
 たまにはこういう日も悪くはないと、首を縦に振る。幾多の暗鬼達との戦闘を終えた後の花見は、やたらと居心地が良かった。誰も彼もが楽しそうに笑い合っているからだろうか――彼も楽しくて仕方がないのだ。
 無論、ワタリもその一人の筈だった。昼間から飲む酒は特別酔いやすいものではないが、景色を変えるだけでほんの少し心持ちが変わる。時には飲み方を変えるのも、ストレスの緩和に繋がるであろうと思い立っての参加だった。
 外での飲食は、風や砂埃、桜の花びら等の衛生面から言えば不快極まりないが、それでも替えがたい価値はある。自分の周りにだけ清潔を保ちながら花見酒を堪能するのも悪くはない。

 そう思って、ナビゲーターの誘いに珍しく応じようとしたが――現実はそう甘くはなかった。

 巨像の中で取り残されたワタリは、自室――ではなく、バートンの部屋でじっとそれを見ていた。寝具に組み敷かれた彼は酷く不愉快そうに眉を顰めているが、特別文句や嫌味を言うことはない。いくらワタリが頬に手を伸ばし、無言で見つめようとも、唇をへの字に曲げたまま彼を振り払うこともなかった。
 ワタリは無言のままバートンの目元へ手を伸ばして、その異常を自分の瞳に映す。普段なら真昼の空のように澄んだ水色の瞳が、何故だか片方だけ赤く染まっていたのだ。

「痛みは?」

 瞳孔、視力。異常が起きそうなことを徹底的に確認して、彼はバートンに問い掛ける。バートンは暫くの間仏頂面にしていたが、やがて小さく唇を開くと無愛想に「ねえ」とだけ呟いた。
 彼は相変わらずワタリの下で寝具に横たわっているが、抵抗をする気配は一切見せない。ただ大人しく診察を受ける患者のように静かで、普段の闘争心はまるでなかった。
 ――可笑しい。そんな思いがワタリの胸に募る。バートンは誰もが認める程の戦闘マニアだ。気性は荒く、大人しくしていられるような人物には見られない。
 ――それがワタリの抱く彼の印象であったが、実際は異なるよう。
 痛みはなしか。そう言ってワタリはほんのり考える素振りを見せてから、何気なく人差し指と中指を突き立ててバートンの前に差し出した。

「本数は?」
「……二本」

 特別認識についても問題はないようだ。
 ワタリは差し出していた手を引いて再び考えるような素振りを見せる。小さく首を傾げ、眉を顰めてから何が原因なのかを考えた。
 ――とは言え、ワタリ自身に思い当たる節などどこにもないのだが――目の前に倒れているバートンの言動が可笑しかったことはよく覚えている。

 彼は通常通りに朝を迎えた。早起きは健康にいいことから、習慣になった早朝の空を眺めるのはどこか心地がいい。日が昇る前に窓から空を眺め、日の出を眺めるのも珍しくはない。
 そのあとは普段のように酒場へと向かい、道中ナビゲーターの話を聞いて、代わり映えのしない一日を迎える筈だった。

 ワタリが光霊達との何気ない会話を邪魔されるまでは。

 後方から伸びてきた手が、ワタリの肩を掴んでぐっと体を引き寄せた。体が傾く感覚のあとに何かに寄り掛かるような感覚が、彼の体に伝う。柔らかくも厚手の白い生地には見たことがあって、何も理解できないまま顔を上げれば酷く不機嫌そうなバートンが確かにそこにいた。
 何を話すわけでも、何をするわけでもない。今日は桜が綺麗だから、と言葉を続けていたナビゲーターでさえも言葉を失い、息を呑む。明らかに敵意を撒き散らしている彼の瞳が、燃える炎のように赤く煌めいていたからだ。

 バートンはワタリの手を取って無愛想のまま休憩室を出た。もちろん、花見の話は、彼にはなかったことになってしまう。珍しく話に乗ろうとしたのが悪かったのか――、ほんのり不愉快に思いながらもワタリは好奇心をそそられる。
 一体どんな異常が起こり、バートンの片目が赤く染まってしまったのか。元医者としては目に見える異常を目の前にしてしまっては、好奇心が抑えられない。
 彼が連れて来られたのはバートンの部屋だった。無造作に扉を開けて、押し込められる形で部屋へと招かれる。特別綺麗だと誇張して言える部屋ではないが、汚いとも言い難い無難な一室。狼達の姿はなく、部屋にはワタリとバートンの二人だけだった。
 バートンは肩で息をしているかのように呼吸が荒く、上手く頭が働いていないようだ。乱暴に軍帽を投げ捨て、ぐしゃぐしゃと白い髪を掻いたかと思えば、「くそ……ッ!」と声を荒らげる。普段から理性的に動く人間ではないと思ってはいたが、今日は酷く衝動的に動いているように見えた。
 バートン自身も上手く自分を制御しきれないのだろう。独り言のように何かを呟いては頭を押さえ、苛立ちを露わにしていた。

 ――興奮と、動揺が入り交じっているようだった。連れてきたにも拘わらず、バートンはワタリの存在をすっかり忘れているように見える。
 まるで隙だらけだった。
 ワタリは音もなくバートンに近付き、軽く胸ぐらを掴む。そしてそのままバートンの体を寝具の上に叩きつける形で押し倒し、じっとその目を見つめた。

 ――そうしてワタリの軽い診察が始まったのだった。

 念のために確認した視界に問題がなければ、痛みもないと彼は言う。大人しそうにワタリに押し倒されたままじっとそれを見つめる様は、普段のバートンを知っている光霊からすれば物珍しい光景だ。
 かくいうワタリも巨像に招かれてから何度か同行することの多かったバートンの姿を知っているため、現状に違和感を覚えてしまう。大人しく押し倒されたまま、抵抗もない彼の姿は非常に不気味でしかなかった。目付きこそは普段のように無愛想であるものの、投げ出された四肢はワタリを退かそうとはしないのだ。
 一体何が原因だろうか。
 あまりの静けさに彼は何かを言おうと唇を開いたが、紡ぐ言葉も思い浮かばずにゆっくりと唇を閉ざす。良くも悪くも同行することが多く、それなりに仲を深めていた――という錯覚を覚えていた――が、やはり知らないことの方が多かった。
 啓光の第二軍団長。戦闘マニアで常に血の気が多い男。
 ――結局ワタリが知っているバートンは、それだけの人間でしかなかった。

「…………それで? わざわざ俺を部屋に連れ込んだ理由は何だ?」

 はあ、と深い溜め息を吐きながらワタリは眼下にいるバートンに問い掛ける。折角の誘いを無下にされたことが多少気に食わないこともあり、彼の口調は無愛想そのものだ。
 バートンもそれを痛感しているのか、バツが悪そうに一度だけワタリから視線を逸らす。そうして数秒の沈黙のあと、観念したかのように「大したことじゃねえ」と呟いた。

「お前が……他のやつと話してんのが、気に食わなかっただけだ」

 その光景を目の当たりにしたとき、腹の奥底から燃えたぎるような苛立ちを覚えた。吐き気を催すほどの憎しみすらも覚えてしまった。自分に向けるものと大差ない筈なのに、変わりのないそれが、やたらと気に食わなかった。
 ――ただ、それだけだった。
 落ち着きのない衝動が遂にワタリの手を引き、半ば無理矢理部屋の中へと閉じ込めてしまった。そのときの彼の顔は不機嫌そのものでしかなかったが、バートン自身は少しずつ落ち着きを取り戻す。自分らしからぬ言動に苛立ちすらも覚えていると、呆れたようなワタリが唐突に診察へと移ったのだ。

 ――なんてことを呟いてから、バートンは何故ワタリが目を気にするのかを問い掛けた。本人は自覚がないようだが、片目の色が変わっているのは明らかな異常だが、視力には何ら問題はないのだという。試しに彼が「本当に痛くもないのか?」と問えば、バートンは眉を顰めてから「痛かねえよ」と言った。

「外見に異常が出ているのに痛みもない……となると、心情が原因か?」

 それは専門外だな。そう小さく呟きワタリはバートンの上から徐に退き始める。先程バートンの説明を受けたことから、彼らしからぬ感情が体に影響を及ぼしたのだろう。独占欲が強いバートンが抱いた感情は、ただの「嫉妬」だ。

 それが一体、何故、どのようにして体に影響を与えたのか――元医者として、彼の好奇心が燻られ続けた。

 そんなワタリの手を掴み、バートンはゆっくりと体を起こす。普段なら潔癖性が災いし、人に触れられることを避けるワタリだが、取られた手をじっと見つめて振り払うこともしなかった。どのみち大人しく振り払われないだろうと決めつけて、「何だ」と訊けばバートンは無愛想なまま僅かにワタリを見上げる。
 その瞳は依然として片目だけが赤く染まったままだった。

「どこに行きやがる」

 ポツリと呟かれた言葉は酷く不機嫌そうだ。手を取られたままワタリはその言葉の意味を考えるよう、首を傾げる。どこかに行くあてがあったのかどうかを考えて、つい先程まで花見に誘われていたことをふと思い出した。
 バートンはそれすらも気に入らないのだろう。平常通りであれば彼は尚更戦いに行かせろと騒ぎ立てる彼だが、今日はやたらと二人きりで居たがる節を見せる。
 これもまた、何らかの影響を受けているのだろうか――。なんて思いながらワタリは小さく息を吐き、視線を手から窓辺へと移した。窓の向こうには青い空と白い雲、そして淡い花を蓄えた桜の木がよく見える。

「……別に、どこにも行きはしないさ。ただ、巨像が停泊した位置が、思いの外良かったと思って」

 外を見つめながら手を引かれる感覚を味わった。
 その力に身を委ねるよう、ワタリは静かに倒れ込む。先にあるのがバートンの体だと知りながら、少しの抵抗も見せずに体を預けた。
 やたらと触り心地のいい服に頬が当たる。体にバートンの腕が回されたことを実感して、逃げられないなどと思う。春とはいえ未だに肌寒い。彼の体温と、心音がどうにも心地よく思え、目を伏せた。

「…………酒でも持ってくるんだった」
「やめろ。部屋が酒臭くなる」

 ここでも花見はできそうだ。
 そう口を洩らしたワタリにバートンは口を挟む。冗談かも分からない言葉を彼は「冗談だよ」と言った。そうして、頬にバートンの手が添えられたのに気が付いて顔を上げる。

 眼前に迫る赤い瞳。息を呑み、言葉を失うほどに柔らかい口付け。

 早く色が戻って、あの空と同じ色になればいいのに。
 ――ワタリの体は独占欲と嫉妬に縛られてしまったかのように、少しも身動きが取れなくなった。