痛みの中の平和

 ――――ぱしゃん

 そう音を立てて降り注いできた冷水に、丹楓は両目を閉じて耐える。真っ向からガラスのコップに入っていた冷水を顔にかけられ、ぱたりぱたりと輪郭を水滴がなぞる。ゆるゆると目を開けば、今にも怒り狂い出しそうな女の顔がそこにはあった。瞳は怒りの炎を灯し、赤く紅が引かれた唇がわなわなと震えて言葉の羅列を紡ぐ。
 その大半を理解することはできず、丹楓はただぼうっと虚空を見つめるだけだった。
 ボロく狭いリビングには酒瓶三本ほど転がっていて、昼間から飲酒をしたことが窺える。茶色とも黒とも言い難い日本酒瓶に、後片付けのことを考えながらぼんやりとしていると、それが気に食わなかったのか灰皿を丹楓の頭に投げつけた。
 ガツン、と鈍い痛みが迸る上に、女の理不尽な怒号は拍車を増していく。「アンタがいなければ」「薄気味悪い」「疫病神」等々――――見に覚えのない言葉ばかり投げ付けられていた。
 ――――それでも。それでも丹楓は、海のように深い青の瞳を虚空に向けて、反論のひとつも返さなかった。

 ――――そうして解放されたのは凡そ数十分後。女はスマートフォンの通知を聞くや否や媚を売り始めた少女のように表情を瞬かせ、丹楓を置き去りに急ぎ足で玄関の方へと駆けていった。
 赤いヒールを履き、行ってきますの声などあるはずもなく扉が閉まる音が鳴る。そして漸く、丹楓は瞬きをひとつだけ落として深く溜め息を吐いた。

 よかった、手を出されなくて。

 自分の額から赤い血がつぅ、と一筋垂れて来たのを乱雑に手で拭って、転がっている酒瓶を手に取る。それを丁寧に分別された袋――瓶専用のものである――に入れて、ガラガラと音を立てるのも気にせずにきゅっとその口を締めた。明日は瓶のゴミ出しに行かなければ、と独り言を呟いて、流れるように流しに手を伸ばす。
 ――――すると突然、リビングの扉がキィ、と音を立てて開いた。

「…………たんふう…………」

 まだ幼さが残る声色が、少しばかり震えながら彼の名前を呼ぶ。短い黒い髪にほんのり灰がかった薄青の瞳。心配そうに向けられたその瞳を眺めて、丹楓は漸く少しだけ口許を緩める。それは、精巧な人形が初めて意志を持ったかのようだった。
 丹恒、と丹楓は彼の名前を呼ぶ。
 自分の胸くらいまでの背丈であるそれをじっと見て、足早に駆け寄って来るのを両の手で迎えた。――――乱雑に拭った自分の血で丹恒が汚れてしまう、と気が付いて、咄嗟に手を引くまでは。

「丹楓、大丈夫か……どうして家事をこなそうとするんだ? 手当て、手当てをしよう……」

 駆け寄って丹恒に言われるがままにリビングのソファーに案内されて、やむなく腰を下ろす。――この見合わないソファーは、女の彼氏とかいうものが勝手に持ってきてリビングを非常に圧迫しているが、座り心地は悪くない。
 そのソファーに座っていれば、丹恒は自室に保管されている救急箱を両手に抱えてきて、慌てたように蓋を開けた。消毒薬と綿、包帯とガーゼ。一通り使えるようなものが揃っているが、その道具が丹恒自身に使われたことはない。
 彼は一回り小さな手で丹楓の髪を掻き上げると、額と髪の生え際から少しだけドロリとした液体が溢れているのを見た。

「……そこまで深くはないだろう?」

 ぽつりと丹楓が呟けば、丹恒は瞳を瞬かせながら「深くはないが、」と唇を震わせる。深くはないけれど、でも、怪我をされるのは悲しい。――――そう言いながら懸命に消毒薬を含ませた綿をポンポンと当てて、手当てを施していた。
 不思議なことに痛みは殆どない。消毒をする度に丹恒は苦い顔を浮かべ、遂には「押さえてくれ」と押し当てたガーゼを丹楓が手で押さえることになった。恐らく少量ではあるが出血が止まらないのだろう。気にしなくてもいいのにと思いながら、丹恒の姿を目で追うと、丹恒は「そのままじっとしているんだ」と言って流しに駆けていく。

「怪我人が家事をするものじゃない。それに、俺も少しくらいはできる」

 ふん、と腰に手を当ててから食器類を片付け始めていく丹恒を見て、丹楓はぽかんと唇を半開きにした。今まで小さいとばかり思っていた丹恒だが、気が付けば身長も、中身も幾分大人になっているようだ。
 それに嬉しさでもあり悲しさを覚え、何とも言えない気持ちになっていると、丹恒が「そうだ」と思い立ったように言う。

「まだ何も食べていないだろう? 今日は俺が作るから、座っていてくれるか」

 学校で習い続けてきたことは活かしていかなくてはな。
 ――――そう言って彼は丹楓とよく似た無表情のまま、何の気なしに呟いた。そうしてぽつりぽつりと友人や、勉学のことを話してくれて、丹楓の退屈凌ぎを作ってくれる。
 よくできた弟だと、丹楓は思った。人を思いやれる、いい子だと。だからこそこの傷にも深く触れず、日常を保とうとしてくれる。
 ――――だから、手出しはさせないようにと、決意をしているのだ。