それが始まったのは、義理の両親が不慮の事故に遭い他界して、親戚の家に預けられてすぐのことだった。
それなりに繁栄した一族らしい。葬式の際に見かけた親戚の人数は数知れず、大きな部屋に黒い服がところ狭しと並んでいたのを覚えている。畳の上に並んだ長テーブル。そのテーブル越しで喚き立てる親戚の中で、とりわけ静かなその人の隣で、丹楓は歳の離れた小さな弟を抱き寄せていた。
まだ幼い弟である丹恒は、それでも賢く泣き喚くことはしなかった。それでいて、両親の死を理解している様子もなかった。ただ俯き、飛び交う言葉を右から左へと受け流す丹楓の頬に触れて、「ふぅにー」とだけ言う。自分よりも小さくいくらか高い体温のあるそれに、丹楓は自分の頬がやけに冷たいことを自覚した。
そうして、ふと、大きく丸々とした青みのある薄灰の瞳が心配そうにこちらを見つめているのに気が付く。
――――ああ、守らなければ。何らかの繋がりのある親戚とはいえ、この子にとって唯一の血縁者は自分だけに等しいのだから。
義両親はこれといって優しいとも言えなければ、愛情に満ちたとも言えないような人だった。元より孤児院で育った二人を引き取った義両親は、良くも悪くも丹楓や丹恒に興味もなく、決して愛のある二人とも言えなかった。血の繋がりのある本物の両親はどこかへと蒸発して、どこからか情報を得た親戚の人間がわざわざ孤児院にいる丹楓と丹恒を多額の金で引き取った。
引き取るのにわざわざ多額の金を差し出したのは――――どうやら一族の恥晒しを揉み消したかったようだ。結論から言えば丹楓や丹恒にとって引き取り手の両親は、ただの「他人」に近く、彼らにとって二人も汚れた子供でしかない。愛する気持ちは毛頭ないが、一族の恥を晒すくらいなら自らが引き取る方がマシなのだと思ったのだろう。
――――けれど、不思議なことに丹楓は、幼い頃から妙に怪我を負うことが多かった。そこにある原因が、どうしても他人にあることを、彼は弟に打ち明けることもなかった。
彼ら両親は決して二人に酷いことをしようと思って二人を引き取ったわけではない。気が付けば大きく拡大し、数を増した一族に更なる富と繁栄をもたらすべく、二人を引き取っただけにすぎない。
けれど、どうしてか。丹楓は何かに取り憑かれたかのように嫌悪を向けられることが多々あった。
孤児院でも同い年の子供たちには隠れて嫌がらせをされた。少しも変わらない表情が恐ろしいのだといって、特に顔を傷つけられることが多かった。それは、引き取られてからも続いていた。何故だか妙に不気味なのだといって、普段なら声を荒らげることのない両親が、激昂して感情のままに丹楓に手をあげた。一度や二度に収まらないそれに、嫌気が差してきた頃に訪れたのが二人の他界だ。
これで解き放たれるのだろうか、とほんの頭の片隅で考えたことがある。まだ学生という身分であるため、どこかに引き取られるか、はたまた孤児院に戻されるか。日常的な暴力に心が折れることはなかったが、それでも確かに疲弊はしていたと思う。
――――不安だった。もういいと言われて部屋に押し戻されたとき、たった一人の弟が、何の嫌悪もなく好意に満ちた瞳で「にぃ、」と言った。たったそれだけで心が救われたような気持ちになり、丹楓は何があってもこの子だけは守らなければ、と思うようになった。
この子に手を出されたらどうしよう、と底知れない恐怖が押し寄せてきていた。
――――そんな矢先に引き取り手である両親の訃報は、丹楓にとって予期しないものだった。
悲しいなどという感情は一切湧かない。遺産という遺産は親戚がどう分け合うかで話が飛び交う。黒い学生服に身を包んだ丹楓は、次の暮らしがどうなるのか、幼い丹恒をきゅっと抱き抱えながら見守っていた。できることなら静かに生活を送らせてほしい。叶うのならば、穏やかな暮らしを送りたい。
――――そう考える丹楓の隣からふと、視線を感じて見れば、黒く長い髪のその人がじっと丹楓を見つめていた。奇しくもその顔は丹楓とよく似ていて、丹楓がそのまま成長すれば彼によく似るのではないかと思えるほどだ。青い瞳に向こうも透けて見えないほどの黒い髪。丹楓との違いを挙げるとするならば、静かな無表情の中にあるのは機嫌の悪さ、だろうか。
その人は怒りを湛えているように見えた。何に対してなのかは丹楓自身にも分からない。ただ、自分や丹恒に対する怒りではないことは何となく分かっていた。この場にいること自体が酷く嫌で仕方がない――――そう言いたげな表情だ。
彼は何かを言いたげに丹楓へと手を伸ばし、つい、と頬を軽く撫でる。その白い指先が不思議なほど温かく思えたのは、一種の錯覚か何かか。そのまま指先で頬を撫でたと思えば、頬骨を軽く指先で叩いた。チクリとした小さな痛みが迸って、丹楓は思わず肩を震わせる。すると、腕の中にいる小さな丹恒が「う」と声を上げた。
きゅ、と丹楓の首を絞めるが如く腕を回し、幼い弟は丹楓に抱き付く。それは、小さな体で懸命に兄を守ろうとする姿で、丹楓は咄嗟に「平気、平気だ」と小声で声をかけた。大きな声を出してしまえば周りの親戚たちに白い目を向けられかねない。ただでさえ居心地の悪い空間だ。視線すらも欲しくないこの状況で、他人(ひと)に見られることが嫌で仕方がなかった。
自分が殴られることは一向に構わないが、弟が手を出されることだけは避けていたかった。
丹恒の行動に気を悪くすると思ったのか、丹楓は両手で丹恒を抱えてその人に「すみません」と呟いた。彼は恐らく丹楓の頬に切り傷――――或いは青アザができていることに気が付いたのだろう。触れられた場所を軽く手で拭うようにしてみれば、じりじりと痛む感覚があった。
これは殴られた跡だ。
日々のストレスに耐え兼ねた両親が、やむなく手をあげた結果だ。
こんなものを見られて情けない。――――そう眉間にシワを寄せていると、口論が飛び交う中で彼が言う。
「――――誰も信じるな。吾ら以外は誰も」
そっと呟かれた言葉は誰にも聞かれることのない、静かな声量だった。
彼の言葉に思わず「え、」と口を洩らしてその目を見れば、彼は相変わらず少しだけ怒りを含んだ瞳で丹楓を見つめている。それが、頬にある痕跡に向けられていると知ったのはつい先程だ。
――――血の繋がりがあると思っていいのは、吾らだけだと念頭に置くいい。
自分によく似た顔が、誰も信じないような口振りで言っていた。丹楓から幼さをなくした鋭い目付きに二人は物怖じすることはなかったが、そのままフイと逸らされた視線にそれとなく寂しさを覚えてしまっていた。それはきっと、彼と丹楓がよく似ているからだろう。
彼の言葉の真意を知るべく、丹楓はそっと唇を開いた。一体どういう意味なのかと、そう言おうとして――――ぐい、と丹楓の肩が引かれる。長い爪がほんのり痩せている肩に食い込んでいるようで、ズキリと肩が痛む。堪らず顔を顰めると、丹楓に抱えられている丹恒が兄の顔を見たようで、目を丸くしていた。
その丹恒をこっそりと宥めてからちらりと後方に目を向ければ、葬式には少しばかり場違いな化粧を顔に施した女が、ふて腐れたように二人を見る。どうやら丹楓と丹恒を引き取る親戚は彼女に決まったらしい。
引き取るにあたって与えられた褒美は、それはそれは目を見張るものだったそうだ。
何も言わず、丹楓の肩を引いてくるものだから、丹楓は胸の奥がざわつくような不快感を得る。この様子では今までの両親と同等か、それともそれ以上か――――何にせよ、この子だけは手出しはさせない、と丹楓は小さな弟の体を抱える腕にぎゅっと力を込める。
本当ならば。欲を言うのなら、物静かな彼の家で過ごせるのが一番だったと思う。
けれど、後に聞いた話によれば、彼の生家は今通っている学校やら何やらを考えると、転校を余儀なくされてしまうとのことだった。これからのことを考えればきっと、彼の家で暮らした方がいいと思ったが。――――何せ、丹楓自身に弟一人を守るための力がなければ、世話をするための技量はまだ備わっていなかった。
――――結論から言えば、生活の質は以前よりももっと酷くなってしまった。
「アンタらがいなけりゃもっと自由だったのに!」
バチン、と音が聞こえて来るのと痛みが走るのは殆ど同時だった。
焼けるような頬の痛み。すり、と手でなぞってみても腫れた様子もないが、じりじりと痛む感覚は消えやしない。早く終われ、とぼうっと虚空を見つめていた丹楓が、彼女は気に食わなかったようで。もうもうと湯気を沸き立たせる湯が入ったそれを、丹楓に投げつけた。
ガランとやかんが音を立てて落ちる。荒れた部屋の中で転がるやかんの中身は少なかったようで、反射的に腕で顔を庇った丹楓の腕にのみ、激痛が伴う。堪らず焼けた腕を抱えるものの、彼はその場に屈み込むことだけはしなかった。その間にも女はヒステリックに叫び、丹楓に幾度となく手をあげ続ける。
一族、主に親戚という人間たちにはそれなりの力はあるが、丹楓という個には未だ何かを牛耳れるほどの力はない。たった数年――――元引き取り手である両親の葬式からたった数年経った頃、丹楓は中学から高校に。丹恒は小学から中学へと進学した。初めは関与の少なかった女は、独身ゆえに沢山の男との関係を持った。
年下。或いは年上。そのどれもが顔の作りが良く、羽振りがよかった。独身ゆえに彼女は厄介払いという名目で二人を押し付けられ、今に至るようだ。引き取った褒美としての金銭はものの数ヵ月で消費。丹楓や丹恒に残されるものは何ひとつとしていなかった。
一族の中でも特に何の成果も上げていないらしい彼女は、二人を引き取ったことにより生活に不満を抱えるようになった。コンプレックスを埋めるために続けていた男遊びが、二人の存在によって中途半端に終わることが増えてしまったのだ。
子供がいるという認識。相手方は罪に手を染めるわけにもいかない、と何度も別れを切り出される。そうしてその度に丹楓は体を張るのだ。
――――痛みなどとうの昔に忘れたつもりだった。けれど、左腕に走る激痛にはどうやら慣れていないらしい。ずくずくと痛む腕を抱えて、頬に平手打ちを二回ほど食らい、耐え兼ねて倒れた拍子に鳩尾に蹴りを入れられる。
「――――ぅ…………っ、」
声を上げないよう、丹楓は唇を噛み締めてゆるゆると目を開いた。倒れた際に当たった、床に転がっている雑誌や酒瓶も体を痛め付ける。けれど、声を上げてしまえば彼女の思うツボだ。――――そう思って、丹楓は彼女の姿も視界に入れないよう、僅かに目を逸らす。
彼女のきらびやかな姿のその向こう。部屋と部屋を仕切るために閉ざされた扉が微かに開いていて、そこから自分よりもいくらか幼い顔がこちらを見ている。
灰色がかった翡翠の瞳。それが、僅かに揺れているようにすら見える。
「生まれて来なければ! アンタたちなんて生まれて来なければよかったのよ!」
――――そう、彼女が叫んだ矢先。ポン、と軽快な音が鳴った。
ピタリと止まる彼女の動き。そのまま自分の手元にあるスマートフォンの画面を見て、今まで曇らせていた表情をパッと明るくさせる。ああ、漸くか、と思いながら丹楓は扉の向こうを見て、ゆっくりと一度だけ深く目を閉じた。やるせなさそうな青い瞳が目蓋の下に隠れてから数秒。開いた先に見ていた扉の向こうに、あの瞳はなかった。
女は意気揚々とバッグを抱え、そのまま玄関の方へと歩き出す。一体いつからか。彼女は男と過ごす時間を家から外に変えて、一ヶ月――――長くて数ヶ月ほど、姿を眩ませるようになった。丹楓も彼女に求めるものはひとつもなく、足軽に歩いていく姿を伏し目で見送って、玄関の扉が開く音を聞き入れる。
そうしてゆっくりと、外と家の中を隔絶する唯一の扉が閉まる音を聞いて、丹楓は徐に体を起こした。左腕に残る痛みは断続的に。鳩尾に残る鈍痛は少しずつ鳴りを潜める。
――――それと同時に部屋の扉が勢いよく開き、「丹楓!」とほんの少しだけあどけなさの残る声が彼にかけられた。
「丹楓、大丈夫か!? 今、今冷やすものを持ってくるから……!」
短く切り揃えられた黒い髪。記憶の中よりも幾分大人びたが、それでも丹楓よりは少しだけ幼い顔立ち。丸々としていた灰がかった薄翡翠の瞳は、少しばかり丹楓に似てきたと思う。幼い頃は何度も丹楓を「楓にい」だなんて呼んでいた彼、丹恒は成長するにつれて丹楓を名前で呼ぶようになった。
――――けれど、丹楓のことを心配してくれる姿は小さな頃と何も変わってはいないのだ。
慌てたように丹楓の顔を見てから踵を返そうとする丹恒の手を取り、丹楓は「慌てなくていい」と呟く。実際は左腕に火傷跡が残る懸念も、叩かれて顔が腫れてしまう懸念も残るというのに、丹楓本人は至って普通で。それどころか痛がるような素振りすらもまともに見せなかった。
「慌てる……慌てるに決まっているだろう!」
パシンと丹楓の手を振りきり、丹恒は咄嗟に冷凍庫へと手を伸ばしに駆ける。ガラガラと氷を漁る音。何か袋がないかと掻き分ける音。ザアザアと水の流れる音。――――それらをぼんやりと聞きながら丹恒の戻りを待っていると、彼が血相を変えながら丹楓の元へと戻ってくる。その手に氷水が入った袋を抱えながら。
「取り敢えずこれで、腕を」
「……丹恒」
「火傷、跡にならないといいが、」
「丹恒」
自分では何とか平常心を保とうとする気持ちが働いているのだろう。口調は普段と変わりのないものではあるが、体は正直とはよく言ったもので。顔色の悪さと手の震えが丹楓にはひしひしと伝わってくる。自分が被害に遭っているわけではないというのに、彼は誰よりも傷付いているような顔をしていた。
だから丹楓は弟の名前を呼び掛け、懸命に氷水が入った袋を押し付けてくる丹恒の頭を撫でる。短く切り揃えられているお陰か、丹楓のそれとは違いふわりと柔らかな髪質が、丹楓の手のひらを伝った。頭部の丸い形をゆっくりと確かめるように撫でて、安心させるように緩く微笑む。
口許だけ弧を描く程度の下手くそなそれを、丹恒は見つめてから眉を顰めた。くしゃりと丹楓に似た顔が、小さく歪む。泣き出しそうで、けれど泣かないように奮闘している彼は、小さく小さく呟いた。
「俺、たちは……生まれて来ない方が、よかった、のか……?」
――――今まで堪えていたであろう言葉が、丹恒の唇から溢れ落ちる。
「俺がいなければ、丹楓は今すぐにでも、この家を出られただろう……」
丹楓の左腕に氷水を押し当てている手が、分かりやすく震える。涙は見せないが、丹恒は確かに泣いているように思えた。
「せめて……俺だけでもいなければ……丹楓は……」
「それは違う。違うぞ、丹恒」
丹恒が震える唇でぽつりと呟いた言葉を、丹楓は間髪入れずに否定する。日頃から落ち着いている弟ではあるが、やはり彼も人間で、まだ幼い。この狭い家の中で行われる虐待的な言動に、丹恒自身が被害を受けていないのは丹楓が一心に受けているからだと知っている。――――知っているからこそ、自らが兄の足を引っ張っていると思い込んでいる。
暗く揺れる薄い翡翠の瞳が今にも自身を傷付けそうに見えた。
そんな丹恒を丹楓は空いている右腕を動かし、手のひらを頬に添えてやる。傷ひとつない綺麗な肌にほうっと安堵の息を吐いて、そのまま髪の毛を掻き上げるように頭を撫でる。幼い頃と何ら変わりのない、丸い頭部は丹楓が自分の弟を守ると決めたときのままだ。
「良いか、丹恒。余が今もこうしていられるのは……其方が余の弟でいてくれているからだ」
すり、と頭を撫でてやると、丹恒は驚いたように丹楓の顔を見上げる。まるで丹楓の言葉が信じられないと言いたげな顔付きで、僅かながらも眉間にシワが寄せられていた。その様子が少しだけ可笑しく思えて、堪らず小さく笑うと「丹楓……?」と丹恒が言う。
自分はこれ以上にないほど真剣に考えているのに、ほくそ笑む兄の姿に疑問が生じていた。どうしてそう言い切れるのか。自分の存在が兄の足枷になっていることは確かなのに、どうして足手まといにも思っていないのか、不思議で仕方がないのだ。
丹楓自身は、丹恒が少しでも感情を表に出してくれるのが嬉しいだけだということを知らずに。
「其方は知らないだろうが……こういうことは今に始まったことではない。余がもっと、幼い頃からあったことだ。あの孤児院に入るよりももっと前……其方が生まれたばかりの頃だ」
――――あの頃は今を知らなかったから、其方がいなかったから、幼いながらに地獄だと思っていた。
ぽつりぽつりと過去を語る丹楓の手は、相変わらず丹恒の頭を撫でる。あくまで丹恒を落ち着かせるように、宥めるように。