痛みの中の平和

 丹恒が生まれる前の小さな頃。丹楓が片手で年齢を数えられるようになり、自我が確立してきた頃。その頃から妙に他人から暴力を振るわれがちだった彼の親は、母親一人だった。どうやら父親と呼べる存在は彼女の元を離れたらしい。幼い頃から聞かされ続けてきたのは、彼女と自分は一切血の繋がりがないということだった。
 頬を強く叩かれ、泣き言を吐けば煩いとまた殴られる。体から青痣が消えたことなど一度だってありはしない。怪しいと勘ぐった近隣住人から通報されてやってきた児童相談所の人間は、母親に、自分にそれとなく探りを入れたが――――それが裏目に出て、なんとか乗り越えた後に腹に蹴りを入れられて、暗く狭い一部屋に押し込められた。
 ――――寒い、寒い冬の季節だった。夜も更けて月もない、厚い雲が空を覆い隠す薄暗い日だった。その狭い部屋には必要最低限の家具もなければ、布団のひとつもない。ただ殺風景が広がる薄暗い部屋にあるのは、月明かりすらも通さない厚い雲が見られる窓がひとつだけ。まるで牢獄のようなそこに押し込められた丹楓は、懸命に寒さを打ち消そうと体を丸めた。
 手をこすり合わせ、僅かながらの熱を得ようとする。体を丸めて体にある熱を逃さないようにする。ズキズキと痛みを訴えてくる体は、その痛みを小さな温もりだと錯覚しながら、丹楓は薄目で窓を見つめていた。
 一体何のために生きているのだろう。――――そんな疑問が募る。物心ついた頃から妙に痛みに叩き落とされる毎日。定期的に与え続けられる暴言。最早彼女に母という役目を求めることは幼いこの頃から諦めているが、どうしたって生きている意味だけは分からなかった。
 体裁のためと何とか通い続けてきた学校は、初めの頃は何故だかあからさまな嫌がらせを受けていた。――――けれど、それまでに受けてきたものに比べれば非常に優しく、甘いものだった。ああ、何てかわいらしいものだろうか。そう思って過ごしていれば、丹楓の反応のなさに嫌気が差したのか、嫌がらせは自ずと鳴りを潜めていった。
 成績は上々。本来ならば幼い子供が取っている成績に比べれば、丹楓のそれは喜ばれるものだっただろう。もちろん、彼女が丹楓に興味を持っていればの話ではあるが。

 ――――そんな状況で、生きていて何が楽しいと思えるだろうか。

 カタカタと震える体を懸命に両腕で抱えるが、みっともなく震えることは抑えられなかった。それでも起き上がり、叫ぶ気力もない彼は、ただ目を閉じて朝が来るのをじっと耐えることしかできないのだ。
 目を閉じ、鳥の囀りが聞こえ始めれば、彼女はまた体裁を保つためと丹楓をしっかりと部屋から出してくれる。それは物心ついた頃からの決まり事であり、覆されたことは一度だってない。だからこそ彼は、「さむい」と小さく呟きながら、そのときをじっと待っていた。
 ――――そんなある日。冬が終わりを迎えかけている肌寒い日。彼女は見知らぬ男を連れて家へと帰ってきた。何とか母としての顔を見せるよう、丹楓にただいまと声をかけたあの奇妙さを、丹楓は今でも覚えている。連れの男は彼女にとってとても偉い立場のようで、やけに恭しく接していたと思えば、両腕に抱えている白い布で包まれた何かを受け取っていた。話を聞くにそれは、まだ物心のついていない、自我の確立もできていない幼い子供のようだった。
 男は丹楓を見るや否や「お前の弟だ」とだけ告げて消えていった。扉を閉める音が無情にも響き渡り、彼女がやけに重苦しい溜め息を吐いたのが分かる。普段ならばそれは、八つ当たりの合図になりかねないのだが、――――その日は違っていた。

「これはアンタが面倒を見るんだよ」

 ――――たった一言。そう言って彼女は乱雑に――けれど、なるべく落とさないように――幼いそれを丹楓に押しつけた。
 抱き方も知らなければ、宥め方も知らない丹楓は肩を震わせてからそれを落とさないように抱える。ずしりと両腕にかかる重みは、学校でも味わったことのないものだった。厄介だからとそれを抱えたまま比較的家具が揃っている部屋に押し込められて、騒がれても聞こえないようにと扉を閉じられる。腕の中にあるそれは、もぞもぞと動いていたあと、ぱちりと目を開いた。
 ほんのり灰がかった薄い翡翠の瞳が、丹楓の青い瞳と交ざり合う。短い黒髪は、先ほど見ていた彼女や男とは似つかず、丹楓とはよく似ている気がした。その瞬間、丹楓の胸の奥で何かが騒ぎ立ててくるような気がして、思わずゆっくりとその場に屈み込む。どくどくと、妙に心臓が高鳴っていて、息が止まりそうになる。そのまま頭を片腕に乗せてから、そうっと空いた片手を小さな命に差し出してみる。
 弟、おとうと。――――男が丹楓に言い放った言葉が、頭の中を反芻する。
 震える手をゆっくりと差し出してみると、それが興味深そうにじっと見つめたあと、丹楓よりもずっと小さな手を伸ばして、彼の指をきゅっと握り締めた。

「…………あ……」

 冷たく冷え切った丹楓の指を、小さな手が温める。自分よりも遥かに小さくて頼りない手のひらだというのにも拘わらず、自分よりも温かなそれに、丹楓の瞳が揺れる。これは弟だ。この小さな命は、他の誰でもない丹楓自身の弟だ。彼女やあの男、親戚とは全く違うこの存在は、丹楓の中にある本能のようなものが強く訴えかける。
 この冷たい家の中で唯一温めてくれる小さな命を守れと。本能的に信頼におけるこの子を、何としてでも守り通せと。――――この子のために、しぶとく生きろと。
 丹楓は腕の中にいる小さな弟を抱き締め、弟のために生きようと強く決意した。

「もう一度言うが、余がこうして生きていられるのは、其方が余の弟としていてくれるからだ。其方がいなければここまで生きていられなかっただろう」

 分かってくれるか? そう言って丹楓は丹恒の両手を握り、丹恒の目をじっと見つめて返事を待った。とさりと音を立てて床に落ちた氷水が入った袋は、誰の目にも触れることはない。丹楓の持論を目の前にして、ほんのり目頭が熱くなっていた丹恒は、ぐっと唇を噛み締め、彼の視線から逃れるように顔を俯かせる。
 丹楓の為を想ったとはいえ、自らを蔑ろにする発言を、兄である彼は許さなかった。丹恒のことが大切だと思い、決して手を出されないように立ち振る舞っている丹楓は、「丹恒」と呟き、意識を向けさせる。
「頼むから……余の宝物を傷付けようとするのはやめろ」
 ゆっくりと諭すように言葉を並べ、丹楓はもう一度丹恒の返事を待った。静かで、余計な物音ひとつもしない家の中で、丹恒が感じているのは丹楓の視線だけだ。

「…………分かった。どうせ、怪我をしないでほしい、と言っても聞かないんだろう」

 丹楓の視線に耐えかねたらしい丹恒は、小さな溜め息を吐いてからちらりと兄を横目に見る。丹楓は至極真面目な顔付きでじっと弟を見つめているが、丹恒が言っていたことに対する答えは決まっているようだ。瞬きをひとつだけ落としてから丹恒を見つめ、言葉を促すようにすると、彼は意を決したように唇を開いた。

「ただ……頼むから……もっと自分を大切にしてくれ……」

 俯いて、握られた両手を見下ろしながら丹恒はぽつりぽつりと言葉を洩らす。みっともなく両手が震えていることを、丹楓自身は気が付いているだろう。そして、その言葉に沿えるような暮らしができないことは、両者明白で。
 それでも自身の身を案じてくれている弟に対して、丹楓は頷いて答えるのだった。