――――初めから望みが叶うとは彼も思っていなかっただろう。丹恒の願いも空しく、丹楓は手をあげられる始末だった。それも、決して丹恒に被害が及ばないように心がけているほど。
一度彼女が帰宅をすれば、丹楓は手早く丹恒を部屋に押し込めるか、極力部屋を出ないようにと言い聞かせている。丹恒が「俺が代わりに、」と言えば、丹楓は勤勉に力を注ぐようにと言った。丹恒自身、成績が悪いわけではないが、丹楓に比べればそれとなく劣っている方で。且つ学校でできた友人に勉強を教えるとなると、丹恒自身の理解力ももっと必要で。彼は口を挟むこともできずにただ黙って、兄の言うことを聞くだけだった。
拳はいつしか顔から胴体へ。丹楓も学業を学んでいることに漸く気が付いたのか、体裁を気にする彼女は極力顔を狙うことを避けるようになった。あの憎たらしいものを見る目つきは、丹楓の顔を毛嫌いしているように見える。その衝動を押し込め、胴体に押し留めるのは賞賛に値するだろう。
――――今日という日は酷く機嫌が悪いようだったが。
する、押さえつけていたガーゼをそっと下ろして白い生地を見る。中心は鮮やかな赤色に染まっているが、量はそれほど多くはない。きっと軽く切れただけに過ぎない――――そう決めつけて、丹楓はそれを下ろした。鮮血が滴る感覚もない。故に、病院に向かう必要性も感じなかった。
スマートフォンを眺めて気分良く出かけていった彼女は、また暫く帰っては来ないだろう。その間に荒れた家の中を綺麗に掃除して、再び丹恒が安心して暮らせる空間を築かなければ。――――そう思っている間に料理をこなす音が鳴り止んで、丹恒が皿を携えたままリビングへとやって来る。白い皿に盛られているのはほうほうと湯気を沸き立たせる炒飯だ。丹楓が適当に買ってきた炒飯の素を使ってできたであろうそれを、自分と丹楓の分を用意して、テーブルに置く。途中、「まだ押さえておかないと」という小言が聞こえてきたが、丹楓はそれに聞こえないフリをして、丹恒を自分の隣に招いた。
隣に兄弟並んで座り、差し出されたスプーンを受け取って一匙掬う。そのまま出来たてのそれを口に運んで咀嚼をすると、旨味が口いっぱいに広がった。
「…………美味い」
ぽそ、と呟かれた丹楓の言葉は、殆ど無意識下によって溢れたもの。それほどまでに口いっぱいに広がった美味しさに、彼は舌鼓を打ったつもりだった。けれど、丹楓の感想を聞いた丹恒は、一度だけパッと表情を明るくしたと思えば、すぐに顔を俯かせる。「これは手順通りに作ったものだ」「丹楓が作ってくれたものに比べれば……」――――そう続けて言うものだから、丹楓は首を横に振る。
「手順通りだとか、そういうものではない。丹恒が余の為に作ってくれた、ということを踏まえて、美味しいと言ったのだ」
元より余は誰かに手料理を振る舞ってもらったことなどないからな。
丹楓は丹恒に作ってもらえた炒飯を食べ進めながら、満足そうに頷く。その度に丹楓は美味しいと呟いているものだから、丹恒は落ち込む顔をやめて照れくさそうに視線を逸らす。普段の家事をこなしてくれる丹楓と、自分の料理を比較してしまったが、それを覆すほどの丹楓の肯定に気持ちが落ち着いたのだろう。
自分の分も、と用意した炒飯を食べる。丹楓も丹恒もどちらかと言えば小食の方ではあるが、自分たちで作ったものは食べ切るくらいの常識は兼ね備えているつもりだ。少し量が多かったか、と言う丹恒の言葉に丹楓は平気だと呟いた。
――――平和だと思う。スマホを見て喜びを露わにした彼女は、短くて一ヶ月、長くて数ヶ月はこの家に戻ってくることはない。それは二人にとって限られた平穏で、平和で。少なくとも丹楓は、彼女や親戚の手によって丹恒が何らかの被害を受けることはないと、安心できるのだ。
カチャ、カチ、食器がぶつかり合う音が静かなリビングに響く。あとで掃除もしよう、と呟けば俺も手伝うという会話が成された。丹楓は怪我人であるという自覚をしてくれ、と丹恒が申し訳なさそうに言う。一体どうしてそこまで体を張れるのか分からないまま、彼は丹楓の存在に甘えていた。――――ならば、家事のひとつくらいできなくてどうしようか。
「…………そう言えば、あの葬式の日に会った彼のことを覚えているか?」
「え…………ああ、朧気だが……丹楓によく似たあの人のことだろう?」
丹恒が人知れず決意を固めているその隣で、丹楓は薄い唇を開いた。
以前出会った黒髪の彼を、丹恒が覚えていると思ってはいなかったが、存外彼は記憶力がいいらしい。さすが余の弟――などと感心しつつ、丹楓はぽつぽつと話を進める。
名前を聞きそびれてしまった彼の所在地をどうにかして聞き出したかった丹楓は、帰って来るなり手を上げる彼女に対して懸命に聞き耳を立てていた。親戚というものはやはり似ているようで、彼女もまた丹楓の顔を酷く嫌っているようだ。顔を合わせるや否や、仇を見るかのような瞳で強く睨み、彼女は理性を失ったかのように丹楓へと手をあげてくる。
そうして気が済んだ頃に丹楓が部屋の片付けを静かにこなしているとき、ふと彼女が言ったのだ。それは誰かしらと電話口で話している口調で。「雨別の奴から、」と。
――――雨別の奴から実権を奪って、こっちが上手く権利を握られれば。
その言葉を聞いたとき、丹楓が呼吸を忘れていることに気が付いたのは、鼓動が大きく聞こえ始めた頃だった。また集まりがあるの? あいつの家はどの辺だっけ――そんな言葉が聞こえてきて、丹楓はメモの何もない部屋の一室で懸命に聞き耳を立てる。
確証も何もないはずなのに、「雨別」という名前があの葬式で出会った黒髪の男性であるという、謎の確信があった。それは、丹楓が丹恒とであったときに本能的に「弟だ」という認識を得たのと全く同じ感覚だ。いつの日か彼がそっと、丹楓に手を伸ばしたとき、彼もそうであったのだろうか。
――――ゆっくり、ゆっくりと作業を進めながら、丹楓は彼女の電話の盗み聞く。彼女はメモか何かを取っているようで、バサバサと音を立ててから住所をぽろぽろと口から溢していた。
彼は少々他人に対して信用をしていないらしい。聞き耳を立てて仕入れたその住所は、電車を乗り継いでからバスを使用するような、田舎の住所だ。自然が豊かで川のせせらぎも、木々の隙間から溢れる木洩れ日も、綺麗な場所らしいと以前どこかで聞いたことがあった。滅多に見ないテレビか何かだっただろうか――頭の中でその住所を反芻させながら、丹楓は下らない話を始めた彼女から意識を逸らして、片付けを再開した。
「駄目元で手紙を送ってみたら返事が返ってきた」
「…………は、」
炒飯を食べ終わったあとに残った白い皿と、銀のスプーンを置いてから丹楓は両手を合わせる。「ごちそうさま」と彼が言うのと、丹恒が驚いたように口を半開きにしたタイミングは殆ど同じだ。丹恒が持っているスプーンからぽとりと米が落ちる。それを後目に丹楓は「あまり期待はしていなかったのだがな」と言って席を立った。ほんの少し、くらりと目眩を覚えたような気がする。
「何かがあったら頼っていいと言ってくれた。――――今のところ、頼るに至るものはないが、彼は余や丹恒には好意的でいてくれるらしい」
空になった食器を流しに置いて、水に浸け置く。丹恒はそうか、と驚くように呟いたが、それ以上の言葉を絞り出すことはしなかった。この親族というしがらみの中で、一人でも味方がいることの安心感からか、丹恒は黙々と炒飯を食べ進め始める。
その様子を、丹楓は流しの向こうからじっと見つめていた。ほんの少しだけ滲み出る喜びが口元に表れていることは、丹恒本人は気が付いていないのだろう。兄想いの弟のことだ。きっと、丹楓に逃げ道ができたことを嬉しく思っているに違いないのだ。
――――丹楓が何を考えているかも知らずに。
平穏を噛み締めて、丹楓は静かに拳を握りしめたのだった。