眠る男に影ひとつ

 ――ワタリが休憩室で意識を手放した数分後。ナビゲーターが巨像内を散策し、光霊達の安否と様子を、息抜きを兼ねて見回っていた。訓練や業務から逃げていると言えばそれまでだが――、あくまで彼は「見回り」をしていたのだ。
 光霊達の悩みを聞き、蛍灯達に指示をして、擦れ違う人々に頼み頼まれ、休憩室へと足を踏み入れる。元医者であり、現暗殺者であるワタリの力を頼りに戦場へと赴くことが多い分、彼の悩みや頼み事は積極的に聞き入れようと思っていたのだ。
 近頃ではワタリが無理をして業務をこなしているという噂を耳にした。そうなっては医者の名が廃る、と、彼はワタリ本人に体を休めるよう促しに行くつもりだったのだ。
 何の気なしに彼の足取りを確認すると、覚束無い足取りで休憩室の方へと向かった、という情報を得た。顔色は悪く、頭を悩ませているようだった――なんて言葉を聞いて、ナビゲーターは足早にそこへと向かった。
 コツン、と靴底が固い床を踏み締める。休憩室についた彼はふと辺りを見渡すと――探し求めていた面影と、白い姿を見掛けてしまった。
 普段なら訓練に明け暮れている筈のバートンが、すっかり意識を手放して寝息を立てているワタリの姿を見つめている。穴が開くのではないかとじっと、空のような双眸で見下ろしている。何をするわけでもなく、ただ黙って。
 その横顔が、獲物を見つけた獣のように見えてしまって――彼は思わず「バートン」と名前を呼び掛けた。

「黙ってろ、起きるだろーが」
「んぐっ」

 極めて声を押し殺し、それでもバートン目掛けて駆け寄ってきたナビゲーターの口許を彼は大きな手のひらで覆い尽くす。息が止められそうなほどの勢いに、ナビゲーターは「分かったから」と言いたげにバートンの手元を小さく叩いた。
 バートンが言う貧相な手がぺちぺちと音を立てる。
 それに彼は溜め息をひとつだけ吐いてから、空の末裔を解放した。

「いたたたた……ど、どうしたの? ワタリ先生に用事?」

 軽く頬を擦り、普段なら極力言わないようにしている「先生」を紡いでしまうほど、彼は不安そうにバートンの顔色を窺う。どこか機嫌が悪いのか、それとも本当にワタリ本人に用事があったのかは定かではない。
 ただ、彼の言葉にバートンは「いや、」と小さく言葉を溢して、羽織っている上着を取る。

「お前、こいつが最近無理してるって知ってたか?」

 ワタリが目の前で寝息を立てているからだろう。彼の声は普段のように張り上げるものではないが、それでも特有の威圧感は強く感じられた。
 「う、うん」と咄嗟にナビゲーターは首を縦に振る。
 噂を聞いていなくとも、普段の姿を見ている彼にとってワタリの変化は小さくとも確かなものだ。親睦を深め、今ではそれとなく信頼を寄せてくれている。そんな彼の変化に気が付かないわけなどないのだ。
 ナビゲーターの反応にバートンはぴくりと眉を動かした。裂傷により普段から閉じている彼の左目が、開いて力強くナビゲーターの姿を見つめる。まるで探るような、疑うような――警戒するような目付きに、末裔はひえ、と体を強張らせた。

 恋は盲目、なんて言葉を本で見掛けたことがある。何の気なしに取った本が恋愛もので、その手の類いの言葉が書かれていたのだ。

 ――とはいえ、敵意をナビゲーター自身に向けるのはお門違いというものではないだろうか。

 バートンの鋭い眼光に末裔はなるべく刺激をしないよう、視線を逸らす。多分そんな風になってる原因は君にあると思う――なんて言葉を呑み込み、心の中ださめざめと泣きながら、彼の視線が逸れるのを待った。
 大切にしているものを横取りされないよう、縄張りを荒らされないよう、強く警戒している獣と対峙している気分だ。暗鬼とはまた別の、異なった恐怖がチクチクと肌を刺してくる。

 ――やがて、飽きたようにバートンは視線をワタリに戻す。先程まで羽織っていた上着を眠る彼の上に掛けてやって、独り言のように言うのだ。

「どうせ原因は俺だろうよ」

 既に分かりきったような口調に、ナビゲーターは反射的に「本当にそうかな……?」なんて言った。それほどまでに、妙に愁いを湛えた横顔が気になってしまったのだ。

「下手くそな慰めはやめろ。この状況で俺が原因じゃないなんて、有り得ねぇだろうが」
「……う……そう、だけど……」

 舌打ち交じりに吐き出された正論にナビゲーターは肩を竦める。ぎり、と歯を食い縛るような行動がバートンの機嫌の悪さを物語っていたが、ワタリに上着を掛けていた手付きは何よりも優しく見えた。
 下手くそな慰めも、弁明も、彼には届かない。自分が何かをしてやれることはないか、と懸命に記憶の糸を手繰り寄せてナビゲーターは唸る。
 ――しかし、これは当人達の問題なのだ。末裔本人がどうこうできるような話ではない。
 むむむ、と唸り、ナビゲーターは寝息を立てるワタリに視線を送る。自分自身にできることはと言えば、なるべく光霊達が無理をしないよう、導いてやることだけ。現状ワタリが疲労で意識を失っていることは、ナビゲーター自身にとって酷く気になることのひとつだった。

 仲違いは空の末裔にとって、巨像内にとって望んでもないもの。なるべく、上手く、仲を取り持てるよう努力をしなければ――。

 ――なんて、覚悟を決めていた矢先にちかちかと何か、彼の視界の端で瞬くものを見たような気がした。
 何だろう。そう思いながらワタリから視線を逸らせると、バートンの物静かな横顔が映る。普段の笑みなど見る影もなく、一心にワタリの顔を見つめている。軍服の襟から溢れ落ちるように彼の白髪が流れても、ナビゲーターが茫然とバートンの横顔を眺めていても、彼はワタリから目を離さなかった。
 ――離せなかった。
 徐に胸元に添えた手のひらが、服をきゅうっと握り締める。甘い、甘い香りが胸いっぱいに広がるような心地がした。胸の奥が、腹の奥底から温もりが競り上がってくるものの、不快感などありはしない。ただ、行き場のない熱がぐるぐる、ぐるぐると身体中を巡り巡っているようで、顔が火照る。

 ――バートンは本気なんだ……!

 不意に使ってしまった感知に、ナビゲーター自身が影響を受ける。十七年という彼の長い空白に、色恋の文字などひとつもありはしない。その所為か、バートンの――ワタリに対する感情に恥ずかしささえも覚えてしまった。

「……何だよ」
「な、何でもないよ!」

 ――ふと、彼の視線が気になったようにバートンが鬱陶しそうな顔で末裔を見やる。今にも舌打ちを飛ばしそうな勢いのまま言葉を放つものだから、ナビゲーターは咄嗟に両手を胸元で振って、ついでに首も左右に振った。
 頬が赤くなっていないか、挙動不審になっていないか――なんて考えながらも、懸命にバートンの意識を他所に向けるように努めた。彼は訝しげな顔をしつつ、「そうかよ」と口を洩らすと、再びワタリを見下ろしてから目を小さく細める。
 戦闘マニアで第二軍団長のバートンが一体何を思ってワタリを見つめているのか――、ナビゲーターには皆目見当もつかない。ただ、その瞳が誰よりも優しく見えることだけは確かだった。

「――……で、お前は何しに来たんだよ」

 物思いに耽るナビゲーターを一瞥してから、バートンは漸く彼の様子を窺う。ワタリの姿を探していたのか、それともバートンを探していたのか、それらをはっきりとさせようとする意志が見てとれた。
 末裔は自分がワタリに頼み事と、様子を窺いに来たと白状してバートンの顔色を見る。彼はナビゲーターの言葉を聞くや否や仏頂面のまま片眉を器用に上げて、「頼み事ってーのは何だ?」と訊いた。

「あー……ちょっと……遠征のことで……」

 ――とそこまで言葉を紡ぐと、バートンは仏頂面だった顔に笑みを浮かべ、「それは本当か?」と彼に言う。

「丁度いい! ウルヴとヴィートとの訓練も終わったところだ。その遠征とやらを俺に行かせろよ! 退屈すぎて腕も顎も、刀も銃も錆びちまいそうだ!」

 見るからに機嫌がよくなり、声を張り上げながらナビゲーターに歩み寄る。そのまま肩を組み、「俺でも問題ねぇだろ」と言えば、空の末裔は勢いよく顔を縦に振って肯定の意を示す。

 こうなってしまっては彼を止めることなど難しいの一言に尽きる。何より、遠征は信頼できる光霊ならば誰でもよかったのだ。なるべく早く、無事に巨像に帰還してくれるのなら。
 暗殺者としての顔を持ちながら元医者としての顔を持つワタリならば、迅速に事を済ませてくれるであろう――という、安易な発想をしていただけに過ぎない。
 それがバートンに替わったところで都合が悪くなることはなかった。ただ少し、荒っぽい点を除けば。

「ならとっとと行くぞ」
「うう、痛いよ……」

 肩を組んだまま半ば強引に引き返そうとするバートンに、ナビゲーターは困り顔のまま大人しく踵を返す。
 いくらか離れ、ワタリからほんの少し距離を置いたとき――不意に、バートンが唇を開いた。

「あいつを起こすんじゃねえって全員に言い聞かせておけよ」

 低くなる声色、見開かれた鋭い瞳。降り注ぐ威圧感に、ナビゲーターは「うん……」と答えたのだった。