眠る男に影ひとつ

 コツ、と巨像の床を踏み締める。事の顛末を聞いたワタリは安堵の息を吐くナビゲーターの顔を思い浮かべるや否や、苦笑と呆れの交じったような溜め息を洩らす。片手には白い軍服が一着。面影を探す顔付きはどこか迷いが入り交じっていた。
 数十分の仮眠が一時間の睡眠に変わってしまったが、特別眠気が失われたわけではない。足は重く、未だ頭も冴えないが、真っ直ぐ道を歩くくらいは普段と変わらずこなせることができた。
 日も落ちかけた巨像の中は幾ばくかの明かりが点っていて、西日が廊下を照らし続ける。眩しい、と堪らず目を細めて見た空の色は燃えるように赤い。夜の仄暗さが恋しいと思えるほど眩しい空だった。
 彼が目指す場所はたったひとつ。片手に携えた白い服に一度だけ視線を落とし、溜め息を吐く。

 先程光霊が遠征から戻ってきたという話を聞いた彼は、早々に休憩室のソファーから立ち上がり、「返しに行く」と一言だけ残して休憩室を後にした。そのときに末裔が不安そうな、それでいて戸惑うような顔をするものだから、何を言うこともなく軽く手を振る。
 バートンと何かが起こる筈がないと、言い聞かせるように立ち去った。

 ――もちろん、ワタリ自身彼とどうこうなることも、彼の想いに応えようと思うこともない。やたらと強気に「落とすことにした」と言っていたが、警戒していた数日間で特に目立った言動は見受けられなかった。
 脅しか何かかと解釈しつつ、彼は廊下を落ち着いた足取りで歩く。個人の部屋へと近付く度に、光霊達の姿は疎らになり、人通りも少なくなった。流石に個人部屋の近くで談笑をする、というのは滅多にないのだろうか――ちらりと辺りを見渡すが、人の気配は全くなかった。
 共有場所が存在するのだ。余程のことがない限り、道端で暇を持て余すなどないのだろう。
 ――などと考え込んでいる間に、ワタリはバートンの部屋の前へと辿り着いてしまった。鮮やかな橙に灯る巨像内でその扉が一際異質に見えるほど、彼は緊張を胸に抱く。
 ぐっ、と息が詰まるような感覚が酷くもどかしかった。喉の奥に異物でも詰まっているような感覚だ。懸命に息を整えようとする度に、忘れかけていた言葉がぐるぐると頭の中を駆け回る。

 ――駄目なのか。今の、心地のいい距離感を保つだけじゃ。

 「好きだ」なんて言葉が足に絡み付くように、酷く体が重くなった。

「――人の部屋の前で何してんだよ」
「――ッ!」

 普段なら緩める筈のない警戒心だが、このときばかりはすっかり周りのことなど忘れてしまい、彼は不意に聞こえてきた言葉に肩を震わせる。ドッ、と心臓がいっそう強く脈を打ったような気がして、咄嗟に胸元に手を添えた。緊張と動揺のそれが顕著に表れる心臓が、このときばかりは憎たらしいとさえ思えるほどだ。
 ワタリは声のした方へ顔を向けると、すっかり草臥れた――ような様子など少しも見せていないバートンが、ほんのり鬱陶しそうな表情を浮かべている。見たところ、顔の傷跡以外には新しい傷を負っているようには見えない。それでも嫌そうな顔を浮かべているのは、望んでいるような戦いがなかったからだろうか。

「……別に、あんたの気配がしないからどうしたものか悩んでいただけさ」

 家主のいない部屋に無断で入るような趣味はないからな。
 そう言って彼は顔を取り繕い、何食わぬ顔でバートンへと近付いていく。普段の軍服が、上着がないだけで寒そうに見えるのは気の所為だろうか。間近で見たバートンの顔は、普段通りの退屈を嫌に思う男の顔だった。
 取り繕うのはワタリの得意分野だ。
 彼は僅かに笑みを浮かべながら手元に携えたそれをバートンへと差し出す。「これがないとあんたは寒そうに見えるな」なんて冗談を交えながら。ほんのり西日の当たるバートンの服は、眩しい色に染まっていた。
 ――しかし、彼がそれをすぐに受けとることもなく、ただぼんやりと目の前のそれを見つめているだけ。水のように染まる煌めく双眸が、ワタリを捉えて逃がさない。

 それが、ワタリの思考を奪う切っ掛けになった。

 「らしくない」――その一言に尽きる。普段なら時折子供のような無邪気な笑顔を浮かべている筈なのに、このときばかりは酷く静かな顔のままぼうっとワタリを見つめている。一直線に前へ。動きが鈍り、声も紡げないワタリの顔を一心不乱に。
 これはよくないやつだ、と本能が警告音を鳴らしているにも拘わらず、どうにも足が動かないものだから、ワタリは人知れず息を呑むしかなかった。
 このときほど、周りに光霊がいないことを恨んだ覚えはないだろう。ほんの少しの静寂を切り裂くように、誰かに声を掛けてほしいと願うものの、叶いそうにもないそれに心中で悪態を吐く。
 そうこうしている間にバートンは軽く腕を動かして、ワタリの頬に手を伸ばそうとした。

「――……」

 ――が、寸でのところでバートンの手がピタリと止まる。そのまま差し出されている軍服を手に取り「律儀に返しに来なくてもよかったのに」なんてひとりごちて胸元に引き寄せる。
 彼の一連の動作にワタリがハッ、と短い呼吸をすると、バートンは瞬きをひとつ落としてから仕方がなさそうに溜め息を吐いた。

「こんな汚れてる手じゃ触れねぇからな」

 そう言って胸元に引き寄せていた上着を口許に引き寄せてから、バートンがクッと笑う。鋭い歯が、僅かに細められた瞳が獣のようにギラついて、一瞬でも隙を見せれば喉を噛み砕かれてしまいそうな――そんな錯覚を覚えた。
 彼の持つそれが、今までワタリが掛けていたものであることに、バートン自身は気付いてわざと口許に寄せたのだろう。「いつでもお前を落としにいく」と言わんばかりのそれに、ワタリの手指がぴくりと動いた。

 告白を受けてから数日。何の変化もないと思っていた自分が馬鹿だったと、彼は思う。背筋を這うような妙な寒気を覚えて、小さく後退りをした。

 それに気が付いたのかどうかは定かではない。それでもバートンがほんの少し目線を下に落としてから、初めから何もなかったかのようにそれを羽織り、ふう、と息を吐く。
 そうして、ワタリの逃げ道を開いてやるように踵を返し「あんまり無理するんじゃねえぞ」と呟いて呆気なくその場を後にしてしまった。
 彼が今ワタリに手を出さなかったのは、あくまで身を案じているからだろう。

「…………はあ……」

 無理をする原因になっているのはあんただ、という言葉を呑み込み、ワタリは額に手を当てて溜め息を吐く。何もかもが億劫だと思えるほど、体が重く、考えることそのものが嫌になっていた。

 目映い夕日が地平線の向こうへと静かに沈んでいく――。

 その光を背に、彼はとうとう壁に体を預けて顔を僅かに歪ませたのだった。