夢であればよかったのに、と何度思ったことだろうか。
ろくに眠れず、疲労から休憩室で仮眠を貪ってしまったあの日から早くも数日。ワタリは自分の健康管理を徹底するように努めた。元医者の一人であるというのにも拘らず、自身の健康管理もままならないのでは話にならない。勅痕の針として協力関係にあるクスッタやタキに――イスタバンにまで迷惑を掛けるわけにはいかないからだ。朝、昼、夕の食事も、日課の手洗いと消毒も欠かすことはない。それに加え、彼はしっかりと睡眠をとることを徹底した。
結果は概ね良好。体の動きは軽く、眩暈や眠気で視界が揺れることもない。心なしか息も軽く、気持ちに余裕が持てているような心持ちだ。ワタリの身を案じていたナビゲーターは安心したような顔で、「よかった」と何度も笑っていた。その度に肩に手を置こうとしたり、握手を求めようとするものだから――ワタリはそれを避け、「手洗いはしっかりしろよ」と口添えをするのは最早恒例のことだ。
――だが、空の末裔がやたらと安心したように胸を撫で下ろすのが理解できないわけではない。ワタリが少しでも体調を悪くしたような素振りを見せれば、圧が彼の体にのし掛かるのだ。
――そして今日も露骨なアピールがワタリに向けられる。
「先生」
「――!」
ナビゲーターと今後の打ち合わせの最中で、ワタリの肩に重く何かがのし掛かる。そうして上から降り注いできた声に、彼はぐっと体を強張らせた。足元には白い狼が二頭、まるでワタリを逃がさないと言いたげに左右から寄り添ってくる。肩を組まれたのだと気が付く頃にはすっかり身動きを封じられ、ワタリは小さく溜め息を吐く。どうにも人目を気にしなくなってしまったバートンは、目の前にいるナビゲーターの頭に片手を乗せた。
「遠征の打ち合わせか? もちろん俺も連れて行くんだろうな?」
軍用手袋を着けたバートンの手が、ナビゲーターのブロンドの髪をくしゃくしゃと撫で回す。これは単なるコミュニケーションではなく、彼に有無を言わさないための言動だ。戦闘マニアのバートンにとっては戦場は輝ける場所であり、自分の力を実感できる場所。少しでも戦える機会があると言うのなら、彼を連れて行かなければ機嫌を損ねてしまう。
それを重々承知の上でナビゲーターは「もちろんだよ」と笑って、ちらりとワタリの顔を見た。幾許か低い所為か、上目で見てくる瞳がワタリの機嫌を窺っているようにも見える。まるで申し訳ないと言いたげな視線だ。
――だが、ワタリは彼に瞬きをひとつ落としたあと、仕方がないと言わんばかりに息を吐いた。ワタリ自身も理解しているのだ。バートンを戦場に同行しなければ、後々面倒なことになると。
「……こいつもいるんだよな?」
「え!? そのつもりだけど」
何の確認か、バートンはナビゲーターに改めて人数や顔触れを確認すると、満足そうに首を縦に振った。普段なら自分の邪魔をしなければ誰がいても構わないと言うのだが、今回ばかりはどうにも気になって仕方がないようだ。――正確に言えばワタリがいるかどうか、を確認したかっただけのようで、顔触れに満足するや否や、彼はワタリの肩に乗せた腕を引く。唐突に体が傾いた感覚にワタリは驚きを露わにしてから、「何を、」と小さく呟いた。
「用が済んだならこいつはもらってくぜ」
そう言ってワタリの同意もなくバートンはワタリを連れて歩いて行ってしまう。彼は咄嗟にナビゲーターへと目を向けたが、自分にはどうにもできないと言いたげに視線を逸らされ、ワタリは潔く諦めを胸に抱いた。重く、もたついていた足を持ち直し、引き摺られる形であった体勢を立て直してからワタリは彼に「どこに行くんだ」と問い掛ける。バートンは前を見ながら「あー」だとか「そうだな」だとかを呟いていたが、決定的な言葉は出てこなかった。
ワタリの足元には相変わらず白い狼――ウルヴとヴィートが連れ添っていて、バートンの行く先へと喜んでついて行っているようだ。白く長い尻尾が左右に揺れている様子を見る度に彼は「狼も犬と大差ないな」なんて思って、それとなく気持ちが和らいでくる。時折窓から差し込む日差しが毛並みに反射して輝いているのを見て、手入れが行き届いていると何気なく思った。
性格に反して面倒見がいいだとか、時折理性的に動くことがあるだとか、同じ時間を過ごしていなければ分からないことがあるが――それを見つける度に驚かされる気持ちになる。
――なんてことを思っていると、道行く光霊達がワタリの顔を見るや否や不思議そうにこちらを見て、そそくさと離れて行く様子が見て取れた。まるで彼を見てしまったことが気まずいと言いたげに顔を逸らし、足早にその場を離れていくものだから、彼は小さく首を傾げる。一体何があるのかと眉を顰め、小さく唸りかけると、未だに肩を組んでいるバートンが「おい」と言った。
「……何だ」
「何だじゃねえよ。余所見すんな」
訝しげな顔をしながらワタリは彼の顔を見上げると、バートンは酷く不機嫌そうな表情を浮かべてワタリを見下ろしていた。澄んだ浅葱色の瞳がじっとワタリの様子を窺っている。眉を寄せて拗ねたような彼はまるで子供のよう。それにワタリは溜め息を吐きながらバートンの手を取り、腕を引き剥がす。初めはこんなに馴れ馴れしい様子なんて見せなかったと、遠い記憶を思い出すように天井を見上げた。
「……それで? どこに向かってるんだ」
腕を組み、ワタリはバートンの顔から目を逸らす。どういうわけか彼の目を見ると、心根を見透かされそうで落ち着かなかった。自衛の本能が働いている所為か、それとも染み付いた癖のひとつか。固く結んだ腕は「これ以上の接触は許さない」という暗示だ。自分が許せる範囲内を軽々と超えてくる軍団長に、ワタリの警戒心がそれとなく顔を出してしまう。
それに気が付いているのか――彼はふうと一息吐くと、「俺にも分かんねえよ」と無愛想に答える。
「こいつらが退屈そうにしてっからお前を連れてきただけだ」
そうして彼は狼達を見やると、ウルヴもヴィートもやたらとワタリを見上げてきて、爛々と輝く瞳を向けている。双眸がどちらも青空にも似た鮮やかな色を湛えていて、バートンを彷彿とさせてくる。犬は飼い主に似ると言うが、ここまで容姿が似ているものかと脱帽してしまう。性格こそは彼に似てもいないが――バートンが直々に躾けた狼だ。いざというときはバートンによく似た言動を取るのだろう。
そんな彼らが何故だか理由もなく退屈そうにしているものだから、ワタリを連れてきたのだとバートンは語る。
そこで何故ワタリという選択肢が生まれたのか、他の誰か――簡単に言えばナビゲーターで
は駄目だったのか、彼の疑問は尽きない。しかし、時折戦場に赴く度にバートンが一緒にいる、ということが当たり前になりつつあるワタリにとって、バートンがこの発想に至ることに納得ができてしまった。
そうか、と彼は呟き、いつの間にか二人を追い越していた狼を目で追う。彼らが掛けていった先に広がっているのは、巨像のラウンジだった。ピアノに、外を一望できる大きな窓。外を見れば白い雲の合間に青い空が顔を出している。今日は少し雲が多いなんて思いながら「ラウンジか」と口を洩らすと、バートンは興味が無さそうに狼達を見て、近くに備え付けられたベンチに腰を下ろす。
ほんの僅かに軋むような音が聞こえたが、バートンはそれを気に留める素振りも見せない。ただベンチに座ったあと、背もたれに寄り掛かり、楽な姿勢を取る。そんな様子に、ワタリは訝しげな顔をした。
「あんたが相手をしてやるんじゃないのか?」
「それじゃお前を連れてきた意味がねえだろうが」
ハッと軽く笑うように彼は言葉を洩らしてから、再び狼達に目を向ける。ウルヴとヴィートは辺りを軽く見回すようにくるくると回ったあと、ワタリの足元に駆け寄って腰を下ろす。まるで遊んでくれと言いたげな様子に、ワタリは遂に唇をへの字に曲げて、「俺が?」と呟いた。キラキラと期待に満ちて輝く彼らの瞳は、ワタリにとって少しばかり眩しい。堪らずベンチに座っているバートンに視線を向けると、彼は考える素振りを見せてから「遊んでやれよ」と言う。
「訓練は一通り終わってるし、定期的な遊びを挟んでやらねぇとストレスが溜まるしな」
「だから何で俺が――うっ」
動物は人間と違って上手くストレス解消はできないからな。
――なんていうバートンの言葉を最後まで聞くこともできず、ワタリは足元にぶつかった衝撃で体勢を崩す。前のめりに倒れかけてから、片足を前に出して踏み留まり、体勢を整えながら元凶を見た。爛々と輝く瞳を見て、ワタリはぐっと唇を噛み締める。当の本人は狼の相手も、ましてやバートンの相手も避けたいところだが――、狼達に罪はないのだという、小さな良心が彼の足を留める。
飼い主であるバートンは遊ぶ、ということをしてくれないようで、退屈そうに欠伸を溢してから外を見つめ始めた。
「……俺じゃなくたっていいだろ」
――言葉が通じるとは思えない。それでもワタリは彼らに話し掛け、反応を窺う。
ウルヴは鳴きこそはしなかったが、小さく首を傾げ、ヴィートは「ウワワン!」なんて何かを訴えるように吠えた。どちらもバートンではなく、何故かワタリをじっと見上げていて、どうにも逃げられそうにもない。ラウンジに来てからちらほらと見掛ける光霊達は、時折目が合うものの、瞬きをする間に視線を逸らされて救いなど期待はできなかった。
ワタリは覚悟を決めて、一度だけぐっと瞼を閉じる。そして、ひらりと近くを通り掛かった蛍灯を鷲掴み、ナビゲーターへのありったけの不満をぶつけるよう、思い切り投げ付けた。
らしくはない。――そう、自分でも思う。
それでも蛍灯を追い掛けていく狼達を見て、彼はほんの少し、「自分らしさ」を投げ捨てた。