絡みつく浅葱の色

 ――動物の相手は本気にならなければ知らない間にこちらが呑まれてしまう。
 全力で相手をしてやること数時間。高く昇っていた太陽が傾いてきた頃にウルヴとヴィートは腰を落ち着けるようにその場に伏せて、呼吸を整える。訓練のあとの遊びには流石の彼らも疲れたのだろう。呼吸を落ち着けていると思いきや、目を閉じてすっかり寝息を立てていた。上下に動く胸だか腹だかを見かねて、ワタリは大きく息を吐いた。
 眠気は落ち着いているが、いっそう疲労が募ったワタリの足は重く、覚束ない足取りで休める場所へと向かう。近くにあるベンチにはバートンが相変わらず退屈そうに座っているが――文句も言う気力もなかった。彼はそうっとベンチに近付くと、バートンが彼に気が付いて微かに隣を空ける。珍しく気を遣われる行動にワタリは甘えて、ベンチに腰を下ろした。
 ふう、と深く吸った息を吐けば、バートンが隣で「随分と楽しそうじゃねえか」と揶揄うように言う。それにワタリは訝しげな顔をしてからじっとバートンを睨み、「何ふざけたことを言っているんだ」と呟いた。

「俺が楽しそうにしていたように見えたか?」
「少なくとも見えたな」
「あんたの目は節穴か?」

 ワタリはムッと唇を尖らせ、くつくつと笑うバートンの顔を見やる。バートンは先程の退屈そうな顔とは打って変わっていやに楽しそうに笑い、この状況を酷く楽しんでいるように見える。ギラギラと獣のように鋭い歯がちらちらと視界に入る度に、ウルヴやヴィートと同じ狼なのではないかと思えてしまう。
 ――いつか喰われてしまうのか、と妙な不安がドッと胸に押し寄せて、ワタリは静かに視線を逸らした。
 バートンが、ワタリが狼達の相手をしている様子が楽しそうだった、と言ったのは強ち間違いではないだろう。ナビゲーターには多少の――いや、それとなく抱え込んだ大きめの不満をぶつけるように蛍灯を投げ、それを狼達が取ってくる。咥えるには堅すぎるそれを前足で転がして、「もう一度投げてくれ」と言わんばかりに見上げられるから、ワタリはそれを何度か繰り返した。
 ――無論、その不満にはナビゲーターだけではなく、目の前にいるバートンへの不満も含まれていることを、バートンは知らないのだろう。彼はすうすうと寝息を立てている狼達を見ながら「いい運動にはなったろ」と言って、草臥れた様子の蛍灯をワタリの手から奪い取る。
 これ、ナビが知ったら喚くんだろうな、なんて言って空いている隣の席に置いた。コン、と堅い物がぶつかる音に狼達の耳が僅かに動く。蛍灯は飛び回ることもなく、休むようにその場に留まっていた。

「……まあ、夜にはよく眠れそうだな」

 バートンの言葉を少しでも肯定してみせれば、彼は「だろうよ」と言って大きく背筋を伸ばす。彼はその言葉に気分を良くしたようで、やたらと上機嫌だ。ワタリはそれに不満を覚え、「だからと言ってこんなことをさせたあんたには腹が立つ」なんて言ってみれば――、「そうカッカするんじゃねえよ」と言った。
 訓練を済ませたあとにバートンが相手をしないのは、彼も彼でそれなりの疲労を感じているからだろう。ほんのり疲れたような素振りを取るものだから、ワタリは文句を言う口をそっと閉ざしてしまう。普段から共に戦闘に出ている恩恵だろうか――、他の光霊よりもいくらか信頼のあるバートンに、彼は言葉を突き付けることをしなかった。
 単純に無駄話を避けたいだけだった可能性もあるだろうが、実際は分からないまま。
 彼は小さく溜め息を吐いて、何気なくラウンジから見える空を眺めた。地平線の向こうにまで広がる空はあまりにも大きく、時々惨めになる。ずしりと重りのようにのし掛かる疲労感は、暇さえあれば研究に没頭してしまうワタリの体を戒めるようだ。ふぅ、と堪らず溜め息を吐くとほんのり眠気が押し寄せてくるようだった。
 席を離れてしまおうか。元々否応なしに連れてこられたワタリは、バートンの様子を窺おうとそっと隣を見る。少しでも退屈そうで、ほんのり眠そうで――且つチェスだの兵棋演習だのを求めているようであれば、訓練を再開すればいいだろうと口を出すつもりだった。
 そうして彼の元からそそくさと離れ、自分自身も休憩を挟もうと思ったのだ。

 長く居すぎてしまえば居心地の良さを痛感してしまう。そうなる前に、少しでも自分の頭をどうにか休めたかった。

 そうしてワタリはバートンの方へと顔を向けると――、鋭い瞳と目が合った。まるで獣のように鋭く、ワタリは一瞬にして思考を失ってしまった。

 あ、と言葉を洩らそうにも、彼の唇からはただの吐息が洩れる。先程までいくらか笑みを浮かべていた筈の目付きは真剣そのもので、空色の瞳がワタリの薄紫の瞳をじっと見つめる。威圧感や圧迫感を与えているわけではないだろうが、彼はほんの少しの身動ぎも取れなかった。
 まるで体がベンチにでも縛り付けられたような違和感。周りの景色や音が遠く、眩しく思える筈の窓の向こうは少しも気にならない。ただ静かに、淡々と――、泉の水のように静かな瞳がじっとワタリを見つめているのだ。
 借りを得意とする獣が身近に来たとき、腰を抜かして立てなくなる人間の感覚はこんなものだろうかと、妙な考えがワタリの頭をよぎる。今すぐにでも席を立てばいい筈なのに、絡まった視線の糸がそれを許してはくれなかった。
 ――そうして数分ほど見つめ合ったあと、不意にバートンの手がワタリの頬を滑る。つ、と親指の腹が軽く頬に当たったかと思えば、手のひらが添えられた。そのまま輪郭をなぞるように徐に下へ降りたかと思えば――、彼の親指の腹がワタリの唇をなぞり始める。

 ゆっくりと、形を確かめるように。彼の柔らかく形のいいそれを、端からなぞった。

「――ワタリ」

 ゾッとするほどに低く、それでいてどこか恐ろしいバートンの声がワタリの耳を掠める。
 彼は咄嗟に席を立ち、バートンの手を払った。手の甲で払ったときに味わう微かな痛みなどまるで気にならない。気が付けば息をすることを忘れていたようで、立ち上がった際に漸くできた呼吸は、あまりにも浅く、苦しかった。
 手を払われたバートンはほんの少しだけ驚いたように目を丸くしていたが、瞬きをひとつ挟むと、納得したように小さく溜め息を吐く。諦めるようなその態度は、あまりにもらしくないの一言に尽きるものだった。

「――…………悪いが、俺は戻る」
「おう、悪かったな」

 肩で数回息を繰り返し、払った手を小さく握り締めながら、ワタリは言葉を紡ぐ。それは普段の強気な言葉ではなく、ほんの少しの戸惑いが混ざったような、小さな声。吐き捨てるように呟きながら咄嗟に足を踏み出すと、擦れ違い様にバートンが軽く謝罪を溢した。

「――…………チッ、軍曹共。休んでねえで訓練を再開するぞ」

 ほんのり不満げな言葉を狼達に掛けると、彼らはゆっくりと体を起こしたのだった。