裂傷

 熱に溶かされた鉄の、目映い赤色は応星にとって心を浮き立たせるひとつの色。熱いうちに鉄を打ち、頭と、設計に描き起こした形に変える。カン、カンと硬いものを打ち続ける振動は手を伝い、全身を駆け巡る。ビリビリと利き腕が痺れたが、それが彼の熱意を止めるものにはなり得ない。

 たった一度で形が整うわけでもない。何度も熱に晒し、赤く彩られたそれを何度も打ち付ける。そうして没頭していく間に、高く昇っていた日はいつの間にか空の向こうに沈んでしまっているのだ。
 ――しかし、応星に時間はない。周りには彼よりも遥かに時間を費やせる、特殊な人種がこぞっているのだ。彼はその中で百年程度しか生きられない短命種と侮られ、馬鹿にされてきた。老い先短いその人生、職人としての捧げてきたとしても、結果は分かりきっているものだと言わんばかりに。

 だからこそ彼は周りを押し退け、百冶ひゃくやの称号をその手に掴み取った。自分よりも遥かに長生きできる周りに対して、挑発するように藤の瞳を向け、小馬鹿にするように笑ってやった。
 お前たちが馬鹿にした短命種のこの応星が、百冶にまでなったんだぞ。お前たちは一体、その膨大な時間をどれだけ無駄にしてきたんだ、と。
 今でも彼は向けられているその目を忘れたことはない。百冶として生きるようになって尚、彼を短命種だとまるで可哀想なものを見るような目を向けられることがある。それらを一蹴し、そんな暇があるのならひとつでも俺を抜きん出てみろ、と言い張るために、彼は今日も工房にこもって、沢山の作品と向き合っていた。

 それを、飽きもせず傍らで見守っていた影がひとつ。まるで彫像のように黙って傍に腰を下ろし、応星を見守っていたが、応星は遂にその姿に気が付くことはなかった。
 それは、重い腰を上げて応星の傍に近寄る――。

「――応星」

「――っ!」

 ――不意に掛けられた言葉に応星は肩を震わせて、手を滑らせた。
 パリンッ、と耳を劈く甲高い音。その直後に目の前を飛び散った破片が床に無惨に広がっている。さあさあと水が流れる音に自分が立ち尽くしている場所を把握して、応星はぼうっと呆けている目を数回こすった。瞬きを繰り返し、ゆるゆると膝を曲げてその場に屈み込む。割れた皿の破片をあろうことか素手で拾い上げた。

 チクリ、手を刺すほどに鋭い破片が彼に猛威を振るう。鋭い一瞬の痛みに応星は顔を歪めて息を呑み、咄嗟に手を引いた。自分でも何をしているのか全く理解に及んでいないが、恐る恐る引いた手のひらを見やると、傷口から赤い雫が溢れ、小さな玉を作る。
 てらてらと赤黒く輝くそれは、こぼれそうになるほどあふれたあと、彼の指先を伝って手のひらに流れ始めた。
 じくじくと痛む指に、応星は成す術もなくただそれをぼうっと見つめている。何の処置もしていない彼の手からは絶えず血が溢れているというのに、応星はその場にしゃがみこんだまま微動だにしなかった。

 ――この程度の痛みで何を慌てることがあるのか。そう、彼は考えて徐に落ちた破片に再度手を伸ばす。破片を掴み、何を思ったのか、それをぐっと握った。

 すると、皿が割れる音に対して応星が何もしないことに不信感を覚えたのか。彼の背後から、応星の声色からいくらか感情を抜き取られたかのような声がかけられる。「応星」と呟かれたそれは、先程かけられた声色とよく似ていた。

「貴様、何をしている」

 ――先程名前を呼んだのは彼か、刃か。どちらかの区別もつかないほど呆けていると、皿の破片に手を伸ばしていたはずの手を、武骨なそれが掴んだ。自分とよく似てごつごつとした骨がよく目立つそれは、応星とは違って不器用なのか、いくつかの傷跡が刻まれている。
 ――それでも刃と応星の手は見紛うほどによく似ていた。それこそ本当に、双子なのではないかと思うほどだ。

「……何をって、何だ」

 応星の手を取り、動きを封じた刃に対して彼はぽつりと呟く。自分では普段通りにハキハキとした声で言葉を発したと思っていたが、応星の耳に届いた自分の声は想像の数倍低く、暗かった。
 まるで刃が二人いるようだと、応星は働かない頭の片隅で考えて小さく笑う。多少意識をして声を低めにすれば、それこそ声だけで人を騙せるのではないかと想像して、少しばかり面白いと思った。

 それを何と捉えたのか。刃は応星の手を引きながら蛇口を捻り、未だに流れ続ける水を止める。そういえば皿を割ってからずっと水を流しっぱなしだったな、などと思いながら応星は手を引かれるがまま立ち上がり、ふらふらと弟のあとをついて歩いた。

 洗い物を片付けるために手を濡らしていたからだろうか。手を引かれている最中にぽたりぽたりと応星の手からは赤いそれが滴り落ちる。一粒、二粒。フローリングを、カーペットを汚していくのを見かねて、「掃除が大変だ」と応星は眉を顰めた。

 手を引かれた先にあるソファーに座らされ、応星は「うっ、」と声を洩らす。絶対に動くなと言わんばかりに両肩を強い力で押さえ付けられ、ソファーに沈む体をどうすることもできず、一度背を翻した刃の姿を彼は目で追った。
 リビングにある大きな茶箪笥の中にしまいこんでいる救急箱を取り出して、刃はそれを抱えながら応星の目の前に座り込む。どかりという擬音が似合うほど大袈裟に座って、刃の髪が舞い踊るのを、応星はぼんやりと見つめていた。
 彼とは全く違う髪をしているというのにも拘わらず、長く揺蕩うそれがどうしたって彼を想起させてくるのだ。

 刃は忌々しげに応星の手のひらを見てから乱雑に救急箱の蓋を開け、消毒液と綿手に取る。適度――ではなく適当に消毒液を綿に思い切り染み込ませ、半ば強引にそれを傷口へと押し付けた。

「いっ……!」

 じくりだの、チクリだのそういった表現では表せないほど、強い痛みが手から、全身へと駆け巡る。咄嗟に手を引く動作を取ったが、それを上回る刃の力に彼は叶うこともなく、成す術もないまま傷口の消毒をされる。
 ポンポン、などという可愛い表現はどこにもなかった。本来ならピンセットか何かで摘まむであろう綿を、刃は手で掴み、応星の行動を戒めるように押し付けたのだ。直接消毒液をぶちまけられないだけマシだという気持ちはあるものの、唐突な荒療治に応星は「おい、刃!」と堪らず声を上げた。

「お前、もっと丁寧なやり方があるだろ!?」

 何とか手を引こうと試みながら必死にその痛みに耐えていると、刃は緋色の瞳を強く細めて応星を睨んだ。

「チッ」

 ぱちりと視線が交わると同時に、刃の強い舌打ちが応星に向かって放たれる。応星と同じ真ん中分けされた前髪の隙間から、ほんのり嫌悪を含んだ視線が飛ばされていた。応星にとってそれは珍しく、初めてと言っても過言ではない露骨な嫌悪だった。

 ――それでも元より応星は傲慢で、気が強い。刃の抑制に大人しく応じることもなく、ギリギリと手を引いていると、不意に刃の手が綿から離れる。手が離れた綿は器用にも傷口についていた。
 そうして突然応星の顔に己の手のひらを押し付けて、顔面を鷲掴みにするものだから、応星は小さく唸る。抵抗を失い、ぐらりと蹌踉ける体を何とか支えたあと、「何をするんだ」と顔面を掴まれたまま呟いた。

 刃は何も言うことはなく、黙って指先に力を込める。ギリギリとまるで頭を割らんばかりに力を込めるものだから、応星は「分かった分かった!」と咄嗟に口を開いて抵抗する意思をなくした。ふ、と全身に込めていた力をなくし、刃に引かれる手を彼は緩める。――けれど、どうしたって手の震えはなくならなかった。寝不足と、主に痛みで小刻みに震えているのだ。

 刃に対する抵抗をなくした途端、彼は応星の顔から手を離し、無言のまま応星の手を見つめる。押しつけていた綿を引き離して、咎めるような目付きで傷を負った手にちまちまと手当を施してやる。未だ溢れる血液を白い布で拭いながら、刃は慣れた手つきでまとまっている包帯をほどいた。止血のために真新しく白いガーゼを押しつけ、テープで軽く固定する。そうして漸く、応星は自分が思っていたよりも深く、己の手を傷付けていたことに気が付いた。

 それは浅すぎず、だからといって肉が見えてしまうほど深いものではない。しかし、決して無事とは言い切れないそれに、応星は眉を顰めながら「うわ……」と呟きを洩らす。ほんの少しくらりと目眩を覚えたような気がした。
 応星の様子に漸く傷の深さを自覚したのかと、刃は溜め息を吐いて包帯を巻き付ける。白い布が丁寧に、くるくると巻かれていくのを見かねて応星は感慨深く思った。普段は傷を負うことが多い刃が、慣れた手で手当をしているのが、どこか嬉しく思えたのだ。
 決していいとは言えない状況に応星は自分自身を律するよう、小さく咳払いをした。んん、と洩れた声が非常に不愉快だったのか、それとも思っていたよりも自身の感情が乗せられていたのかは分からない。ただ、刃は応星を一瞥した後、憎らしげにその手を荒々しく掴んだ。

「いってぇ!」

 唐突に手のひらから全身を伝うほどの激痛に、応星は声を荒げ、咄嗟に手を引く。手当が済んだ手は思いの外簡単に応星の意思に従い、体の横を通り過ぎる。そして戻ってきた手を握り、何をするんだと言いたげに刃を睨めば、彼は救急箱に道具を戻しながらそっぽを向いてしまった。そのまま救急箱を手に取り、刃はソファーから立ち上がって茶箪笥の中へとそれを戻す。
 その一連の流れを見守っていた応星は、自分が今まで何をしていたのかを思い出し、ハッとして肩を震わせた。

 ここ数日、或いは数週間――正確な数字は覚えていないが、応星は身の回りの殆どを弟である刃に任せてしまっている。その理由が注文を受けたこと、ではあるが、実際のところは全くの別であることくらいは応星も、刃も分かりきっていた。
 ぎ、と牽制を食らっているかのような右手を眺める。包帯が巻かれて動きが鈍くなり、拳を握るのも難しくなっていた。無理にでも開閉を繰り返せば折角の止血も虚しく、傷口が開いて真っ白な包帯を汚すことになるだろう。――それでも彼は手を握り、重々しい表情を浮かべたままその手を額に寄せた。何かを耐えるような、そんな顔をしながらひとつ、深呼吸をする。

 ――理由など分かりきっているのだ。つい先程も、声をかけられるまでどうやら無意識に眠っていたらしい。きゅうっと目を閉じ、瞼の裏に浮かびそうになる情景を脳裏に描きながら、応星はゆっくりと座面へ体を倒す。視界から明るさを遮断させるように体を丸めて、人知れず溜め息を吐いた。一体いつ自分が眠っていたのかも分からないまま、「こんなもんじゃない」と小さく呟きを洩らす。

「こんなもんじゃない……あいつが負ってる傷は」

 そう言って手を握り、歯を食い縛った。

 いつの頃からか、応星は夢から覚めるとき、必ずと言ってもいいほど「終わり」の合図があることを知った。それはもちろん、ふとした瞬間に彼が針に刺され、決まり文句と言っても過言ではない「忘れろ」という言葉を聞くときだ。場所や状況は都度変わり、時には姿が彼によく似た像の前であれば、どこかの離れのような場所のことだってある。その内容の基本は酒を酌み交わすことか、雑談を交わすことが最もで。それが、自分が好いていたと思っている状況であることは確かなようだ。

 夢の中の応星は常に心が穏やかで、酷く落ち着いていた。まるで隣にいる月光のような彼に絆されるよう、そのときばかりは人間特有の憎しみも恨みも何もかも、忘れることができていたのだ。その代わりにただ一心に彼を見つめ、その姿を目に焼き付けようとすることは忘れられなかった。身分の差、生き方の差によって決して告げることのできないこの想いをひた隠しにして、墓場まで持っていくつもりだった。

 そこまでして穏やかな感情でいられる情景を「幸せ」と呼ばずして何になろう。

 その幸せを応星もできる限り覚えていたいと思ってしまっていた。何せ彼も、夢の中の応星も結局は「自分」であり、他の誰でもない。夢の中にいる自分が彼に惚れたように、応星もまた月に惚れてしまっているのだ。
 烏の濡れた羽のように艶やかな黒い髪。夜の月明かりに煌々と照らされ白く浮き立つ肌。男にしては細く、力を込めれば折れてしまうのではないかと錯覚してしまう腕や腰。本来女に使うべきであろう「立てば芍薬」という言葉が似合うほど、すらりとした背筋――そのどれもを、応星はすっかり好いてしまっている。

 あの隣に堂々と、誇らしげに立てればいいのに、と何度思ったことか。二人で酒を酌み交わすほどなのだから、少なくとも彼もまた、応星に対して好意のひとつはあるはずなのに。夢の中の応星は自分の立場を弁えるよう、そのときは持ち前の傲慢さなど欠片も出さなかった。
 関係性が崩れるくらいならば、このままでいるのが望ましいと思っているからだ。

 ――そうして応星が幸せに浸るその瞬間に、それは音を立てて崩れ去ってしまうのだ。

 初めは胸。次に両の肩。夢を重ねるごとに増えていく奇妙な針は、いつしか彼の胴体を蜂の巣にするように風穴を開けてしまって。容赦なく引き抜かれ脱力しながら地に崩れ落ちる様を、応星は何度目にしたことだろうか。その度に応星は夢の中の体を乗っ取るように主導権を握り、崩れ落ちる彼の体を懸命に支え、何度も声をかけ続けた。奇妙なことに応星は彼の名前を一切口にすることができず、「おい」だの「起きろ」だのと言うだけなのだが、彼は違った。

 慌てふためく応星を落ち着かせるよう、何度も応星の名前を呼んだ。胸に、腹に、穴が空いているというのにも拘わらず。応星、と呟いて、応星がそれに反応するように彼の顔を見たとき、はっきりとした口調で終わりを告げられるのだ。
 そのときの傷を、彼は一切痛がる素振りも見せずにいた。全身を貫かれ、傷を負い、血を流すことがどれほど苦痛で、焼けるような痛みがあるのかなど応星自身には少しも分からない。分からないが、この手に迸る痛みなど彼の苦痛に比べればとても小さなことくらいは分かった。
 その傷を負っても尚、忘れろと告げてくる彼は、何を思っているのだろうか。

 体を丸め、ソファーに蹲る応星は、暫くの間身動きもせずにただぼうっと暗闇の中にいた。目を閉じているという認識がある間は起きていると自覚しているし、意識もある。――しかし、数分もすれば次第に意識が水底に沈むような、それでいて浮いているような感覚に囚われてしまう。どれだけ頭で起きていなければならないと体に訴えかけようとしても、疲労が溜まった応星の体は気怠く、そして重かった。

 ――起きろ、起きなきゃまた、

 そう思いながら次第に落ちていく意識に抗えず、応星は掴んでいたはずの意識を手放す――

 ――応星

 ――その直前、彼の名前を呼びかける声が耳に届いたような気がして、応星はハッと目を開ける。そのまま勢いよく体を起こし、じくじくと痛む右手のことなど気に留めないようにして、視線をキッチンの方へと向けた。微かにさあさあと水が流れる音、食器がぶつかり合う細かな音。慌てて朧気な意識をはっきりと覚醒させて目を凝らして見れば、刃が手慣れた様子で食器を片し始めているのだ。
 それは、つい先程まで応星が最近は刃に任せっきりだから、と進んで行っていたことで。彼は堪らずソファーから降りて「悪い」と口走る。

「俺が後片付けをしている最中だったな……あとは俺が」

 ――そう言ったところで、刃が動きを止めて軽く振り返り応星を横目で見る。そうしていやに鬱陶しげな顔をして「どうすると言うんだ」と刃に告げた。

「その手で、一体何をすると?」
「…………あ」

 応星の言動を咎めるよう、刃はわざとらしくゆっくりと呟きその緋色の瞳で応星を見る。その視線はしっかりと彼の手に注がれていて、応星はバツが悪そうにそうっと両手を背に隠す。言い訳をしようにも応星は無意識のうちに己の手を傷付けていたのだ。その手にわざわざ包帯を巻いたのは、他でもない弟である刃で。皿の破片を素手で掴むなど、刃ですらもおかしいと思っているのだろう。再び同じ行動を取ると思われても仕方がないと、応星は視線を逸らしてから、「すまん」と小さく呟いた。
 食器を洗う刃の背を横目に、応星はとぼとぼとソファーへと戻る。その間に一言、二言話を交えた。「その手でどう仕事をこなすつもりだ」と冷たく発せられた刃の言葉に、応星の胸の奥がひやりと冷える。

 応星の仕事は陶芸やら何やらと、物作りに関するものばかりだ。それに対して応星の今の手は酷く傷だらけで、目も当てられないほど。指先は無事だとしても、手のひらを使う工芸に関しては、治るまで手が付けられないだろう。主な収入は応星自身の作品が気に入られ、直接注文を受けることができるからこそ稼げるものだ。今この状態では現状請け負った注文も、ろくにこなすこともできないだろう。

 これじゃ暫くは作品のひとつも作れないな。――そう彼は溜め息を吐き、刃の言葉に「それもそうだな」と苦笑を洩らす。元より応星はこの数週間に渡ってろくな作品が作れていない。それは、日々物作りに没頭して寝食を忘れることもある彼に対して、怒りを露わにする周りが驚きを覚えるほど。その原因が毎晩のように見る夢にあると知って、応星は周りに相談のひとつもすることができずにいた。
 毎晩毎晩目の前で人を失う夢を見る、だなんて誰に言えようか。毎回失うその人に惚れ込み、どうにか助け出してやりたいなどと思っているだなんて、誰に相談ができるだろうか。結局話したところで「疲れているのだからしっかり休め」だの、「お祓いにでも行け」だのと言われるに違いないのだ。

 ほう、と吐息を吐き、応星は白に近いベージュ色の柔らかなソファーに腰を下ろす。次こそは背を丸めることはなく、背もたれに背を預け、ぼうっと天井の方へと視線を投げた。どちらにしろ眠気や疲労が襲ってくることは間違いないのだが、それでも先程よりは遥かに意識がはっきりとしていた。
 連絡をするべきだと、彼は思う。初めに店の店主である停雲に。次に、近頃上手く連絡も取れていない景元に。時には仕事ばかりではなく、知人に会って気分転換でもするべきだろうと、彼は何の変哲もないスマホに手を伸ばす。メッセージアプリをタップして起動。該当のアイコンを見つけてメッセージ欄を開けば、会話のやり取りは数週間前に訊いた流行についての話で止まっていた。
 景元は家の会社を継いだ男だ。その実力は申し分なく、今現在では沢山の業務をこなし、各地を飛び回っているとの話を聞く。巷で話題のブランドやら会社名やらは大抵彼の傘下にあり、その業績は上々。今では景元はなくてはならない存在になっているようだ。
 そんな彼に応星はたった一言だけのメッセージを残す。極力簡潔に、そして面倒な思考に時間を割かないよう、端的に。『今度時間が空いたら、茶でもどうだ』とだけ記入して、送信する。スポン、と軽快な音が鳴り、応星はそれをソファーの座面へと投げ捨てて再び天井を仰ぎ見た。
 幾度となく見上げた天井は幼い頃から何も変わっていない。強いて言うならば、立ったときの天井との距離が近くなったことだろうか。さあさあと流れる水の音は知らない間に消えていて、思い切り背を伸ばすように背もたれに寄り掛かれば、代わりにてきぱきとテーブルの片付けを進めている刃が視界に入る。随分と手慣れたそれに、彼のバイトが活きているのだろうと実感して、同時に少しだけ寂しく思えてしまった。
 刃はきっと、この家を出て行くだろう。そうなればここは、応星一人が住むことになる。弟一人、親はなし。近場に工房をこさえるほどなのだから、応星自身に実家を出て行く選択肢などありはしない。刃の仕事を把握しているわけではないが、金銭面について困っているという相談など、聞いたこともないのだから、何の心配もいらないだろう。
 試しに応星が「刃は行く行くはこの家を出るのか」なんて訊いてみれば、刃は応星に目を配らせることもなく「当然だろう」と言った。

「だがそれは、貴様が現状をどうにかしたときにする」
「……ほお……俺の弟は随分と兄想いなこった」
「抜かせ。野垂れ死にすれば面倒だと思っているだけだ」

 ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らしながら刃はふきんを手にして、それを水で濯いでからハンガーへと干した。そうして一連の流れを終えた後、刃はちらりと応星の顔を横目で見やる。応星はそれをソファーに寄り掛かったまま見ているため、天地が逆になったままぱちりと視線が交わった。思わず「何だ?」と応星が問えば、刃は僅かに目を細め「酷い顔だな」と呟く。それこそ本当に、おかしなものを見るような目付きだった。
 用はない。――ただそう一言だけ呟き、刃は何の惜しげもなくその場を後にするようにリビングを出て行った。
 まあ、確かに死なれたあとの始末は面倒か――そう思った時、応星のスマホにひとつだけ音が鳴る。それに気が付いて彼は投げ捨てたスマホを手に取り、画面を開いた。そこに映し出されているのは、先程送ったメッセージに対する回答で。全貌を知るべくメッセージアプリを開けば、『もちろん構わないよ』という出だしに、空いている時間を載せる景元のメッセージがあった。
 社長のくせに存外速い返答に、応星は「多忙じゃないのか」と独り言を洩らしたのだった。