「本当に酷い顔だね」
薄ら笑みを浮かべつつ、コーヒーカップを手に景元は言った。応星と同じように白く染まった長髪に、整った顔立ち。まるで猫を彷彿とさせる淡い金のような瞳に、緩く弧を描く口許。ほんのりあどけなさを残したまま、カジュアルな服を着こなした彼はほうほうと湯気が立つコーヒーを一口だけ飲んだ。
景元にメッセージを送ってから二日後。本当に社長がこんなに早く時間が空くのかと疑いながら、近くの喫茶店に身を寄せる応星は、笑みを浮かべる彼をキッと睨む。その顔に数日前ほどの余裕はなく、目元には色濃くなった隈がしっかりと刻まれている。眉間にシワを寄せ、唇をぐっと噛み締める様は、応星の友人ですらも見ていられない顔だったのだろう。「それはやめた方がいい」と言って自らの口許を人差し指でトントンと指し示し、合図を送る。その仕草に気が付いた応星はハッとしたように口を開け、そうして再び唇の端を噛んだ。
自ら誘った手前、応星が約束を放棄するわけにもいかず、彼は指定の喫茶店に景元といた。待ち合わせは現地集合であったにも拘わらず、自分は在宅ワークと言っても差し支えのない仕事だと思っている応星よりも早く、彼は座席に着いていたのだ。かの有名な会社を継いだ男が、何故こんなにも早くに着いているのかと問えば、景元は「まあ、私は社長だからね」とだけ言って笑っていた。この裏にどれほどの苦労と我が儘が存在しているのか、応星には到底分からないものではあるが、彼の部下に迷惑をかけたであろうことだけは薄々感じている。
その景元に言われるがままに応星は対面の座席に座り、――そのままくたりとテーブルへ倒れ込んだ。事前に注文をしていたらしい景元の元にコーヒーが運ばれてきて、自身の好む甘さに仕立て上げた後に発せられた言葉が、つい先程の言葉である。
景元はソーサーにカップを置きながら、「大丈夫なのかい」と応星に言った。それを聞き、ゆっくりと顔を上げるように肘を突いて、頬杖を着く応星は「大丈夫に見えるか」と試しに問う。
それに彼はにこりと微笑んで――
「大丈夫であればそんな様子にはならないね」
――と、まるで他人事のように応星に告げた。
彼は応星よりもいくらか年下ではあるが、応星には対等に接している。その態度は初めて会ったときからであり、初めこそは生意気だと思っていた応星も、いつの間にか彼の距離感にはすっかり気を許していた。
その景元は決して応星に綺麗事も、嘘も吐くことはない。だからこそ他人事のように告げられた言葉に、応星は「そうか」とだけ返した。
――実際のところ、応星自身も大丈夫だとお世辞にも言えるはずもなかった。メッセージを送った日が僅か二日前だというのに、その二日間で応星は何度も眠りに苛まれてしまっていた。ある日は食事中に。また次の日には入浴中に。或いはテレビを見ながら、洗濯をこなしながら――など、強い眠気に襲われていたのだ。その間、たった数分間目を閉じていただけだというのに、相変わらず彼の夢を見てしまっていた。
対面して、穏やかに酒を酌み交わす。時には現実と同じように工房にこもっている応星の元に、彼がふらりと現れる。状況は応星が夢の中で情報を得る度に少しずつ変わっていって、時には見知らぬ像が立つ海の浜辺で、ゆったりと歩いている情景もあった。その間は酷く心地のいい時間が流れていて、応星自身がすっかり気を絆されてしまうほど。最早夢か現実かの区別もつかないほどそれに気を取られ、ほんの一瞬目を離した隙にそれが訪れてしまうのだ。
一体何度彼を失ったことだろうか。応星は頭を抱え、「忘れろ」という言葉が反芻する度に思わず耳を塞いでしまう。彼の言葉の通り、応星は彼の顔をほんの少しも思い出すことができず、懸命に記憶の糸を手繰り寄せて思い出せるのは、動かなくなった彼の体のみ。ぽっかりと穴が空けられ、そこから絶えず血が流れ続けるものだから、起きても尚応星の心臓はバクバクと奇妙に音を奏でるだけだった。
恐怖のような、不安のような感情が彼の胸に募り続ける。毎回彼の体を支えるようにしてしまう所為か、現実にいるとしても時折手のひらにべっとりと血がついている錯覚を、応星は覚えてしまっていた。その度に背筋が凍るほどの悪寒を覚え、足元から崩れ落ちてぐっと頭を抱える。今は夢じゃないと己に言い聞かせる度に、自分の中の誰かが咎めるよう「あと何度失うつもりだ」と呟いてきている気がした。
――その状況下で臨む景元との息抜きに、応星はどうしたものかと頭を悩ませる。すっかり崩れた髪を片手で掻き上げ、弱り切った目を強く瞑って何とか頭を働かせようと試みた。――だが、数秒もすれば脳が、体が勝手に睡眠を求めるよう意識が朧になってしまう。咄嗟に目を開き、頭を左右に振って景元へと視線を投げれば、彼は黙って応星を見つめていた。
「……景元、お前は、前世というものを信じるか?」
折角の息抜きだというのにも拘わらず、適切な話題すらも応星には用意ができなかった。思わず刃と交わしたことがある話題を口にして、自分自身の奇行を誤魔化すようにすると、彼は首を小さく傾げる。なかなかに珍妙な話題ではあるが、喫茶店の中はそれなりに人がいて、尚且つクラシック音楽が流れているお陰もあって、他人には聞かれていないようだ。
「前世……か。それはまた一体どうして?」
彼は興味深そうに応星の問いに返事をしたあと、軽く考え込むように口許に手を添える。前髪で左目だけを隠した景元は、見えている右目をほんの少しだけ不思議そうに細めた。心底気になるというわけでもないが、決して大丈夫と言い切れない応星がやっとの思いで口にした話題に、多少なりとも興味を示したようだ。
応星は返された問いに対して、「大したことじゃないが」と言う。
「以前刃に訊かれたことがあって」
「それはまた不思議な状況だね」
肘を突き、頬杖を突いたままの応星は溜め息交じりにありのままのことを伝える。そのときの自分は特に気にも留めていなかったが、現状を踏まえれば何か関係があるのかと思うことが多々あるのだ。全く同じ名前で、全く同じ職人の道を進んでいるらしいそれを、前世と呼ばずにどう形容すればいいのかも分からない。分からないからこそ、何気なく景元に問いかけたのだ。
刃は信じているわけでもないが、信じていないわけでもない。何故ならその前世は、紛れもなく他でもない自分自身が経験したことであり、「信じる」「信じない」で片付けられるものではないからだ。
――その感覚を応星は理解することができず、眉を顰めることしかできなかった。詳細は分からないものの、それは自分自身が経験したことだというのだから、自分が見る夢は前世のものなのではないか。――そんな気持ちが芽生えている。全く同じ人間の夢を見るなど、滅多にない状況だ。その夢の内容が内容なだけに、応星はそれを前世だと信じたくはなかった。
それが前世だとすれば――応星は恋い焦がれた月を、目の前で失ったことになるのだ。
――なんて目の前の友人に言うこともなく、応星は景元の言葉を待った。一度髪を掻き上げてから手を下ろせば、ぱらりと前髪が目の前に落ちてくる。その髪の隙間からじっと景元を見つめていると、彼は「ふむ、」と呟いて、ゆっくりと唇を開いた。
「そうだね……これは適切な返答になるかも分からないが、率直に言っても構わないかい」
彼は妙に神妙な面持ちで応星に視線を合わせたかと思えば、ゆっくりと手を組み、テーブルの上へと置く。その様子に応星は体を起こし、こくりと頷いた。どんな答えが返ってこようとも、真っ直ぐに受け止めるつもりでいるのだ。
そうして景元は応星の様子を見守ったあと、再びゆっくりと唇を開く。
「『信じる』『信じない』という言葉で言い表すのは少し、難しい。何せそれは、『私』が経験したことだから。――これが、私自身の回答だよ」
一言で表すとすると、信じる、かな。
――そう言って景元はほんの少しだけ困ったように、寂しそうに笑った。その理由を応星は知り得ないが、ただ黙って目を閉じ「そうか……」と呟く。そうか、とまるで納得したかのように呟き、くしゃりと顔を歪めた。あたかも何かを知っているかのような口振りは、刃が告げてきたものと全く同じもので。彼もまた前世と呼ばれるものを知っているに違いないと、応星は顔を片手で覆う。
「…………景元」
「……何だい」
すっかり光を失った視界に、懸命に頭を動かしながら応星は景元の名前を呟いた。それは、自分が思うよりも遥かに低く、蚊の鳴くような声と言われても差し支えがないほどにか細い。それに景元も何かを察したのか、慎重に様子を窺うような声音で応星の声に返事をする。
「夢を、見る。毎回、人を失う夢だ。毎晩、毎晩、俺はその人に何をすることもできず、ただ、死にゆく様を、眺めることしかできない……」
言葉を選び、相手に説明をしようにも、頭の働かない応星はただ思ったことを口にすることしかできなかった。一から説明した方がいいのは十分に理解していて、彼もそうしたい気持ちはある。だが、気を抜けばすぐにでも失いそうな意識を保つためには、言葉を少しずつでも繋ぐしか他なかった。
ここは喫茶店。本来ならばメニューのひとつでも頼み、飲食を挟めばいくらか眠気も落ち着くだろうが、今の応星には考えつかない。それよりも早く、少しでもこの夢を誰かに話して気持ちを楽にしたかった。話して、考えをまとめて。そうして次に夢を見たとき、何らかの手を打てれば幸いだと思っていたのだ。
「針のように、鋭利なものが、彼を貫くんだ」
――ぴくり。景元の手指が僅かに動いたことに、視界を覆う応星は気付くことはない。
「なのに、彼は、痛がる様子なんて、見せやしない」
少しずつ応星はテーブルの上に崩れ落ちる。初めは突いていた肘もずるずると自身の体に寄せ、すっかり俯く姿になった彼は、景元が何も言わないのをいいことに言葉を続けた。
「俺は、それをどうにかしてやりたいんだが……何もしてやれないんだ」
宙を舞う黒い髪、貫かれた拍子に飛び散る鮮血。飲んでいた酒の味も忘れ、腹の奥底からやってくる吐き気を抑え込み、応星は何度も彼の元へと駆け寄った。形のいい唇から垂れる赤い液体に、光を失う瞳を何度も見たというのに、その顔は少しだって鮮明になることはない。
――そんな彼を、応星は救いたいと何度も思った。結局はただの夢。いつかは違う結末が待っているはずだと思いながらも、伸ばした手は相変わらず空を掠めるよう。抱き留めたところで手のひらから水が溢れ落ちるように、彼の命は潰えるばかり。その直前で毎回彼に言霊のように忘れろと言われてしまうのだ。
そう目の前にいる友人に告げて、応星は漸く一息吐いた。景元は応星が言葉を切るまで何も言わず、ただ黙って話を聞いてくれていた。それが彼の人望が厚い理由のひとつでもあるのだろう。騒がしく耳触りだと思えてしまう他人のやり取りの中で、しっかりと自身の言葉を聞き入れてくれる景元に、応星は少なからず好感を抱いていた。
彼は応星より二、三歳ほど年下だが、応星に対する敬いの情など欠片も見せることはない。初めて会った学生の頃、いやに馴れ馴れしく接してきた景元に対して、応星は礼儀知らずという印象を受けていた。たとえ応星が卒業して、職に就き、周りから賞賛される作品を作る人間になったとしても、景元は相も変わらずの距離感のまま接してくるのだ。
それに救いを感じるようになったのは、周りが応星との距離を空けて、ろくに連絡を取ることもなくなってからだ。
手掛けた作品が賞賛され、誰も彼もが応星を認める度に、学生の頃の友を一人ずつ失っていくような錯覚を得た。数年前に行われた同窓会で久し振りに顔を合わせる面子に、彼は一定の距離を置かれたまま話をされた。まるで芸能人にでも会うかのような態度を取る女性たちには、流石の応星も一歩身を引き、適当な理由を付けてその場を後にしたこともある。
両親を失い、職に没頭していた所為だろうか――まるで俗世から切り離されたような感覚。それが足元を這いずり回っていた頃、景元だけは変わらず応星には馴れ馴れしく接していたのだ。元より景元自身が妙な貫禄を持ち、会社を継ぐ男だというものだから尚更なのだろう。その軽々しい口調に、応星は何度救われたことだろうか。
やはり社長になる男の器は広く、人との付き合い方を十分に把握しているらしい。応星がふう、と息を吐くタイミングで、彼は「平気かい」とだけ呟いた。一体何だと応星が視線を投げかけると、彼は眉を八の字にして、「顔色が良くない」と呟く。
「気分転換がてら何か頼もうか。それとも、大人しく帰るのがいいと思うんだが」
やけに心配そうに口を出す景元に、応星は彼と同じコーヒーを頼むことにした。テーブルにある呼び鈴を鳴らし、フロントの従業員を呼んでからコーヒーをひとつ頼む。砂糖やミルクなど付けるかどうかと訊かれたが、眠気に押し負けてしまいそうな応星はブラックを頼んだ。濃いカフェインを摂取すれば少しは目が覚めるだろうと思ってのことだ。
コーヒーを待つ間、応星は景元と話をすることもなく。横目で窓の向こうを流れる人波を見つめるだけだった。そうして暫くした頃、従業員がコーヒーを運び、応星の目の前へとそっと置く。それに快くありがとうと言ったのは、彼の目の前にいる景元だった。
「……君は、どうしてその彼を救いたいんだい?」
――不意に話を蒸し返すよう、景元がぽつりと応星に問う。ほうほうと湯気が湧き立つコーヒーを口許に寄せて、一口だけ口に含んでいた応星は、虚ろな藤紫色の瞳を景元に向けてからこくりとそれを飲み込んだ。
どうして――どうして?
ふと脳裏をよぎる疑問に、応星は手に持つカップをゆっくりとソーサーに戻す。カチン、と小さく鳴った音を皮切りに、少しずつ応星の頭が働き始める。ぼうっと景元を見つめているようで、どこか遠くを見つめ、騒がしいはずの店内の音が、少しずつ遠くなっていくのを感じていた。
どうして、など理由は明白だ。毎夜毎夜夢を重ね、逢瀬を重ねる度に、夢の中の自分と現実の自分の心が少しずつ同調していったからだ。初めは綺麗だと思っているだけだった応星も、いつの間にかその細部にまで視線を向けてしまっていて。どうしようもない加護欲と、行き場のない熱が彼に向けられているからだ。揺蕩うその黒髪を手で掬い、口付けを落としてやりたいと思うことも、あの細腰を抱き寄せてしまいたいと思うことも彼が初めてで。それが好意からくるものであると自覚した応星は、どうにか彼を救いたいと思っていた。
――ただ、その裏に少しばかりの罪悪感が渦巻いていて、救いたいと願うその最たる理由が、その罪悪感からくるものであることも自覚している。彼が針に刺される度に胸を焼くような息苦しさを覚え、崩れ落ちる体を支える度に自分への嫌悪感が募る。どうして救えなかったのかと、自分ではない誰かが応星を咎めているような気がしてならなかった。
「――どうして、なんて、」
ズキリ、釘を刺されたかのような痛みがこめかみから、頭全体へと迸る。堪らず応星は額に手を当てながら強く目を瞑り、言葉の続きを紡いだ。
「俺は、彼がそうなるのを、見ていられなくて」
言葉を発する度に妙に痛む頭に、応星の言葉が微かに小さくなる。
「彼だけが、そうなるのを見て、いられなくて……」
「応星、無理に話そうとしなくてもいいんだよ」
あまりの頭の痛みについ顔が顰められたのを、景元は見ていたのだろう。応星は無意識のうちに髪を掴み、くしゃりと握り締めて眉間にシワを寄せていた。額を伝う季節外れの汗はそのまま頬を伝って、音もなく滴り落ちる。知らず知らずのうちにドクドクと強く脈を打っている心臓は、景元の呼びかけに意識を取り戻した応星にとってはいやに五月蠅く、鼓動は気味が悪かった。
そろ、と応星は目を開けて、呆然と彼に視線を投げる。視線の向こう――景元は穏やかでありながらも心配そうな表情を浮かべていた。そうして僅かに弧を描く唇を開き、「今日はお開きにしよう」と彼に告げる。
「景元……」
「応星……君は少し、仕事も休んだ方がいい。大丈夫、話はつけておくからさ」
その傷だらけの手じゃどのみち仕事もできないだろう。
そう言って差された指を視線で辿ると、――刃がわざわざ、それも嫌そうに巻いてくれた包帯に、じわりと赤が滲んでいるのだった。