喫茶店の雰囲気は嫌いではなかった。和気藹々と会話を交わすことで、誰が何を好み、どういったものが流行になっているのかといった情報を得られるからだ。その中で食べるデザートやら昼食やらは、家庭で作るものとはひと味違って、たまには悪くないなどと思っていた。当然、今回景元とのやり取りの中で応星はそういった気持ちに浸るつもりだったし、恐らく景元もそのつもりだったのだろう。
じわりと血が滲んだ包帯を眺めた応星は、手のひらに広がる痛みに多少なりとも顔を顰めた。じりじり、じくじくと外から内側へ焼けるような痛みは興を逸らしてくるが、そのお陰で眠気がなくなり、気持ち程度の食欲が湧いてくる。――出血している最中に食欲がどうという話がおかしいことは彼なりに自覚はしているが、忙しい時間を割いてくれた景元にはそれ相応のものを口にしてほしいと思うのだ。
傷を負っている右手を体で隠し、応星は呼び鈴を鳴らす。そのあとに足早に駆け寄ったウェイトレスにケーキを注文して、その姿を見送った。ここはパンケーキも人気なんだと言った景元はパンケーキを頼み、応星はフルーツタルトを頼む。彼の言うパンケーキが無性に気になりはしたが、どうせならと水分もビタミンも摂れるであろうフルーツタルトにした。
老舗のケーキ屋ではないにしろ、デザートの種類が豊富な喫茶店に、応星はじっくりとメニュー表を眺める。自宅の近辺ではないこの喫茶店は、つい最近オープンしたという話を景元がしていた。その甲斐あってか、店は繁盛していて、人で賑わっている。もう少し時間を置けばいくらか人の波も落ち着くだろう。そのときは見かけによらず存外甘いものも食べられる刃を誘うのも悪くはないな、などと思いながら応星は景元の話を聞いていた。
本当にその状況で食べられるのか、と彼は心配そうに応星に問いかける。深い黄金のような瞳が不安げに瞬いて、緩く弧を描く口許さえも今は少しだけ下がっているように見えた。
その様子が何だか可笑しくて、応星は軽く笑いながら「問題ない」と言ったのを覚えている。そのあとに強がっているわけではない応星の顔を見た景元が、軽く両手を組みながら笑ったのを、応星は物珍しそうに見た。学生の頃からよく見ていた彼の笑みではあるが、先程のそれは何の悪意もない綺麗な笑い方だったと思うのだ。
そうこうしている間に応星と景元の元にそれぞれのデザートがやってきて、まるで子供のように目を輝かせて眺めてしまった。普段は縁のないものを目の前にすると、どうにも童心に返ってしまうことがある。特に彩り豊かなフルーツは、照明の影響も相まって宝石のように輝いていた。
イチゴやマンゴー、ミカンやキウイ、ブルーベリーなどの装飾で着飾ったタルト生地に銀のフォークを刺して、掬って口へと運ぶ。芳醇な甘い香りと共に広がる甘味に舌鼓を打ち、「こいつは美味いな」と言えば、景元は満足げに「それはよかった」と言って、パンケーキにナイフとフォークを向ける。メイプルシロップがたっぷりかけられたパンケーキを丁寧にナイフで一口サイズに切り分け、左手に持ったフォークで刺してから口へ運ぶ。その所作があまりにも丁寧で、且つすっかり慣れているようにも見えて。応星は「流石だな」と言った。
「嫌でも慣れなきゃならないからね。どうだい、応星。君も習ってみるかい?」
「いいや、遠慮させてくれ。体が凝りそうだ」
軽口を叩き合えるほどの余裕があり、応星は目の前にある宝石を頬張っていた。ケーキも悪くはないが、パンケーキの温かくも柔らかな甘い香りも悪くないだろう。到底店にあるものには及ぶ気はしないが、帰る際にスーパーでも立ち寄って、パンケーキの材料でも買おうかと念頭に置いていた。
――だからこそ彼は景元と別れ、帰路に就いた流れでスーパーに立ち寄り、材料を買っていたのだ。レジに並んだ際、訝しげな目と心配そうな目を向けられていることに気が付き、その視線を追えば己の右手に視線が注がれているのを知る。そうして咄嗟に「包帯を替え忘れているんだ」と嘯いて、彼は足早に自宅へと向かって歩いていた。
喫茶店の代金は誘った手前、応星が払うつもりでいたのだが、知らない間に景元が済ませてしまっていたのだ。「君の元気そうな顔が見られてよかった」などと言っていたが、どちらかと言えばそれは応星の台詞で。社長として多忙であるはずの景元に彼は、「この借りは返すからな」とまるで悪役のような言葉を押しつけてしまった。
応星にできることはと言えば、物作りで一品作ることくらい。どうせなら景元が使いそうな何かを作って贈ってやろうと思いながら、彼は自宅の扉を開ける――
――というところまでは確かに意識があったのだ。
応星は瞬きを数回繰り返し、辺りを見渡す。藤紫色の瞳、真っ白に染まる髪。過客の衣服を纏ったその姿はまさに夢の中そのもので。応星は頭に疑問符を浮かべながら咄嗟に頭を抱える。これは本当に夢なのか。夢であるならばどうして体が動くのか。そもそも、家に入るまでは確かに意識ははっきりとしていたはずなのに、どうして意識を失ってしまったのか。いくつもの疑問が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
珍しいことに辺り一帯は真っ暗な闇に包まれたかのようで、何の景色もない。酒の香りもしなければ、木々が擦れる音もない。ただ、真っ暗な虚空が広がっているだけで、それこそ応星は妙な恐怖心を煽られているような気持ちになる。そわそわと足元が落ち着かない感覚に痺れを切らし、堪らず目的もなく歩き出せば足音だけは鮮明に響いてきた。
仕方がないと応星は溜め息を吐き、赴くままに足を進める。歩く度に自身の髪がなびく感覚は現実のものと大差なく、「これは夢だ」と思わなければ本当に現実との境界を失うほどだ。いつしか夢と現実の区別もつかないで日常を過ごすのではないかと、彼は不安に襲われながら懸命に足を動かした。前に進んでいるのか、止まったままその場で足踏みをしているのかも分からない状況で、ふと、目の前が開かれる。
――同時に体に何らかの重力が加わったかのような錯覚を得た。それは、うつらうつらと船を漕いでいる最中、意識を失うすんでのところまできたときの感覚と似ていて。体が深い眠りに就き始めたのだと、彼は思う。――実際はこうして意識ばかりがはっきりとしているので、到底眠っているような感覚は得られないのだが。
「夢の中で眠れば、眠ってる感覚が得られたのか……?」
――不意にそんな疑問が浮かんで、応星は無意識のうちに言葉を洩らす。それは相変わらず独り言のように虚空を漂うだけではあるが、明らかに「自分の口から出たものである」という声量に、応星自身が驚きを隠せなかった。何せ普段の夢であるならば、彼の唇は動くことも言葉を紡ぐこともできやしない。この視界や思考だけは我が物だというのにも拘わらず、体の動きや言動は全て夢の中の応星が主導権を握っていたのだ。彼にとってそれが常であり、当たり前の状況だったからこそ、応星はぽかんと口を開けて呆ける。
――そうこうしている間に目の前の景色は暗闇から一変して、広大な海が広がる砂浜へと移り変わった。背には「彼」に瓜二つの像があり、その向こうには到底応星のような人間が立ち入ることは許されていないような、遺跡のような場所がある。眼前には広い砂浜に、どこまでも続く水平線が広がっていた。
その砂浜で、もう何度も目にした馴染みのある背が妙なことに宙に浮いている。長い濡羽色の髪。すらりと伸びた背筋。後ろ姿からでも分かる長く尖った耳と、頭部から覗く淡い翡翠のツノ。いつの頃か時折見かける蒼い龍の尻尾は、いつもより幾分も長く、海を漂うように小さく揺れた。
どうやら瞑想しているらしい。――そう認識をしてから、応星は極力音を立てないよう慎重に歩き、彼の元へと歩み寄る。夢の最後は決まって悲惨な姿になってしまう彼ではあるが、夢の始まりだけはいつもと何ら変わらない、綺麗な姿のままだ。風がどこからか吹く度に彼の袖が揺らめいて、鶴の羽ばたきが見え隠れする。その度に応星は、どこか胸の奥底からふつふつと湧く喜びを噛み締めていた。
石畳の床が砂浜へと変わり、足が砂に埋もれながらも彼の元に近付いた頃。ふと、応星の存在を知ったらしい彼の耳がぴくりと動く。器用にタッセルピアスのついた右耳の先端だけを動かしてから、彼は微かに俯いていた顔を上げた。すると、長かった尾はその姿を隠し、浮いていた彼の足は砂浜に埋もれる。そうして躊躇いもなく振り返り、その天色の瞳を応星に向けた。
古海のように深く、青々とした双眸が応星の体を射貫く。人間と何ら変わりのない瞳のはずなのに、どこか人間離れしたその双眸に応星は言葉を一度だけ失って、ごくりと生唾を飲んだ。夜ではないというのに、彼の美しさは相変わらずのままで。さわさわと吹く風は彼の儚さを助長させてくる。どうにかしてその細い手を掴まなければ、どこかに消えてしまいそうな印象さえ受けた。
彼は応星の姿を見ても唇を開くことはない。それどころか、柔く微笑むことも。親しげに酒を酌み交わすこともしない。ただ黙って応星を見つめているだけだった。
その瞳が何やら寂しげに見えてしまって。応星は堪らず止めかけていた足をそうっと動かすと、彼はそれを押し止めるように小さく眉間にシワを寄せた。じっとりと、まるで睨むようなそれに堪らず彼は足を止めて、首を傾げる。普段ならもっと親しげだったはず――そう思って、思わず「どうしたんだ」と言えば、彼の視線が僅かに逸らされた。
――そもそも夢に「普段」といったような感覚を持ち合わせるなど、おかしな話ではあるが、応星は終ぞその事実に気が付くことはなかった。
彼は応星の問いに一度だけ唇を開いてから、閉ざしてしまう。――そうしてもう一度口を開き、何かを躊躇っているような素振りを見せてから漸く、絞り出したかのような言葉を紡ぐ。
「――忘れろ、と言っているだろう」
淡々と、小さなそれに応星は「え、」と間抜けな声を溢した。
彼が呟いたそれは明らかに目の前の応星に向けられたものであり、夢で親しくしていた応星に向けられたものではない。それは、彼が「応星」という存在を認識していることを示していて、尚且つそれがただの夢ではないことを示しているのだ。一体何故そういう状況に陥ったのかは定かではないが、応星は咄嗟に「何でだ」と彼に言う。
「今まではあんなにも親しげに酒を酌み交わしていただろ? どうしてそんなことを言うんだ」
まるで、彼自身はそのことを忘れてしまいたいと言わんばかりのそれに、堪らず声を張った。傍には彼以外の存在などありはしないのに、不思議と声が掻き消されてしまうのではないかという一抹の不安が襲っての声量だ。海のさざ波にも負けないよう紡いだ言葉に、応星は彼の答えを待った。会話が可能であると言うのなら、いくつも訊きたいことがある。一体何故自分の夢に出てくるのか、どういう関係なのか。一体何を忘れろというのか――思い付く限りのものを訊こうとして――、応星の言葉が詰まる。
彼の目がやはり寂しそうな色を湛えているのだ。深い海の色をしたその向こう、今にも泣き出しそうな雰囲気のそれに、困惑の色が見え隠れする。一体何故、そんな顔をするのか、応星にはどうしても分からなかった。
「……どうして、だなんて。其方は何も知らないだろう……知らないのなら、知らないままでいればいい。何も知らず、全てを忘れてしまえばいい」
応星の問いに彼は真っ直ぐに返事をした。彼は応星の知らない何かを知っていて、応星はそれに関与しているような口振りだ。ふい、と顔を逸らされたまま告げられた言葉に応星が納得するはずもなく、その妙な頑固さにほんの少しだけもどかしさを覚える。
どうやら会話は可能なようだ。自らの意思で動き、言葉を発することができる時点で普段の夢とは違うと思っていたものの、確証は得られなかった。こればかりは応星の錯覚で、都合のいい状況をそうであると認識してしまっていただけではないかと、思っていたほど。彼に対する妙な加護欲も、どうしようもない胸の熱さも、一時の錯覚ではないのかと、思っていたのだ。
――だが実際は、滑稽なことに応星は夢に現れていた彼を、一途に愛してしまっているようだった。まるでそうなるのが当たり前だと言わんばかりに、その手を取って強く抱き締めてしまいたい衝動に駆られる。それを、なけなしの理性で押し止めながら応星は「何をだ」と言う。
「何を忘れろって言うんだ。この夢をか? それとも、また別のものをか?」
一歩進んだようで、まるで進んでいない会話に、応星は少しずつ踏み込む。ザア、と小さく聞こえてくる海のさざ波は相変わらず大人しい音色を奏でているが、応星の胸中は荒れた海のように騒がしい。
「全てを。この夢も、恨みも、憎しみも。余に関する全ての事象を」
――忘れてはくれないか、応星。
彼はそう言って、強く目を閉じ始める。体の両脇に降りている手が、何かを堪えるように強く握り締められるのを見かねて、応星は背筋が凍る感覚を得た。夢の他に恨みも憎しみも忘れろと彼は言うが、一体何に対する感情なのかは定かにはなっていない。そのことを問い質そうという気持ちはあったが、彼の様子に思わず口が、体が固まってしまったのだ。
彼に名前を呼ばれたことは確かに嬉しく、ドキリと胸が高鳴る。――が、同時に彼の行動に、これから訪れるであろう出来事が応星の体の動きを止めてしまった。足を動かすべきだと頭は言っているはずだが、肝心の足は竦んだかのように動くことはない。手を引いてその場から彼を引き剥がすべきだと頭では分かっているのに、糸が切れたかのように指先のひとつすら動かせなかった。
「……所詮は、過ぎ去ったことだ」
――そう、彼が応星を慰めるような口振りで呟いた。
その直後、どこから現れるのかも分からない針が、彼の体を背後から貫く。直径十五センチほどの太さのある鋭利な凶器が、そのしなやかな体を、胸を惜しげもなく射貫くのだ。
「――――っ」
鈍い音も、鋭い音も鳴ることはなく。ただ、ドッとひと思いに彼の体を突き刺す。いつもなら驚いたような表情を浮かべていた彼は、今回ばかりは痛みに耐えるかのように歯を食い縛り、顔を顰めた。声を押し殺すように息を呑む代わりに、彼の口からは噴水の水が噴き出すように、鮮血が溢れる。刺された拍子に針の先端から飛び散った赤いそれは、宙を舞ってから無慈悲にも応星の頬へ落ちていった。
ぱたり。生温かなそれが、応星の頬の輪郭をなぞる。つうっと伝うそれに、応星は何もできず、ただ呆然と彼の悲惨な姿を視界に捉えていた。彼は抵抗することはない。ズッ、と引き抜かれた針は再度跡形もなく消え去って、彼は力なくその場に崩れ落ちるだけだった。
――そのときになって漸く応星の足は動くことを思い出し、ふらふらと覚束ない足取りで彼の傍へと歩み寄る。ひゅうひゅうと微かに風を切るような音が聞こえてきていて、彼の体の真下には目が眩むほどの血液が砂浜を赤く彩った。うつ伏せのままでは息ができないなどと思い、応星は震える手で彼の体に触れる。彼の体は思うよりも遥かに冷たく、今にも氷のように冷え切ってしまいそうな印象を受けた。
応星は目眩を覚えながらも彼の体をゆっくりと抱える。その瞬間、彼の傷口から怯えたくなるほどの血液が流れ、ごぽっと耳を疑いたくなるほどのそれが口から溢れ出す。堪らず「悪い、痛いよな」だなんて呟きながら仰向けに抱え込むと、光を失い始めた天色の瞳が虚空を見つめていた。
決して応星を見ることはない視線。それがあまりにも寂しくて、悲しくて。応星は「なあ」と声をかける。相も変わらず彼の名前は一切出てこない。先に名前を聞くべきだったと後悔しながら、応星は冷め切って色を失い始める彼の頬に手を添える。
「頼む、俺を見てくれ……」
なるべく刺激を与えないようにするべきか。それとも、頬を軽く叩いて意識を呼び起こすべきか。悩んだ末に応星は彼の頬を、輪郭をなぞってから、柔らかく割れ物を包むように添え直す。そうして自分の顔を寄せて半ば無理矢理彼の視線を応星にだけ向けるようにした。
長い白髪を簪でまとめているお陰で、応星の髪は砂浜に落ちることはない。それでも屈み込んでいる所為で、まとめている髪が多少砂に落ちてしまっているが、それを気に留めるほどの余裕を応星は残していなかった。ただ、冷えていく彼の体をどうにか温めてやりたくて、自分の体で覆い隠すように応星は背中を丸める。到底意味のない行為だと、頭の片隅で冷静な自分が冷たく告げた気がしたが、応星はそれをやめなかった。
ひゅうひゅうと風が抜けるような音は、変わらず彼の口から放たれている。それが顔を引き寄せた結果自分の耳元で聞こえてしまっていて。どうしようもなく虚しく、悲しい気持ちになる。一向に温まらない頬は、応星の熱を奪いながらも冷めていくだけだった。
「なあ、見えてるか……俺はまだ、アンタに訊きたいことがあるんだ……」
どろどろと溢れる胸元のそれを視界に入れず、応星は懸命に声をかけた。辛うじて息をしている状態の彼に言葉が聞こえているのかは分からないが、叫び出しそうになるのを堪えるには、これしか方法がなかった。頼むから見てくれ、と応星は呟き、彼の額に自分の額を押しつける。気が付けば翡翠のツノはすっかり姿をなくし、彼の姿は応星と何ら変わりのない人種そのものだった。
「お……ぅ、せ……」
――何も変わらない現状に、応星が悔しげに歯を食い縛ったとき。残る意識を掻き集め、懸命に絞り出したであろう彼の呟きが応星の耳に届く。それこそまるで蚊の鳴くような声と言っても過言ではないほどの声量に、応星はハッとして目を見開いてから、「ああ」と言う。
「俺はここだ、ここに……傍にいるぞ……」
ゆるゆると、上げられた彼の手を取り、応星はそれを自分の頬へと寄せる。自分はここにいて、彼の傍にいると何を言わずとも示せるようにと思っての言動だった。それが彼に伝わっているかどうかは応星にも分かりかねるが、半分ほど閉じかけている彼の瞼が小さく震えているのを見るに、声は辛うじて聞こえているのだろう。応星は変わらず彼との関係性を少しも思い出すことはできないのだが、彼の呼びかけに応えないわけにはいかなかった。
――そうするべきだと、本能のようなものが囁いたからだ。
するりと彼の冷たい手を頬に滑らせて、彼の言葉の続きを待つ。一体何を告げるつもりなのかと多少の緊張を覚えたが、やはり彼が紡ぐ言葉は「忘れろ」の一択。それでも多少の違いを挙げるとするのなら――、彼が人間のように痛みを覚え、途切れ途切れの言葉を紡ぐことだろうか。
まるで今すぐにでも掻き消されてしまいそうな命の灯火に、どうしようもない悲しみが応星の胸に募り始める。普段の夢であれば幾許かは平然と取り繕えたはずだったが、こうにも目の前に「存在している」実感を与えてくるとなると話は別だった。今まで探し求め、漸く見つけた大切なものを再び失いそうになる焦燥感は、両親を失ったときの悲しみとよく似ている気がした。
「わ、すれ、……」
――そう、何とか繰り返す彼に、応星は遂に「嫌だ」と言った。
「こんなにも夢に出てくるんだ……忘れられるわけが、ないだろ……?」
そんな寂しいことを言わないでくれ。――応星はそう言って、彼の手を握る手に力を込める。彼の頬に添えていた手を、彼の手に当てたものだから、顔の距離はいくらか遠ざかってはいるが、それでも応星は極力彼に顔を近付けるのだ。そうすることで、夢から覚めたとき、彼を忘れないでいられるような気がして。薄く濁った海の瞳に、どうにか自分の存在を刻みつけたかった。
「……う、か、ら……」
変わらずに忘れろと紡いでいた、彼の言葉が少しだけ異変を見せる。何かを訴えるかのように、長い言葉を紡いだかのような言葉の端々に、応星は意識を注いだ。ゆっくりと彼に合わせるように「何だ……?」と優しく問いかければ、彼は再び喉を震わせて言葉を溢し始める。
「余、が…………せ、負う、から、……だ、か……ら」
全てを忘れて、生を全うしてくれ。
途切れ途切れに、懸命に紡いだであろう言葉に、応星は目を丸くした。
そうして初めて片鱗を味わったとき。彼が言ったであろう「全て余が背負おう」という言葉をふと思い出す。何も知らなくていい、何も思い出さなくていい。その理由は、全て彼がその頼りない背中で背負い、全てを抱えるからだというのだ。それが、彼がこのような目に遭う理由に直結しているのか、そうでないのか彼には分からない。ただ、応星も背負うべき何かを、彼が独りで抱え込んでいることだけは理解した。
――だが、一体何を。
そう目を丸くして言葉を失っていると、震えていた彼の瞼が力なく落ちていくのが目に見える。それが、彼の終わりだと知ると同時に応星は咄嗟に「やめろ!」と何かに向かって声を張り上げた。
「逝くな……! 頼む、逝かないでくれ……っ、丹」