裂傷


 ――自分が何の名前を呼ぼうとしたのか。応星は見当もつかないまま目を覚ます感覚に誘われた。
 ふ、と持ち上げる瞼の重みは、すっかり疲労が溜まってしまったそれによく似ている。今にも眠りに落ちそうなほど重く、瞼を押し上げるのにいくらかの労力が必要で。何とかして動かした手で目元を擦り、目を開いた。

 扉を開けた瞬間に意識を失ったはずの応星の体は、知らない間にリビングのソファーに寝かされている。こんなことをできる人間は弟である刃以外にはいないと、彼は申し訳なさに胸を焼いた。彼を救えないことに対する己への嫌悪感にも、胸を焦がした。擦っていた手を裏返し、そのまま手の甲を目元に載せる。途方もない罪悪感は彼を救えなかったことに対してなのか、それとも彼を何度も失ったことそのものに対してなのか。応星には区別がつかなかった。

 ただ、訳も分からず目元から流れてくる涙を拭い、嗚咽を堪えることが、応星にできる唯一のことであるのは確かだった。

「っ……ぅ、……」

 いい大人がみっともなく泣いて情けない。――そう、冷静な自分が叱咤するが、彼の涙は留まることを知らない。ぼろぼろと隙間から流れ落ちるそれを鬱陶しげに、空いている片手で拭うと同時に、鋭い痛みが手を伝った。

 ハッとして見れば部分的に赤く染まっていた白いはずの包帯はすっかり手のひら全体に広がり、緩く開いたはずの右手はカタカタと震えている。それが痛みの所為で起こっている現象であることは百も承知だが、それすらも煩わしく思えてしまった応星は力一杯に手を握り締めた。ぎ、と軋む感覚の後、刺々しい痛みが全身を伝うが、それをものともせずに応星は体を起こす。

 こんなことをしている場合ではないのだ。彼を、覚えていなければならない。本能的に降り注ぐ使命感に駆られ、ぱたぱたと両の目から溢れ続ける涙を再び拭い取り、応星は力が入りきらない体を奮い立たせた。疲労と眠気で気怠い体で立ち上がり、ソファーを押し退けるように手で体を後押しする。

「っあ、」

 ――だが、やはり体は思うように動かず。足は縺れ、応星は体勢を崩した。
 ぐらりと揺れる視界。何重にも重力が体を押し潰すかのような重みに従いながら、視界の片隅で床を捉える。下手に当たって怪我を増やさなければいい、などと他人事のように思いながら、応星は次に来る衝撃に備えてきゅっと目を閉じた。

 ――しかし、応星の覚悟に反してその衝撃はいつまで経ってもやってくることはなく、代わりにやってきた腕を掴まれる妙な痛みに、応星は恐る恐る瞼を開ける。先程の重い瞼とは一変してすんなり開いた応星の瞼は、変わらない藤紫色の瞳を露わにして、腕を掴んでいる人物を映し出した。

「刃……」

 そう呟く応星の目の前に、応星とよく似た顔立ちの刃が呆れた様子で彼をじっと見下ろしている。緋色と黄昏色が混じり合う彼岸の色。黒によく似ているが、光の当たり具合で深い緑だか、紺だかに見える髪が小さく揺れる。決して表情には出ていないが、応星には彼の顔が酷く冷めているようにも見えて、微かに眉を顰めた。

 鬱陶しかったのだろうか。――そんな疑問を抱き、ふと、気が付く。応星は家の扉を開いた瞬間に意識を失ったのだ。その頃はまだ明るかったはずの空は、今ではすっかり暗闇に沈んでいる。何より応星は今日、景元と会うことを刃に伝えていたが、彼はいつものように仕事へと赴いていたのだ。
 その刃が、今ではラフな格好で自宅にいる。何より、同じ体格の応星を刃がリビングまで運んでいるのだ。帰宅して扉を開けた途端に、目の前で兄である応星が倒れていた瞬間の気持ちなど、応星には分かりかねるが――相当厄介だったに違いない。

「悪い……助かった」

 静寂に終止符を打つように応星は僅かに口許を緩め、彼に礼を述べた。そのまま力の入りきらない足でゆっくりと立ち直し、刃に手を離すよう促す。
 ――しかし、数秒待ったところで彼は手を離すことはなく、ただじいっと応星の顔を見つめているのだ。それも、酷く鬱陶しいものを見るような目付きで。僅かに細められている刃の瞳が少しだけ、感情を持っている気がした。

「……そう嫌な顔をするな。もう離してくれて構わないぞ」

 早くしないと彼を忘れてしまいそうだ。

 ――最後まで口にすることはなかったが、応星は掴まれている腕を軽く揺らしてみせた。助けてもらっている手前、離せと強く言うことはないが、この動きで刃も察してくれているだろう。
 だが、そうしても言うことを聞かないのは、応星によく似た頑固さがあるからだろうか。
 刃は一向にその手を離さず、応星は緩く浮かべていた笑みを掻き消した。一体どうして離してくれないのだと、言ってやろうかとすかさず応星は唇を開く。
 一触即発――まさに兄弟喧嘩が起こりそうな空気の中、先に言葉を発したのは刃の方だった。

「――知りたいのか」
「…………何……」
「そこまでして知りたいのか。己が犯した罪を」

 応星の不意を突き、彼が発したのは何かを知っているような言葉の数々で。思わず驚き目を丸くしてみれば、刃は興味を失ったかのようにすんなりと掴んでいた手を離す。先程までは離してくれという意思を込めていた手は、彼の不意打ちを真っ向から受けた影響で、力なく応星の体の脇へと戻った。

 ――こいつは一体何を知ってるんだ。

 目眩を覚えそうな疑問が、応星の頭を殴るように浮かんだ。そもそも、この男は何故応星が倒れていたことに対して心配もなければ、言及するようなこともないのか。ぐるぐる、ぐるぐると疑問が頭を、足元を絡め取り、身動きができなくなる。息をしているつもりだが、ドクドクと脈打つ心臓はよりいっそう五月蠅く胸の奥で存在を示していた。
 まるで――そう、まるで。世界に独り、取り残されているような気分だった。

「そろそろ頃合いか……」

 ぽつり。そう独り言のように呟かれた言葉を置き去りに、刃はその場を後にしてキッチンへと向かう。一体何のことだ、お前は何を知っているんだ。――そう問いかけようとした矢先。刃は先手を打つように応星へと振り返り、言うのだ。

「今日はもう休め。眠れずとも、休まなければ貴様はまた倒れるだけだ」

 近々解決策を用意してやる。
 そう言って何の惜しげもなく台所に向き合うものだから、応星は行き場のなくした感情を溜め息に乗せるしかなかったのだった。