「――――グォオオォ!」
――耳障りな鳴き声のような雄叫びが、ワタリの耳を劈く。迫る獣にも似た面影が、振り返ったワタリの眼前を覆った。丁度よく太陽を遮る形で大きく前に出てきた大型の暗鬼に、彼は小さく手を動かす。
何も慌てる必要はない。ナビゲーターの指揮は正確で、信頼におけるものがあるから。
ワタリが手を動かした矢先、暗鬼を迎え撃つように現れたいくつものメスがキラリと輝く。先端が鋭く尖ったそれは暗鬼目掛けて放たれた。キラキラと瞬く氷のメスが描く軌跡は、太陽の光に照らされて酷く幻想的にも見えるほど。的確に急所を狙う彼の攻撃に、暗鬼は為す術もなく、ゆっくりと前に倒れた。
「ワタリ、大丈夫!?」
暗鬼の向こうでナビゲーターの声がする。
ワタリはそれを避けるように軽く身を翻し、「問題ない」と呟いた。瞬間、暗鬼の体が崩れ、まるで塵のように風に舞い上がる。獣のような見た目など少しも残らない。ただそこに「いた」という形跡だけが、大地に刻み付けられていた。
――時折思う。あの崩れた肉体は、一体どこへ還るのだろう。
死者は土や灰になった。天を舞い、大地を巡り、いつしか再びこの世に生を受けるものだと当たり前のように思っている。――だが、暗鬼となった元光霊や、初めから暗鬼であったものが、塵のように崩れ落ちているのを見ると、疑問が湧いてくるのだ。
興味と、好奇心。そこに同情のひとつなど初めから存在していない。ただ彼は、一人の医者――もとい、研究者として彼らの行く末に多少の興味を抱いていた。急所も生き様も、人間と同じようには到底思えない。――しかし、「食べたものが胃に入る」等の当たり前は、暗鬼達にも存在するようだ。
ほんの少し抉られたような土にワタリは目を向けながら、ぼんやりと考え事を繰り返す。すぐ近くにナビゲーターがいる所為か、少しの警戒心も抱くことはなく、呆けたまま。空の末裔がワタリに体調が優れないのかと聞いたが、彼は首を横に振った。
「ただの考え事だ。気にしなくてもいい」
「そう? 何かあったら呼んでね」
ナビゲーターの心配を懇切丁寧に断り、ワタリは静かに踵を返した。暗鬼を退治したあとは決まって巨像へ戻る。今回も手の掛かる大型暗鬼が小型と共に最後に出てきて、つい先程戦闘を終えたばかりだ。
今回もまた特別負傷者が出たわけではない。ワタリの手を煩わせるほどの大怪我を負うなんてことは滅多にないのだ。
それでもナビゲーターがワタリを連れて歩くのは、やはり彼の存在が大きい――。
「チッ、もう終わりかよ」
ふて腐れたように呟いたような声が放たれる。心底退屈そうな、それでいて不満を抱えた子供のような声だ。いやに低く、ドスの利いた声がワタリの耳を刺激する。ほんの少しだけ、緊張の中突然声を掛けられたときのように肩を震わせ、ワタリはぐっと息を呑んだ。
警戒心が反射的に体に出てきているということが、彼の自尊心をほんのり傷付けてくる。
若草を踏み締め、不機嫌そうに一度軍靴で地面を蹴り上げたバートンは、ナビゲーターに向かって「もう次はねぇのか」と言っていた。大して声を潜めるわけでもなく、だからといって張り上げているわけでもない。辺りの空気を切り裂くように、踵を返したワタリの耳にさえ届くその声は、今の彼にとっては酷く不快にすらも思えてしまっていた。
――いや、意識的に抑えない限り、バートンの声は少しも小さくなることはないのだろう。
ナビゲーターが彼に圧倒されながらも「今日はもう予定はないよ……」と言うと、一際大きな舌打ちが後方から飛んでくる。まるで自分に向けられたかのようなそれに、何気なく後ろを振り向けば、何故だか空の末裔に睨みを利かせているバートンが見えた。
傷跡が残る片目はしっかりと閉じられているものの、その上にある眉は、強く眉間にシワを寄せている。そんなことを言われても、と口ごもらせるナビゲーターは困ったよう肩を竦めてから、頬を掻いた。
戦闘マニアもあそこまでいくと呆れるものだ。いくら戦うことが好きだと言っても、他人までもを巻き込むような言動はワタリでさえも溜め息を吐くほど。一体何が楽しくてそこまで戦闘に執着できてしまうのか、興味すらも湧いてしまっていた。
――すると突然、バートンの顔が何かを探すように忙しなく動いた。軍帽から覗く白い髪がふわふわと揺れていた。それが、自分のことを探しているものだとワタリは気が付く。まるで戦闘がないのであれば代わりを探すような仕草に、堪らず警戒心が沸々と湧いてくる。
面倒ごとに巻き込まれる前にこの場を去るのが吉だろう。よく見ればナビゲーターが横目でちらちらとワタリの方へ視線を向けている。それが「早く逃げた方がいい」の合図であることは明白だった。
ナビゲーターはあくまで中立だ。ワタリの方へ味方をすることもあれば、バートンの方へ身を翻すこともある。これはあくまでワタリとバートンの問題であり、他人が口を出す権利はない。それを彼らは重々承知していて、なるべく普段通りの生活を送るよう、心掛けているのだ。
こういう場合は足早に巨像へ戻り、自室にこもるのが正解だ。
ワタリはナビゲーターに一度だけ視線を向けたあと、止めていた足を動かし身を翻してその場を後にする。暗鬼と戦う予定もなければ、他の街へ赴く予定も今はない。そうなれば自室にこもるのが一番の選択であるワタリは、光霊達を置いて歩いていった。
暗殺者を生業としている以上、気配を消すことには長けている。息を殺し、極力音を立てずにいればこの場はやり過ごせるだろう。幸いナビゲーターが何とか時間を稼いでいることもあって、彼は比較的楽に巨像へと辿り着くことができた。
思わずほうっと安堵の息が洩れる。特別邪魔をされることがなければ、穏便に事が運んだと肩の荷が下りた。
ここ最近のバートンの行動は、ワタリにすらも読めないのだ。