赤い幻覚と荒い呼吸

「――……!」

 ――なんて、一息吐いたのも束の間。巨像の出入り口で足を疎かにしていたワタリの視界に見慣れた黒い軍用手袋が入り込む。彼の逃げ道を塞ぐよう、後方から伸びてきた手は巨像の出入り口を捉え、背後に迫る気配がぐっと近付いたような気がした。
 違和感。そして、圧。
 蛇に睨まれたカエル、はこういった気分にでもなるんだろうか。――そう、明らかに場違いな考えをしてしまうほど、彼は現状に対する理解が深められる。背中から刺さる鋭いものは視線だろうか。徐に目だけで辺りを見渡せば、気まずそうにこちらを見てから目を逸らす光霊達がちらほら見受けられる。

 ここ最近のバートンはやけに人目を気にすることがなくなった。
 初めこそはワタリが変に視線を集めないよう、人通りの少ない場所や、夜に声を掛けられることが多かった。「その気」になった彼の瞳はまるで獣のように鋭く、体を射抜かれるような感覚にすら陥ってしまう。暗殺者として、勅痕の針として、仕留められることをワタリは懸命に避けた。
 その過程が酷く気に食わなかったのだろう。ある日突然、バートンはワタリに気を遣うことはなく、ラウンジで堂々とワタリを口説いた。訓練終わりの、朝日が昇る時間。ちらほらと起きてきた光霊に混ざり、白い影が褐色の肌に手を伸ばす。そうして惜し気もなく告げられた「好きだ」の言葉に、ワタリはおろか、周りの光霊達ですら耳を疑ったのだ。
 バートン自身に羞恥心などあるはずはない。ただまっすぐな瞳でワタリを一心に見つめるものだから、ワタリは彼の言動を疑わざるを得ない。何故人目につくような場所で言うようになったのか。周りを牽制するような彼の露骨な主張は、瞬く間に巨像にいる光霊達に広まった。

 ――一言で表すならば、ただのストレスでしかない。

 ぐるぐる、ぐるぐると頭の中で巡り続けるバートンから逃れるための術は、決行するにはあまりにも距離が近い。一度走り出したとしても、反射的に手を掴まれてしまえばワタリは引き留められてしまうだろう。
 つい先程暗鬼を倒したばかりのこの時間は、それとなく光霊達の姿が見受けられる。ちらちらとワタリやバートンを見るあの横目は――好奇心を覗かせていた。

「――見世物じゃねえんだぞ!」

 その視線に気が付いていたのか。遂に痺れを切らせたらしいバートンは、ワタリから視線を外して声を張った。それは背中で聞いていたワタリですら肌で殺気を感じるほど、やけに苛立った声色だ。まともに浴びた光霊は小さく声を上げてからそそくさと隣を走る。
 そうして巨像へ戻り、背中がすぐに見えなくなった。

 ――声を張るくらい苛立つなら、ここから手を離してほしいもんだが。

 ほんの少し溜め息を吐き、少しも離れる様子のない彼にワタリは小さく動き始める。視線や意識が自分ではなく他の誰かに向いている、またとないチャンスがあるのだ。逃げるのなら今しかない。
 ――と、身を屈め、バートンの腕から逃れようとしたのも束の間。突如背後から伸びていた手がワタリの体をぐっと引き寄せる。

「――――!?」

 胴体に回された手はあまりにも力強く、驚いたワタリには振りほどくことができない。抱き寄せられているのか、僅かに浮く足が力を失った。周りから一瞬のどよめきが聞こえてくるのがよく分かる。一体誰が俺を見世物に仕立てあげているんだ、とワタリは声を張り上げたくなった。
 しかし、途端にぐっと近付いてきたらしいバートンの声が耳元で「お前」と口を紡ぐ。ぞっとするほどに低く、やけに不機嫌そうな声色に、彼はハッとして回されている手を力一杯振り払った。
 思いの外バートンはワタリの抵抗を受け入れる。彼の抵抗に離れた手は行くあてもなく、ワタリを抱えていた証だけを残す。軽く宙を漂ったそれを振り払った後、ワタリは埃を払うよう自分の体を軽く叩いた。
 バートンは振り払われたことに対して一度だけ舌打ちをする。だが、すぐに雑念を振り払うように頭を振ると、溜め息を吐いてから「話くらい聞け」と言った。

「……話なんて何かあったか? ここにいるとあんたにすぐ見世物にされそうだからな。俺はもう戻らせてもらうぜ」
「おい……!」

 なるべく話をしないよう、彼は足早に踵を返し、巨像の中へと戻る。背後からやたらと自分を引き留めるバートンの声が聞こえたが、敢えて聞こえないふりをして、ワタリは廊下を突っ切った。
 普段なら馴れ馴れしく声を掛けてくる光霊が何人かいるものの、今日ばかりはやけに避けられている。恐らく先程のバートンの行動が見られてしまったのだろう。気まずさと居心地の悪さを兼ね備えた瞳が、ワタリを見つめてからそっと逸らされた

 ――なんて居心地の悪い。

 刺さる視線の数々を振り払いながら、ワタリが向かったのは手洗いだ。勢いよく扉を開けたあと、一目散に水道へと手を伸ばす。流れ出した流水で一度だけ手をすすぎ、石鹸を取って泡立て、入念に手を洗う。
 爪の先、爪の間、指の一本一本を丁寧に洗い、手首まで泡を伸ばす。かける時間は五分やそこらでは収まらず。ここ最近はやたらと時間をかけることが多くなった。歯を磨くのと同じように洗い残しのないように懸命に泡まみれになってから、ワタリは漸く一息吐くように水で泡を洗い流すのだ。
 ざあぁ、と音を立てて流れる水以外に聞こえる音はない。その静けさがやけに心地よく、彼はほう、と吐息を洩らす。
 ここ数日バートンの変化に対応するため、警戒を張り詰めている所為か、強い疲労感を覚えるようになった。気を抜けば明日は一体何をしてくるのかと懸念するべき点が多く、休むに休めない日が続くばかりだ。いくらワタリがバートンの言動を本気ではないと思っていても、ここまで執拗であれば少しずつ感覚が歪んでくる。

 初めての告白を受けてから一週間などとうに過ぎてしまった。その間のバートンの変化には体が追い付かず、気持ちの整理すらもままならない。慌ただしい日常に静けさを感じない分、ワタリはナビゲーターの故郷である天空ノ庭がいやに恋しく思えた。
 一体彼はワタリのどこを気に入り、好きだと告げているのだろうか。

 ふと、考えを巡らせる度にズキリと痛む頭に、ワタリは眉を顰める。無意識のうちに冷水に浸し続けていた彼の手は、氷のように冷たくなっていた。もう何分そうしていたかも覚えていないワタリは、溜め息を溢してから手を洗い直す。泡が残らないよう手を擦りながら、漸く洗い終えた頃には褐色の肌にほんの少しだけ赤みが残った。
 今日の彼もまた忙しい。暗鬼の討伐を終えたあとにあるのは、シャドウマスターことイスタバンから受けた命があれば、影ノ街へ戻り調べなければならないことが山ほどある。楽園で見かねた子供達の様子を見て、気晴らしに空き地にいるハトに餌をやらなければならないのだ。
 そうしていざハンカチを取り出そうと、冷水から手を引き寄せると――ワタリの息が止まった。

 ――赤い、赤い色が手のひらにべっとりとこびりついている。鮮血から酸化が進み、ほんの少し黒さを持ったそれが、洗い立てのワタリの手から溢れ落ちる。ざあざあと流れる水の音が遠くなるにつれて、その赤い色はワタリの手から服へ、こびりついていくように見えた。
 洗っても落ちることのないような汚れに、彼は目眩を覚える。それはワタリ自身が潔癖性であるから、ということではない。忘れきっていた、或いは忘れるように努めていた苦い思い出を、彼が思い出してしまったからだ。

 ――洗わないと。

 一体いつからこんなにも潔癖になったのか、彼はもう思い出すことができない。ただ、元よりあったそれが顕著になり始めたのが、父親を救えなかったあの頃だった。手のひらにこびりついた赤が、まるで自分を責め立てているようで。
 彼は咄嗟に手を洗おうと躍起になって蛇口を捻り、溢れ出した水に手を入れようとする。――だが、ぐらりと揺れる視界に吐き気を催し、ワタリは洗面器に手をついてハッ、と短く息を溢した。
 今まで忘れていた呼吸を取り戻そうと体が酸素を求めるが、どうにも上手く呼吸ができない。彼は何とか息を吸おうと深く深く息を吸ってしまうが、数秒もせず吐き出してしまうものだから、何の意味もないと頭の片隅で考える。
 急激なストレスが原因だ。突然の過呼吸に彼は自分の知識を振り絞り、どうにかして対処を試みる。深く吸うよりも数秒だけ息を止めること、もしくはゆっくりと息を吐くことが重要だと理解しているのだが――体は意志に反して言うことを聞いてくれやしない。
 遂にワタリは床に膝をついてしまって、呼吸も荒いまま小さく背中を丸める。この場所が彼にとって「汚い」ということも理解しているが、体が動かない以上どうすることもできなかった。

 頭では分かっているはずの対処も、まるで行えやしない。どれだけ言い聞かせても不安で泣きじゃくる子供の気持ちが、ほんの少しだけ理解できたような気がした。過呼吸を起こして数分も経ってはいないが、胸の奥に積もり続ける途方もない不安は、珍しくワタリを弱らせようと必死だ。

 ――ああ、どうやって息を吸うんだっけか。

 言うことを聞かない体には相変わらず赤い色がそこら中に付着している。まるで、ワタリの現状を嘲笑うかのよう。汚れきった自分の手が床に、洗面器に触れてしまった所為で、次々と辺りが汚れてしまう。
 たったそれだけで抱えている不安に拍車が掛かるのだ。

 こんな状態で何が医者だ。

 ぐるぐると、頭の中を縦横無尽に駆け回る自責の念を、彼は強く抱き直す。

 ――たった一人の、一番の患者を救えなくて、何が優秀な外科医だ。