赤い幻覚と荒い呼吸

 そう思うと同時に、遠く遠く離れていたはずの記憶が目を覚ます。放心した状況下で聞いたような気がする暗鬼の声を、彼は今この場で聞いたような錯覚にすら陥った。
 それを打ち破ったのは、けたたましい音を立てて開いた扉の向こうから、叫ぶように発せられた大きな声だ。

「だから話を聞けって言っただろうが!」

 壁に何かを叩きつけたのではないかと錯覚するほど、強く開かれた扉にワタリは小さく肩を震わせる。しかし、その程度の驚きでは呼吸は少しも収まることはなく、彼の息遣いは未だに荒いままだ。ハッ、ハッ、と繰り返される呼吸は、いつしか彼の瞳に薄く涙を張って、ワタリの視界は微かに潤んでいる。
 そんなことを気にする余裕もなく、バートンは扉を開けて入るや否やワタリの肩を掴み容態を確認した。ワタリには外傷こそはないものの、顔色は酷く、血の気はない。加えて過呼吸が収まる兆しなどなく、今にも泣き崩れてしまいそうなほど苦しげな顔をしていた。

「お前、ここ数日ろくに寝てもいねぇだろ。今日もそうだ。暗鬼のやつに背後を取られるなんざ、らしくもねえ」

 そう言いながらバートンはワタリの背に手を伸ばし、ぐっと引き寄せる。潔癖だとか、警戒だとか、そういった点を差し置いてワタリは咄嗟にその手を見た。すっかり汚れきってしまった自分のそれが、バートンの白い軍服を汚してしまったような気がしてならなかったのだ。
 汚れるから離してくれ。
 ――なんて言おうにも、なかなか収まらない過呼吸の妨害もあって言葉にもならない。ワタリは何度も自分の口許を手で押さえようと試みるが、真っ赤に濡れた両手を見る度に酷い自責の念に苛まれる。
 もっと早く駆けつけていれば、或いは――なんて可能性を、何度も思い返してしまうのだ。
 そんなワタリの様子を見かねて、バートンは眉間のシワをよりいっそう深く刻む。何かを思い悩むような、考えるような素振りをひとつ。助けを呼ぶよりも自分で行動に出た方が早いと思うや否や、チッ、と小さな舌打ちを溢す。
 何かを思うところがあったのだろう。思考もまともに働かない彼は、自分を見下ろす空色の瞳を見て、何だと言いかけた。
 当然言葉にはならなかったが、何となく気が付いたらしいバートンは、一度だけ視線を逸らすと――「後でキレんじゃねえぞ」と呟く。
 そうしてワタリの顔に手を添えて、軽く上に向かせてからぐっと自分の顔を近付けた。

「――……っ」

 ワタリの視界いっぱいに映るのは、顔の右半分に傷をこさえたほんのり年を感じさせる顔立ち。前髪が軍帽によって隠されている所為か、顔を隠す髪もないそれを間近で見た途端に、彼は咄嗟に目を瞑る。一瞬、ワタリの手が彼を押し退けようと動きかけたが、ワタリを支えるバートンの腕と、手を押さえつける彼の手に、ワタリはやむなく制止を促される。
 懸命に酸素を取り込もうと奮闘していた口許は、バートンの唇によって蓋をされてしまった。その意図を汲み取ると同時に、ワタリはぐっと息を止める。近くに袋でもあればよかったのだが、生憎そんなものは動ける範囲に備え付けられていなかった。
 案外唇は柔らかいだとか、人工呼吸と同じ一種の人命救助だとか、そういった理由を並べ立て、ワタリは現状を受け入れる。

 こうしてもらえなければ小一時間は一人で可笑しくなっていたはずだ。たまたまバートンが来て、運良く対処法を知っていたから手助けをしてくれただけだ。

 ――そう、何度も自分に言い聞かせ、彼は数秒を待った。決して、バートンはワタリのことを好いているからこの手段に出た、などという自惚れをしないよう、少しずつ落ち着きを取り戻す頭で考えていたのだ。
 そして、数秒が体感で数十秒――数分に思えた頃、バートンは漸くゆっくりと唇を離す。溢れ出す吐息がほんの少しだけ熱いなどと思いながら、ワタリは漸く落ち着いた呼吸を取り戻すことができた。
 息を吸って、ただ吐く。――その程度の行動に彼は安心感を覚える。冷えきった体にバートンの腕はいやに温かかった。

「…………悪い……助かった」

 ほう、と吐息を吐き、彼はゆっくりと起き上がる。相変わらずバートンはワタリの体を支えていて、ワタリはバートンの腕から抜け出すことはできなかった。彼は呼吸を整えながら自分の手をじっと見つめると、先程こびりついていた赤い色はどこにもなかった。
 ワタリ自身、先程の光景が錯覚であることは十分理解している。しかし、思い出したくもない記憶というものは、正常な思考を奪い取ってしまうものだ。
 彼は自分がまともでいられなかったことに呆れさえも覚えてしまう。元医者であるというにも拘わらず、適切な対処を行えなかったことが気に食わなかった。自分の体調管理もできない医者がどこにいるのかと、堪らず自分自身を責めてしまうほどだ。

「…………離してくれ」

 ワタリが体を起こし、呼吸を整えている最中も、バートンは彼を離すことはなかった。このままでは立ち上がれない――そう思ったワタリは、バートンを見やりながら回されている腕に手を添えかける。
 だが、先程までの現象が、色がバートンに移ってしまいそうで。ワタリは咄嗟に手を止めると自分の元へと引き寄せた。
 離してくれと言われたバートンは不服そうな顔でじっとワタリを見つめている。何かを言いたげな目をしていて彼は身構えていると、バートンはやたらと大きな溜め息を吐きながらワタリの体を支える腕に力を加える。
 そして、立ち上がる際にワタリの体を持ち上げて、彼を横抱きにした。

「――な、何をするんだ」
「黙ってろ」

 暴れかけるワタリを力で押さえつけながら、バートンはワタリを抱えて扉を開ける。キィ、と小さな音が鳴ったあと、蛍灯が漂う廊下に出てワタリは小さく顔を歪める。歩き進める度に擦れ違う光霊達は不思議そうな顔を向けてくるものだから、彼は「下ろしてくれ」と小さく呟いた。
 しかし、バートンはワタリの言葉に聞く耳も持たず、巨像内のエレベーターに乗り込む。見世物にされるものかと思っていたが、エレベーター内には他の光霊はいなかった。

「下ろして……」
「下ろしたらろくに休まねぇだろ」

 二回も言えば聞いてくれるだろうか。
 ワタリは再びバートンに対し「下ろしてくれ」と唇を開いた。――しかし、間髪入れずにバートンはワタリの言葉を遮ると、抱えている彼の顔に視線を向ける。欲だとかそういったものを含めた瞳、というよりは、まるで苛立ちを抱えている視線にワタリは唇を閉ざした。
 一体誰の所為でこうなったと思っているんだ。――そう口を突いて出そうな言葉を言おうか悩んでいると、不意にエレベーターの扉が開いた。日中の日差しが差し込む廊下には、光霊達の姿は少ない。日が出ている間はラウンジだの、休憩室だのに赴く光霊が殆どで、好き好んで自室にこもる人間などいないのだ。
 そんな廊下をバートンは黙って歩く。コツコツと革靴のような音を立てて、ほんのり眠気を誘うものだから、彼は人知れず唇をへの字に曲げた。居心地が悪い――わけではないが、あまりの気まずさに堪らず視線を逸らすと、廊下を歩く白い毛が見える。ウルヴとヴィートだ。
 体を抱えるバートンに、彼がしつけた二頭の狼。これは逃げ場がないな、とワタリは不機嫌そうに眉を顰める。逃げ出すことを諦めて黙って運ばれていると、バートンは部屋の一室の扉を開けた。

 無機質で必要最低限の物がある部屋。コートハンガーがひとつに、小さなテーブルがひとつ。それを囲むように置かれたふたつの椅子はほんの少しだけ位置がずれている。テーブルの上にあるチェス盤には駒が並んでいて、あたかも誰かと対局していたような形跡が残っていた。

 ――ここは自分の部屋じゃない。

 そう理解すると同時にワタリの体は寝具に下ろされる。お世辞にもお日様の匂い、なんてものはないが、整えられもせず僅かに乱れたシーツにはバートンの残り香があった。

「……おい、何でここなんだ。せめて俺の部屋に運んでくれてもいいだろう」

 布団を乱雑に掛けられながら、ワタリはバートンに対して漸く口を開いた。
 ここはワタリの自室ではなく、あくまでバートンの部屋だ。几帳面とは言えない使用感の残る部屋は、彼に馴染むような物が配置されている。寛げるだけの空間はせいぜいこの寝具の上だけだ。
 その部屋に案内されたワタリは抗議を提示したが、バートンは訝しげな顔をひとつ。何故そんなことを要求されるのかが理解できない、といったような様子で、ワタリは頭を抱える。
 ――そうしてバートンが当たり前のように言った言葉に、彼はハッとするのだ。

「前にも言ったけどな……潔癖性の奴の部屋に行けるわけがねぇだろ。それに、お前の部屋になんて運んだら、絶対に休まないだろうしな」

 ハッ、と鼻で笑うような仕草を取る彼に対し、ワタリはぐっと口を噤んだ。
 ――図星だ。バートンの言葉に反論する余地はない。彼の部屋には研究のための道具や資料、医者だった頃に使っていたメスやその他もろもろ、彼の気を紛らせるための道具がいくつかある。この強い疲労感は、彼が今まで気を紛らせるためだけに研究等に没頭し続けた結果だ。
 そんな部屋に戻らせようと思う気は、バートンには一切ないようだ。

 ワタリがバートンの言葉に反抗できずにいると、彼は静かに狼達の名前を呼んだ。「ウルヴ、ヴィート」そう言うと、狼達は耳を立たせ、バートンと同じよう澄んだ瞳を向けたまま、バートンの指示を待つ。やはり白い毛並みと、空の色をした瞳はよく似ていると、何度思ったことだろうか。
 彼らは飼い主によく従い、忠実だ。その点を見れば犬と間違われても仕方がないだろう。厳密に言えば脳の大きさや顔の形などの違いはあるのだが、忠実な姿を見れば犬のようだ。

「――お前ら、ワタリがしっかり休むか監視しとけ」
「ウォン!」
「……!?」

 ――なんて考えているワタリに、バートンの指示を食らった二頭は返事をしてからワタリが寝かされている寝具へと飛び乗る。乱雑に掛けられた布団の上にウルヴが。寝具の端を埋めるようにヴィートが寝そべった。
 彼らの働きにバートンは満足げに笑い、ワタリは「おい」と不服そうに呟く。狼達は気が早く、目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返し始めるものだから、ワタリは「お前ら……」と言った。

「いいからとっとと寝ろ。手を出さねぇだけ有り難いと思えよ」

 こちとらお前をめちゃくちゃにしてやることもできるんだぜ。
 ――そう言ってバートンは彼の頭に手を起き、整えられた髪を乱すようぐしゃぐしゃと撫で回す。まるで子供のような扱いに彼は手を払い、キッとバートンを睨んだ。
 彼の言う「めちゃくちゃにしてやることもできる」というのは強ち間違いではないのだろう。今ではワタリが疲労に負けている所為か、見せることはないが欲をギラつかせる彼の目は本物だ。この場で抵抗をすれば力でものを言わされ、挙げ句には何をされるかも分かったものではない。
 今日のところは休まなければ、ワタリの体が限界を迎えるのもまた事実なのだ。

 彼はバートンを睨んでいた視線を下ろし、やむなく布団の上に転がり直す。思いの外白い枕は心地がいい。頭が包まれる感覚に加えて、狼達の体温に彼は抱えていた眠気が一気に押し寄せるのを感じた。
 大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。すると、ワタリの瞼は重くなり、彼の藤紫の瞳はゆっくりと隠れていく。

「……ナビゲーターには話をつけておく。後で戻ってくるから、寝てなきゃ容赦しねえからな」
「…………分かってるから、早く行ってくれないか……」

 彼を言い聞かせるよう、バートンは言葉を溢しながら踵を返した。ワタリも特別力でものを言われたいわけではない。ここは素直に折れて、体を休ませるべきだと判断する。ふう、と息を吐けば、途端に意識が遠退く感覚に陥った。

 体調管理に気を遣おうと思っていたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。

 ぐるぐると靄がかかって働かない頭で考えに考えて――、ワタリが最後に聞いたのはバートンが扉を閉める音だった。