邂逅

「其方の手は綺麗だ」

 そう言って彼は応星の手を取り、そうっと割れ物を扱うような手つきで手の甲を撫でる。

 つい数分前まで作業をしていた応星は突然の接触にくっと息を呑む。そもそも何故彼ともあろう存在が、こんなにも汗やら鉄やら何やらの匂いが充満しているであろう工房に姿を現しているのか、追及することは彼が工房に現れて五回程度で諦めてしまった。どれだけ話を聞こうが彼は「来たかったから来ただけだ」と腕を組み胸を張るのだ。

 龍尊ともあろうお方が何のご用で、と揶揄うように呟いたとき。彼は酷く不機嫌そうに眉根を顰め、唇をきゅっと一文字に結んだことがある。応星はその表情を見たときに、彼の中に幾許かの幼さを見出し、堪らず前言撤回するよう「冗談だ」と言った。何せ、彼のその表情は、我が儘を我慢する子供のようなそれに見えてしまって。父性本能やら、加護欲やらがちらりと頭の片隅から顔を覗かせてきた。一歩、線を越えてしまえばその宝石のように煌めく瞳から涙が溢れ落ちるのではないか、という錯覚さえ抱かせてきたのだ。

 そうして応星は工房から彼を追い返そうなどとは思わなくなった。以前、――というより百冶の称号をその身に背負って初めて依頼をこなした頃から――彼は妙に工房へと訪れるようになった。どうやら彼は応星が手掛け、修繕を施した龍尊が使用する撃雲がいたく気に入ったらしい。穂先から柄まで、装飾の細部に至るまで。握り、振るった感覚も、腕にかかる重みも、負担が少ない。まるで彼のためだけに作り替えられたかのような撃雲を気に入り、工房での作業の様子をこの目で見たいからと、彼が工房に入り浸るようになってから片手で数えられなくなった頃に打ち明けられた。

 気恥ずかしいような。誇らしいような。そう打ち明けられた応星は頬を軽く掻き、彼から目を逸らす。龍尊というものは何よりも威厳と自信に満ち溢れているからか、彼の言葉は応星の胸に真っ直ぐに刺さり、非常に照れくさくなってしまった。この行き場のない羞恥心を抱えたまま作業に移るには、彼の真っ直ぐな視線が気になり、恐らくきっと、手元が覚束なくなるだろう。

「タチが悪い……」

 堪らずそう呟いて、応星は項垂れる。彼は何のことだか分からないように小首を傾げていた。
 その日は彼がいる間は作業に没頭することなど、できなかった。

 ――そうして彼の真っ直ぐな告白を聞き入れてから早くも十日が過ぎた。流石の応星も少しずつ彼の存在に慣れ、彼がじっと見つめていようが何だろうが、作業に打ち込むことができた。工房の中の熱は応星の身を、心を突き動かす原動力のようなものだ。赤く染まった鉄を見れば、少年のような心持ちになることだってできる。彼にとってものを作るということは、周りに己の存在を知らしめるひとつの手だが、夢中になれる友のようなものだ。
 そうして熱中している様を、彼は眺めるのが好きだと言っていた。そういえば彼がいるのだとハッとして、咄嗟に背後を振り返れば何時間もそうしていたのかも分からない彼が、不思議そうに首を傾げるものだから、思わず罪悪感を胸に抱く。忙しい時間を割いてまで彼はこうして応星の工房を訪ねてくる。それが、龍師たちから逃れるためのものだとしても、応星は彼を放って作業に熱中しすぎることに申し訳なさを感じていた。

 キリがいいと言って休憩を挟み、応星は工房から出て飲み物を取りに行く。口に合わなかったらすまん、と彼に飲み物を手渡し、その隣の席にどかりと腰を下ろす。ひと汗かいたあとの一杯は体に染み渡る――口に含んだそれを思い切り飲み干し、「っはあ、」と声を上げた。どうにも近頃おっさんじみてきたなどと、口にはしないものの、応星は心中で呟く。彼の隣にいればいるほど、その変化は浮き彫りになり、少しばかり寂しさが募った。
 年を取り、自分自身に訪れる変化や、寿命の差がこんなにも苦しいものなのかと、応星は思う。気が付けば抱えていた彼への妙な熱は、年を重ねたとしてもまるで衰えることを知らないが。どうしても周りから置いていかれる錯覚は拭えやしないのだ。

 しかし――しかし、だ。短命たる応星ならば、彼に対するこの熱を抱えたまま、あっさりこの世を去ることができる。他の誰に打ち明けることもなく、彼が他の誰に恋い焦がれ、或いは他の誰かのものになる姿を見たとて、来るべき日が来ればあっさりとこの世を去ることができる。
 余計な悲しみも、虚しさも長年抱えなくて済むのだと思えば、短命と呼ばれる人間でよかった、などと思うのだ。

 ただ、今こうして生きている間くらいは彼の隣で胸を張っていても少しは許されるだろう。実際は仲間たち以外の人間は応星を嫌い、応星自身もそのことを十分に知ってはいるが、隣にいる彼が許してくれるのだ。彼はまるで居心地のいい場所を見つけた猫のように居座り、応星はそれに甘えて彼との関係を楽しむ。そうしていることが何よりも楽しいのだと気が付くのに、多少の時間はかかってしまったが、何も問題はなかった。
 恐らく彼も応星と同じよう、いくらかの心地よさを感じていることだろう。
 夜ではないためか、応星は隣に目を向けることはなく、工房の出入り口から覗く青い空を眺める。彼の瞳ほど澄んでいるわけではないが、この空も眩しいくらいに青々と染まっているな、と小さく笑えば、隣にいる彼が不意に呟いた。

 ――其方の手は綺麗だ、と。

 空耳かと思い、応星は視線を青空から彼へと移す。上から下へ。すると、真っ直ぐにこちらを見る彼と目が合って、応星は言葉を失った。――けれど、彼とはもう長い付き合いだ。応星は一瞬だけ思考を止めたあと、すぐに瞬きをして意識を取り戻す。そして、己の手を見やり、訝しげな顔をして「何を言ってるんだ」と苦笑を溢す。

「俺の手のどこが綺麗だって言うんだ? 綺麗だって言うんなら、それはお前の方だろ?」

 作業をするために素肌を晒していた分、彼の目には珍しく映ったのだろうか。ひょいと持ち上げた自分の手のひら、手の甲をくるくると眺め、首を傾げる。男らしくごつごつとした、逞しいと言われがちの職人の手。いくらかの擦り傷やら何やらが目立つものの、重傷に至るほどではない。――だから、彼の言う「綺麗」が何を示しているのか皆目見当もつかなかった。

 それよりも遥かに綺麗だと断言できそうな彼の手は、相変わらず露出こそはしていないものの、応星のそれよりもひと回り小さな印象を受けた。節が目立つ応星の手とは違い、布越しでも分かるその細さはまるで女のよう。恐らく彼は、声を出さず、背を向けていれば女と間違えられてもおかしくはないだろう。――そう、確信めいたものを、応星は胸に抱いていた。
 携えていた飲み物を傍らに置き、何の気なしに彼の手を取る。するすると手をなぞり、指先に己の手を滑らせていた。それでもよく分かる彼の華奢とも言える手は頼りなく、不安にさえ思うものだ。これを綺麗と言わずして何と言おうか。

 ――そう考えあぐねていると、ふと、彼の手が応星の手を取る。飲み物を応星と同じように傍らに置き、両の手で応星の片手を包み、撫でる。まるで慈しむかのようなそれに小さく息を呑み、「職人の手だろ」と言えば、彼は応星の手に視線を落としながら「だからだ」と小さく言葉を紡ぐ。

「応星の手は綺麗だ。職人の手をしている。いくつもの努力の証がここにある」

 つい、と手の甲を撫でて労るような仕草を取る彼に、胸の奥がじんと熱くなる感覚を得た。流石の彼も応星がどれだけの努力を重ね、打ち込み、時間を費やしたかなど知る由もないだろう。けれど、少しでも応星自身の努力を認めてくれるようなその言動に、応星の感情が僅かに乱れる。故郷を追われた復讐心が全ての原動力だとしても、応星の生きてきた証を掬い取り、認めてくれているようで嬉しかった。
 柄にもなく泣きそうになるのを堪え、応星は「そうか」と言った。それでも綺麗とは程遠いだろ、とも言った。しかし、彼はその言葉を否定するように首を左右に振る。なびく黒髪のあとに小さく花の香りがした。甘く儚い、仄かな香りだ。それに気を取られていると、彼がくるりと応星の手のひらを見る。

「だからだ、応星。職人だからこそ、其方の手は綺麗だ。この手で作られたものは全て逸品だ。分かるだろう……だから、其方は自分の手を大切にするべきだ」

 そうして彼の細指がつ、と撫でた手のひらには大きな傷が刻まれていた。右手の指の根元。まるで破片を強く握ったかのような傷跡がひとつ、ふたつと刻まれている。血こそ出てはいないし、痛みもないが、それを眺める彼の表情はあまりにも悲しげに見えた。普段から少しの変化も見せない彼の顔が、悲哀の色を湛える。あたかも自分の所為で負ってしまった傷を眺めるような目付きに、応星は声をかけることも忘れてしまった。

 ――この傷は一体いつ、ついたものだろうか。ふと、そんな疑問が脳裏をよぎる。彼の指先が愛しそうに、傷口の周りを撫でてもなお、痛みはない。相当の時間が経っているのかと思ったが、傷跡は古くもない。数週間、或いは数日前にくっきりと施されたようなそれに、応星の頭の中で警報のような何かが鳴っている錯覚を得た。
 ズキズキと、頭の奥から鈍い痛みが走る。俺はこの傷を知っている、と何気なく独りごちれば、どこからともなく現れる小さな滴が応星の手を軽く濡らし始める。それは、彼が操るものとよく似ていて、咄嗟に視線を彼に移すと、彼は微笑んだ。
 悲しそうに、寂しそうに。ほんのり眉尻を下げて、口角を微かに上げる。悔しそうに、縋るように応星の手を握ったまま、治療を施そうとする彼は言った。

「大切にしろ、自分自身を。そして、――何も知らずに、全てを忘れろ」

 これが、余の願いだ。
 ――その言葉を皮切りに、応星の目の前を赤い鮮血が迸るのだった。