邂逅


 ――なんて夢を見て、応星は遂に現実との境界線を失ったのかと己の頭を疑った。今回もまた酒を酌み交わすことはなかったが、以前のように応星自身の意志を持った奇っ怪な夢ではなかった。体は思うように動かず、頭の中に思い浮かべた言葉ですらも紡ぐことはできない。ただ、決められた言葉をひたすら紡ぐだけの演劇のような景色を、彼は見つめていた。

 これは「応星」が経験したであろう出来事を、応星が遡っているだけに過ぎないと気が付いたのは、あの一件以来だ。夢にしてははっきりとしすぎているし、周りの景色や人間関係などがこんなにも複雑に成されていることなど有り得ない。断片的で、場面がコロコロと変わる夢とは違い、これはひとつひとつ糸をほどくように、繋がりのある夢を見続ける。特に彼と、親しく話している夢は飽きもせず、その上ひとつも同じものを見ないのだからなおさらだ。

 相当好きなのだろう。――何度も応星は思った。夢の中でだけ鮮明に見えていた彼の顔は、次第に夢から覚めても覚えていくことができた。

 真冬の青空のように澄んだ天色の瞳。喜怒哀楽の薄い端正な顔立ち。絹のように滑らかになびく黒い髪。頭部から生える龍尊特有の翡翠の角。猫の尻尾のように揺れる龍の尾。――そのどれもが応星の全てを魅了して、彼の目を奪う。職人としての審美眼が、彼以上の美しい造形を知らないと言わんばかりに、釘付けになった。
 どうやら職人としての応星も、今の応星も、彼に魅了されてしまうのは必然のことらしい。
 ――しかしそれも、結局は同じ結末を迎えるものだから、なおのこと虚しさが募り続けるのだ。まるで、彼に対して少しの劣情も、愛情も抱いてはいけないと応星に言い聞かせるように、棘のような針が、彼を射抜く。いくつもの重圧と責任を抱え、弱味を少しも見せない彼の体が弧を描き、成す術もなく崩れ落ちる様を見るのはもう何度目か。

 緩く瞼を抉じ開け、応星は布団の上で横になっている自分の体をゆっくりと起こす。ここ最近ではもう、早朝の鳥の鳴き声は聞こえない。理由などとうに分かりきっている。鉛のように重い体を起こしたあと、応星は近くにある小さな四角いデジタル時計に目をやった。時刻は昼の十二時をとっくに過ぎている。高くに昇った太陽はもう、地上へと落ちるのを待つだけだ。

 ああ、またか、と彼は思う。くらくらと揺れる頭を押さえ、未だに落ちようとする瞼を意地でも開ける。まるで何かに取り憑かれてしまっているかのような疲労感は、いつまでもなくなることはない。それは、応星が彼を求める度、彼のことを思い出そうとする度に質量を増していくのだ。

 そうして応星の起床時間はずれにずれて、今では昼を過ぎ、日が傾くか傾かないか、のところで起きるようになった。当然眠気など取れるはずもなく、毎回全力で走ったあとのような疲労感が体に募っている。近頃工房に顔を見せないことも増えてしまい、匠たちにはそれとなく心配をかけているようだ。――だが、彼らもまた、応星の顔色を見るや否や口を揃えて「休め」と言うのだ。応星自身しっかりと休んでいるはずなのだが、やはり体は全く休めていないらしい。
 この状況で仕事をこなせるわけもなく。彼は暫くの間休職という形で自宅にいた。いくらでも想像力は高まり、紙とペンさえあればデザインの案はいくつも思い浮かぶのだが、描き起こそうとすればいつの間にか意識を手放していることが殆どだ。それは最早睡眠と言うよりも気絶という言葉が最も近く、相応しい。そんな状態の応星を刃ですら放っておくことはなく、家にいることを提案してきたほどだ。
 どうやら彼は応星が家に居座ることも、家事を担うことも特別負担には思っていないらしい。それどころか、応星が道端で倒れたり、問題を起こしかねないことの方が面倒だと、刃は語っていた。それも眉を寄せ、眉間にシワを寄せるほど嫌そうな顔付きで、だ。

 その仕草に流石の応星も立つ瀬がなく、大人しく従い、極力休息を取ることにしている。普段と何ら変わりのない睡眠時間に反するよう、彼の起床時間は日を追うごとに少しずつ後ろ倒しになった。その結果として何とか昼前に起きていたはずが、今では昼を過ぎてしまう始末。結局体の疲労感は拭われることはなく、ただ虚しさだけが胸に募るばかりだ。

 ――はあ。そう小さく溜め息を吐いて、応星はベッドの端に座り直す。いくら体が疲れていようが何だろうが、これ以上の睡眠は体に毒だと理性が警報を鳴らしている。せめて掃除くらいはできるだろうと背筋を伸ばせば、気怠い体からポキポキと気泡が割れる音がした。随分と体は鈍っているらしい。掃除がてら運動も挟まなきゃ体力が落ちるな、と何気なく呟くと、応星の腹の虫がくぅ、と小さく鳴った。

 こんな体でも空腹は感じるらしい。何気なく手を腹に添えてから、応星は瞬きをひとつ。無意識に添えた右手を小さく持ち上げ、手のひらを眺めれば、薄くなった傷口が視界に入る。
 錯覚か、血の迷いか。つい先日までくっきりと傷跡が残りそうなほどの傷を負ったというのにも拘わらず、応星の右手は少しずつその穴を埋めるように傷を治していく。[[rb:瘡蓋>かさぶた]]は知らない間にできて、日常を過ごしていくうちにぽろぽろと溢れ落ちてしまったようだ。血で作られた蓋は跡形もなく姿を消し去り、応星の手に残るのは深い傷跡だけのはずだった。
 ――けれど、どうだろうか。小さく開閉を繰り返す応星の右手は、未だ瘡蓋がいくらか残るものの、傷跡こそ欠片も見当たらなくなっているのだ。まるで、傷の根元から何らかの方法で傷口を塞ぐかのように、初めから傷など存在しなかったかのように。夢の中で彼が応星の手に治療を施した結果が現実に現れているようだった。

 非常に奇っ怪な、不可思議な現象ではあるが、どうにも今の応星には現実云々のことなど考える余裕はない。
 昼食はおろか、朝食すらも口にしていない応星の腹は、彼がどれだけ手のひらに意識を奪われていようと空腹を訴え続けた。くぅくぅと泣きわめく子供のような腹に、思わず彼は苦笑を洩らし、ぱちんと頬を手で叩く。思いの外心地のいい音が鳴ったが、それほど痛みはなかった。

 掃除、そして洗濯。家にいる以上できることはするつもりだと刃を説き伏せ、応星は今の段階でできる自分の役割をこなす。ベッドから降りて床に足をつき、重い足で体を支える。すっかり秋も深まり、冷えてきた床に素足は冷たく、少しばかり目を覚ます感覚を得た。――それもまた一瞬の、束の間だが、その感覚を彼は手繰り寄せ、握り締める。起きなければならない――そう、自分自身に言い聞かせていた。

 部屋を開けて廊下に出る。向かい側にあるのは弟である刃の部屋。ネームプレートも何もない質素な扉ではあるが、それが逆に彼らしいと一瞥して、応星は階段を下りる。ひとつ、ふたつ。足を縺れさせないよう、慎重にトントンと降りてリビングへ向かう道中に洗濯機を回そうと顔を覗かせると、洗濯カゴに押し込められた衣服がポツンと存在している。浴室と隣接している洗濯はしやすいはずだが、刃は刃で応星がやると言ったものを残しているようだ。
 その洗濯物を洗濯機に押し込み、洗剤を入れる。柔らかな香りの柔軟剤入りの、ジェルボールを衣服の下に入れて、スイッチを押してあとは待つだけ。その間に掃除をしようと息巻いていたが、再度鳴る腹の虫に「ああ、」と独り言を洩らしてリビングへと向かった。
 リビングは真昼とは思えないほど静かで、窓から見える外の景色は秋めいている。木枯らしが吹く度に枯れ葉が舞い、色味を失った地面を多い尽くしていた。青空を旅する白い雲は鱗のように集まり、風が吹くままにどこかへと向かっていっているようだ。

「すっかり秋だなぁ……」

 少し前まではまだ夏だったのに。
 そう独り言を呟き、応星は窓の外をぼうっと眺める。小さな庭先に咲いている秋桜の花は、今の時期が丁度見頃だ。応星自身が蒔いたわけでもない種が芽吹き、毎年秋になるとその可憐な姿を現す。冬になれば一面土に覆われ、春になればまた柔らかな若草が芽吹く。季節をしっかりと味わえる小さな庭に、応星は思い立ったように腕を組み、じっと枯れ葉を眺めていた。
 秋と言えば焼き芋だ。巡回している焼き芋を買うのも、スーパーで買うのも悪くはないだろうが、自らの手で焼く焼き芋も悪くはないだろう。舞い落ちる枯れ葉をかき集め、風が弱いうちに火をつけ、さつまいもを焼く。――それこそ出来立ての味が味わえるのだ。

 ――悪くはない。

 刃は特別そういったことに興味は持たないため、結局乗り気なのは応星だけではあるが、想像するだけでも楽しいものがある。辺りが焼け野はらにならないように気を遣いながら、暖を取りつつ焼き上がるのを待つ。
 今は何もしていないとしても、想像を膨らませて応星は微かに胸が躍るような気がした。
 近頃は夢に捕らわれ、何かをしようとする気力さえも残されてはいなかった。仕事をしようとすれば脳裏によぎる彼の姿が今もそこにあるのではないかと、意識を削がれてしまう。じっと構えていれば足元から這うようにゆっくりと睡魔が押し寄せ、気が付けば数秒――或いは数分、眠りに落ちているのだ。その間にも夢は応星を誘い、囁く。

 ――忘れろ、と。

 しかし、彼自身もう嫌でも分かるのだ。この夢は、応星が忘れているらしい何かを思い出すまで、終わることがない。たとえその影響を受け、どれほど日常生活に支障を来そうが何だろうが、夢は応星を手放したりはしないだろう。追憶を辿り、全てを享受するまで、応星は彼を失い続けるのだ。

 ――彼は、忘れてほしいと願っているが、応星の本能はそれに従うべきではないと告げている。
 ――ふと、見つめてみる右の手のひら。もう数日も経てば傷跡もなく治りそうな様子のそれに、思わずきゅっと手を握る。彼が触れた感触も何もないが、彼は応星の手を気に入っているようなのだ。これ以上の怪我を負わないようにと、細心の注意を払うことを決意した。

 問題は、目の前で彼を失い続けてしまうことだ。

 応星は静かに視線を窓の外から足元へ移し、小さな溜め息を吐く。懸命に意識を保っているところではあるが、実際にはこうしている間にも足元から沈み、溺れてしまうような錯覚すら覚えている。ほんの少し、警戒を緩めれば体は睡魔に襲われ、意識は深い夢の中へと落ちるのだろう。

 それに、応星は少なからず疑問を抱いている。彼は応星の夢に現れ、何の変哲もないやり取りを数回交わしたあと、必ず「忘れろ」と応星に告げる。今見たもの、そして、自分自身が知らない数々のものを。忘れていてほしいのなら、夢を見せなければいいだけの話なのだが――、何故彼は夢として応星の前に現れるのだろうか。他愛のない会話を交える最中はいやに楽しげに、旧友のように接するというのに、最後には別れを惜しむことなく忘却を望むのは何故か。

 忘れてほしくないのか。或いは、応星自身が思い出さなければならないと思っているのか。

 ――それすらも判断できない状況に、応星は首を傾げて頭を悩ませる。応星自身できることなら夢を見ることもなく、深い眠りに就き、体の芯までしっかりと休んでから日常を送りたいのだ。そのためには夢の中にいる彼の願いを叶えてやりたいと思うものの、応星の本能が彼を忘れたがらないのもまた事実。根本的な何かを解決するまでこの夢は何度も繰り返されるだろう。

「……なら、俺は思い出すまでだ」

 ぐっと右手を握り締め、応星は決意を固める。彼を忘れるという選択肢など、応星には初めから見えていないのだ。何度彼自身に忘れることを勧められていようが、何度目の前で彼を失おうが、その欠片を決して取りこぼさず、全てを抱え込むと決めたのだ。その為の手段も、解決策も何も決まってはいないのだが――、何かを思い出すことで何かが解決するような気がするのだ。

 恐らく応星は今夜も夢を見るのだろう。そうして、再び聞き飽きたような言葉を聞いて、夢から目覚めるのだ。目を覚まして目尻から涙を溢すことを自覚して、酷い虚無感に襲われる。そして、目の前にいない存在に想いを馳せ、見つかりもしない捜し物を求め続けるのだ。

 きっと長い戦いになる。応星が夢を見始めてからもう三週間は経った。まともに疲労も抜けない体はひしひしと悲鳴を上げている。応星の体が限界を迎えるのと、夢を見なくなること――一体どちらが早いのか、彼には見当もつかなかった。誰かに相談しようにも、夢を見ないようにするためにはどう奮闘したらいいのかなど、どう説明すればいいのだろうか。唯一夢の話をした景元は、ここ数日は仕事で忙しくなると言って申し訳なさそうにメッセージを残してきた。応星がしっかりと休めていることを確認して、ついでに己の近況を報告してきたことを思い返して、応星は首を小さく横に振る。景元は頼りにはなる存在ではあるが、彼は多忙の身。こちらの事情で振り回すことはできないと、応星は『気にするな』とだけ返事をした。彼に頼るのは得策ではないだろう。

 ――しかし、なら、どうするべきか。

 うぅん、と小さく唸り声を上げながらキッチンへと向かい、二人暮らしには大きすぎる冷蔵庫を開ける。ひやりとした冷たい空気が押し寄せてきたあと、暖色の明かりが視界に入る。そして、「おお……」と呆れのような間抜けな声が洩れた。

 何もないのだ。昼食になりそうなものが。辛うじて存在している卵もひとつ。牛乳パックを何気なく持ち上げれば、残りは数ミリしか残っていなさそうな重み。チャプンと小さな音が紙パックから聞こえてきた。マーガリンはあるが、肝心のパンの類いもなければ、流れで手を出した炊飯器の中には白米もない。綺麗さっぱり片された流しに刃の食事の跡が残されているわけでもなく――、応星は小さく顔を俯かせる。

 すっかり忘れていたが、刃は食事に対する興味が薄い。応星ほどのこだわりも器用さも持ち合わせてはいないが、「作れ」と言われれば料理はするし、状況によっては刃自ら料理をすることだって少なくはない。特にここ最近、応星がまともに生活を送れなくなってからは家事の殆どを刃が担っているのだ。彼は冷蔵庫に何があり、何がないのか十分に分かっているはずだ。分かっているはずだが、――事前に買い溜めをしない姿はあまりにも、刃らしいとしか言いようがなかった。

 ――元より彼は、不思議なことに生に対する執着さえも薄いように見えた。刃が幼い頃は何を思ったのか、手に持ったカッターで己の手首を切ろうとしたことさえある。信号が赤なのにすんなりと足を踏み出そうとしたのを、止めたことだって片手では数え切れない。川の流れが速い橋からじっと水面を覗いていたときは、流石の応星ですらも「いい加減にしてくれ」と言った記憶がある。それが功を奏したのか、或いは初めから気にもかけてもらえていなかったのか――、親戚は刃に近付くのを嫌がって、刃と共に暮らす応星にもろくに関わろうともしてこなかった。

 我ながら末恐ろしい弟を持った、と応星は苦笑する。今こそ笑い話として思い返せるほど、刃の奇行は落ち着いたものだが、今思えば相当な変わり者だっただろう。その片鱗が今、空になりつつある冷蔵庫に顕著に表れているのだ。この様子であれば刃も、朝食を口にすることなく仕事へと出ただろう。

 応星は冷蔵庫の扉を閉めて、腕を組んだ。朝食も、昼食も口にしていない応星の腹は早くしろと言わんばかりに鳴り続けている。しかし、肝心の食事になりそうなものはひとつとして残されていないのだ。この状況下で口にできるものと言えば、水か、白湯か、茶のみ。固形物を求める胃袋には申し訳ないが、買い出しに行かなければどうしようもない状況に、応星はきゅっと眉を顰める。
 普段よりも眩しく思えてしまう外に出て、何らかの問題を起こさないとも言いかねない体ではあるが、外に出なければ食事にありつけない。食事を取らなければ十分な力を発揮することもできない。重い足を引きずって、どこかで躓いて倒れない保証などないが――彼は外出を余儀なくされていた。

 ふう、と応星は呼吸を整え、キッチンを後にし、リビングから廊下へ出る。その足で階段を上り、こんなにも上りはキツかったか、などと思いながら部屋に戻る。よくよく見れば物が散乱した部屋が汚いと思いつつ、クローゼットを開けてしまい込んでいる服を漁る。見てくれよりも機能性を重視するところは刃と大差ないだろう。白いタートルネックを着て、手短にあったジーパンを穿く。秋特有の寒さ対策に厚すぎないコートでも羽織っておけば、見た目はある程度着飾れるだろう。

 そうして身支度を調え、必要最低限の荷物――スマートフォンと財布とエコバッグ――を手繰り寄せ、応星は一息吐く。やはりここ最近は休めもしない休息に身を委ねている所為か、体力が著しく低下しているようだ。どくどくと早鐘を打つ鼓動を抑えつけるよう、胸に手を添える。深呼吸を繰り返し体を落ち着かせようと試みていると、不意にぐらりと世界が揺れた気がした。

 眠気と疲労が一斉に応星の体にのしかかっているのだと、理解するのにそう時間はかからなかった。平衡感覚を失いかけ、咄嗟に体を支えるためだけに出した足は力強く床を踏み締める。ダンッ、と思いの外大きな音が鳴ってしまい、その衝撃もあって応星の意識は現実へと引き戻される。ほんの一瞬だけ視界が一面白に染まり、彼の姿を見たような気がしたが、気のせいであってほしかった。普段とは全く異なった情景――赤い何かが足元に広がっていた気がして、思わず応星は額に手を添える。

 ――今のは、何だ……?

 折角整えていた呼吸は乱れ、首や胸から大きく伝わる鼓動に応星は小さく顔を歪ませる。記憶の糸を懸命に辿ったとしても、応星が今まで見てきた夢で空も白に呑まれたかのような一面の世界に、赤が咲き誇る情景は一度だって見たことがなかった。
 一度だって見たことのないそれが、応星は何やら気になってしまって、つい近くの机に手を突き、ぼうっと机上を眺める。何故だか理由は少しも分からないのだが、先程の情景が酷く気になって仕方がなかった。それを思い出さなければいけないような気がしてならないのだ。

 ――だが、一度眠ったとして、応星がその景色をもう一度見られる保証などありはしない。夢のひとつやふたつ、思いのままに操れればどんなによかっただろうかと、小さく溜め息を吐いて目を閉じる。いつの間にか空腹を訴えていた腹の虫は鳴りを潜め、彼自身、空腹を感じなくなってしまっていた。
 すぅ、と息を吸い、はあ、と深く吐く。糖分の足りていない頭は働くことをやめているが、応星自身が考えることをやめた試しはない。とにかく食事を取り、やるべきことをこなす――目先の目標を明確にして、きゅっと拳を握り締めたときだった。

 ――ポン、と軽い効果音が手元から鳴り響き、応星はびくりと肩を震わせる。日中――それも日が傾き始める時間帯にスマホから音が鳴るなど珍しく、ただ一人集中をしていた応星は驚きを隠せなかった。まるで突然後ろから肩を叩かれたかのような驚きに、片手に納めているスマホを横目に見ながら、再び胸元に手を押し当てる。驚いて飛び跳ねた心臓の音は五月蠅く、秋とは思えないほど体から冷や汗が流れたが、お陰で眠気は霧散して消えてしまった。体の重みは大して変わらないが、少しばかり起きていられやすくなった状況に、思わず「助かった」などという気持ちが湧く。

 そろ、と片手を持ち上げ、液晶画面を見ればメッセージの通知が映し出されていた。差出人はこれまた珍しく、仕事に出ているはずの刃からだ。彼は普段から応星に対してメッセージを送ることなど全くない。それこそ「皆無」の言葉が似合うほど。家に帰れば互いに顔を見合わせ、直接会話もできることから、彼自身はアプリを開く必要性を感じていないのだろう。
 対する応星は定期的に夕飯は何だの、帰りのついでに買い忘れた物を買ってきてくれだのと送ることはあるが、その全ては既読で片付けられている。それに少しの不満も覚えたことがないため、応星は珍しくやってきた刃からのメッセージに一抹の不安を抱えながらそっとアプリを開いた。

 刃は応星の唯一の肉親であり、たった一人の弟だ。到底あるとは思えないが、万が一彼に何かがあったとしたら――。

『起きているか』

 ――そんな不安を他所に、刃からのそれは酷く単調で、何の感情も込められていない簡素な文面だった。薄く震える手が滑稽に思えるほど無愛想なそれに、応星はいらない心配をしてしまったと失笑してしまう。どうやら彼は応星に何らかの用があるのだ。いちいち起きているかと確認を取る辺り、緊急性が高いのだろう。

 弟からの貴重なメッセージに何て返事をしようかと、呑気に考えているところ、既読がついたのを確認したらしい刃が、応星の返事を待たずしてポンポンとメッセージを送ってくる。

『起きているな』
『起きているなら話が早い』
『身支度を調えて外に出ろ』
『場所を送るから来い』

 応星の言葉を待たずして軽快に送られるメッセージに、彼は「おいおい」と思わず声を洩らした。たったの一言を連ね続け、最後に送られてきたのは位置情報のみ。それを切っ掛けにメッセージが止まったかと思ったら、数分の間を置いてから『一番角際の席』とだけのメッセージが送られてくる。送られてきた位置情報を元にマップで確認しようとした応星には何のことかも分からずに、何だ何だと慌ててそれを開くと、ある喫茶店が示される。

 そこは応星の家や工房から多少離れた街中の、人気の喫茶店だ。メニューも豊富で、主に貴婦人の憩いの場として知られているレトロな喫茶店である。種類が豊富な紅茶やコーヒーを中心に人気としているそこには、到底刃が誘うとは思えない場所だ。数日前に景元と行ったところとはまた違った雰囲気のあるそれに、応星はほんの少しだけ興味を惹かれる。

 刃は仕事以外にどこかの喫茶店でバイトを掛け持ちしていると話してくれていた。まさかとは思うが、ここがそのバイト先だったらどうしよう、と謎の期待が彼の頭を占める。あの顔で真面目に働いていたら、それこそ女性にモテるのではないか――なんて考えて、自分の考えに応星は呆れさえも覚えた。彼はそう易々と自分に関することを教える人間ではない。実のところ、応星でさえ、刃に対して知らない顔のひとつやふたつが存在している。それはそれで刃らしいといって応星自身が踏み入れることはないが、ほんの少しの寂しさがないといえば嘘になるだろう。

 彼がわざわざこうして応星に連絡を取ったということは、以前口にしていた「解決策」の何かを応星に伝えるためだろう。

「……にしては随分と口コミがいいものだな」

 すいすいと画面をスワイプして、応星は店舗の情報を眺めていた。刃に急かされている以上、呑気に情報を眺めている場合ではないが、人間である以上、人間の評価というものは気になってしまうもの。レトロな雰囲気が好き、だとか、スコーンが美味しいだとか、そういった評価を眺めていると、忘れていた空腹を思い出す。もしや、これを見越して家の中が空になっているのではないか、と不要な憶測をして、応星はちらりと鏡を見た。

 すっかり(やつ)れて目元には隈が残る顔色の悪い男が映し出される。しっかりと眠りには落ちているはずなのに、何故かなくならない隈に、実は本当に眠っていないのではないか、と疑念が募った。三十路になって刻まれ始めた目元のシワが、よりいっそう深くなっている。これで喫茶店に来いなどと酷なことを言ってくれるな、と応星は苦笑いを浮かべた。

 眠るときは外しているピアスをつけて、白い髪をひとつに束ねる。顔を洗ってから外に出なきゃ格好がつかないなと頬を叩き、気を引き締めた。

 部屋を出て手洗いに向かうべく廊下を歩く。階段を下り、浴室に隣接している洗面脱衣所に向かって、蛇口を捻り冷水を出す。顔にかかる冷たさに覚悟を決めて、くっと息を止めてから顔に冷水を浴びせた。ひやりとした水が顔面にかかる感覚はいつまでも慣れることはなく、喉の奥できゅっと息を呑み込みかける。それを二回ほど繰り返して、近くにあるタオルで顔を拭きながら、もう一度鏡を見た。先程よりも少しは見られる顔になっただろうか――。

「…………いや、気にしてる場合じゃないな。早く行かなきゃ怒られちまう」

 手早く顔を拭い、ハンガーに戻してから応星は脱衣所をあとにする。その部屋から出る前、未だに回り続ける洗濯機を横目に見て、――小さく溜め息を吐いた。

「こりゃ、掃除も明日になるな」

 そう、独り言を呟き、応星はリビングを一巡する。コンロは都市ガスではないため、火災の心配はない。窓の戸締まりを確認して、遮光カーテンで部屋と外を断絶する。余程のことがない限りは空き巣などの心配もないだろう。戸締まりの確認後、彼は玄関へと向かい、歩きやすいスニーカーを履いた。財布とスマートフォン、自宅の鍵があることを確認して、玄関の扉に手をかける。

 そうして開いた先、すっかり冷えた風が応星の頬を撫でて、出迎えてくれるのだった。