邂逅


 応星が刃からメッセージをもらい、家を出てから既に三十分が過ぎた。初めこそは何の音沙汰もなかった応星のスマホからは、時間が経つにつれてポンポンと音が鳴り始める。何気なくそれを見やれば、刃から催促するメッセージが頻りに送られてきていた。『まだか』『早くしろ』と何やら応星を急かす一言ばかりが送られていて、彼は堪らず大きな溜め息を吐く。

 ――否、これは溜め息ではなく、疲労から来る浅い呼吸だ。

 ふうふうと応星は肩で息を繰り返し、近くに立つ街灯に身を預けながら背中を丸め、膝に手を突く。道中彼の身を案じた通行人が「大丈夫ですか」と声をかけてきたが、応星はそれに小さく笑って「大丈夫です」と返した。少し運動不足で、と咄嗟に口を添えたが、彼らの表情は不安に濡れたままだった。

 無理もない。今の応星は息を切らし、額からは汗が流れる。街中に向かうにつれていやに鼓動が速まり、妙な胸騒ぎがする。火災を防ぐために植えられた銀杏の並木道は、風が吹く度に木の葉を揺らして黄色に染まる葉を舞い散らせた。――それを見る度に背筋にゾクリと悪寒が走るものだから、端から見れば応星は酷い顔色をしていることだろう。

 汗をかいているはずなのに、酷い寒気がする。風邪でも引いたのだろうか。しっかりと睡眠だけは取っているが、体がそれを認識しない分、免疫力が落ちているのだろうか。

 ――そう、様々な憶測を並べながら応星は力尽くで足を進める。鉛のように重い足は、数十分も歩いていると、何キロもの重りを課せられたかのように重くて仕方がなかった。家を出るまではこんなことなかったのに、と小さく舌打ちをする。思うように動かない体が非常に厄介で、応星の感情が酷く揺さぶられた。今となっては表に出すことは少なくなったが、数年前までは何度も苛立ちを露わにしていたことがある。上手くいかないことに対する不満、自分のことを見下す匠たちへの苛立ち――そういったものを惜しみなく顔に出していくのに疲労を覚えたのは、心に余裕を持ち合わせてからだった。

 スマホのマップを頼りに応星は示された場所へと近付いていく。目の前を銀杏の葉が舞い落ちるが、それに目を逸らして画面を確認し続けた。何歩か歩いてからまた息が上がり、目の前が揺れる。心臓はこれでもかというほど五月蠅く鳴り響き、足が覚束なくなる。そうすること数回。応星は漸く自分自身が飲まず食わずで外に出てきてしまったのだと理解して、「バカだな」と自虐を呟いた。
 幸い、刃が指定してきた喫茶店はもう目と鼻の先だ。信号を渡ってすぐの場所――レトロな看板が目立つそれに、彼はホッと一息吐く。もう少しかと並木道を横目にふと、手元で鳴る通知音に再度目を移した。

『店に入って左を突っ切った角際の席』
『窓から外が見える』
『待ち合わせをしていると言うか、勝手に入れ』

 ――こいつ、どこかで俺を見てるのか?

 そんな疑問を胸に、応星は画面を閉じポケットへと入れる。歩きながらの操作は事故の元になる。返事をしなくとも、刃ならば理解はしてくれるだろう。

「左の、角の、窓際」

 刃から送られてきたメッセージの内容を繰り返し呟いて、応星は呼吸を整える。外に出ている看板には季節のメニューが出ていて、軽く眺めてみればブドウだの、さつまいもだのを使ったスイーツが大々的に紹介されていた。やはり秋と言えばさつまいもが連想されるらしい。こだわりのスイートポテトを一瞥してから、応星は喫茶店の扉を開く。扉の真上に備え付けられているのであろう鈴が、チリン、と応星の来店を知らせていた。

 店内の雰囲気は落ち着いていて、クラシック音楽が流れている。焦げ茶色のソファーもカウンター席も目に優しく、入り口にある観葉植物は手入れが行き届いていた。規模は大きくないためか、カウンター席から会釈をする店員が一人、二人。お好きな席へどうぞ、なんて言うものだから、彼はそれに甘えて小さく辺りを見渡す。出迎えがないことに対する不満など、ありはしない。店の雰囲気と、漂うコーヒーの香りが相まってか、そういった様子が当然と言わんばかりに、応星は会釈を返してから足を踏み出す。

 左に入って真っ直ぐ向かったところにある角の席。――本来なら入り口で見えそうな刃の姿は視界に入ることはなく、応星は小さな不安を抱えながら足を進める。店を間違えたわけではないだろうな、とスマホをポケットから出してみるものの、彼からの連絡は途絶えたまま。催促すらないそれに、店は合っているという確信を得る。

 だが、肝心の弟が少しだって目に映らないのだ。あの独特な髪色は、応星と同じく嫌でも目に映るだろうに。どこを見ても人は少ないまま、静寂の中に音楽が流れているだけだった。

 ――まさか、本当にここで働いているわけじゃないだろうな

 ――そう、僅かな期待と、好奇心が応星の心を躍らせてきた。カウンターを見た限りでは、白いシャツに黒い前掛けエプロンを施すだけの簡単な制服があるようだ。刃ならばその姿もよく似合うだろう。何せ彼は、応星と同じ背丈であり、顔もいい。その無愛想さだけが唯一の気がかりではあるが、彼は応星の弟なのだ。決して様にならないわけがない――。

 ――と、思いながら歩くこと数秒。目的の角の席に近付いたのを認識して、応星はハッとする。人がいないと思いきや、唯一その席にぼうっと窓の外を見ている人物がいた。それが、刃ではないことは確かだ。彼はこんなにも背が低く、漆黒に染まる黒い髪をしていないのだから。

 だからこそ、応星は眉を寄せて、訝しげな顔をする。誰が見ているかどうかも関係なく、顔を歪めて、本当に店を間違えたのではないかと、不安に胸を焦がす。これこそ何かの間違いではないのかと足を進めていると。彼の――応星の息が確かに止まった。

「…………え……」

 そう、間抜けな声が自身の口から溢れたのを、応星は何とか認識した。進めていたはずの足は次第に疎かになり、遂には床に縫い付けられたかのようにぴたりと止まる。片手に納めていたスマートフォンは、驚きのあまりに力を失い、するりと彼の手から滑り落ちた。

 ――カシャン

 角から落ちたそれに、目を移したのは、――応星ではなかった。

 絹のように滑らかな濡羽色の艶やかな髪。一見女とも見紛うほどのそれに、応星は見覚えがある。その黒い髪から覗く白い肌はまるで陶器のようで、汚れも、シワも刻まれていない。不思議そうに音がした方へと向けられた顔に、こっそりと覗く天色の透き通る瞳は、凪いだ海のように静けさを湛えていた。

 それは、応星が落としたスマホへと向けられ、瞬きをひとつだけ落とす。応星が一向にそれを拾わないことに好奇心がそそられたのか、彼の瞳が応星の顔へと移った。
 湖畔のような静けさを湛える彼の目に、自分の顔はどう映っているのだろう。――そんな疑問を他所に、彼らの視線は交わる。

「――ぐ、ぅ……っ!?」
「――っ!?」

 ――その直後、今まで感じたこともないような酷い頭痛が応星の体を襲う。頭の奥深く、脳から来るような激痛は、外側からこめかみ周辺を強く押し潰しているようで。強い吐き気が体の奥底から一気に押し寄せてきた。
 堪らず両手で頭を抱え、応星が体勢を崩すと同時に、目の前にいる彼が大きく目を見開き、思わずといった様子で席を立つのが視界の端に映る。

「謀ったな、丹恒……!」

 そう彼が呟くと同時に、応星は酷い耳鳴りを覚えた。

 耳障りな甲高い音。その音に比例するように、胃の方から競り上がる吐き気を抑え込むのに応星は意識を奪われる。心臓が早鐘を打つ度に、波打つ頭痛が頭の中を掻き回すようで、酷く気味が悪かった。チカチカと目の前が点滅して、まともな呼吸すらままならなくなっていると、応星が他人事のように自覚を始めると同時――ダムが決壊するよう、記憶の波が押し寄せてくる感覚を得た。

 ――それは、確かに応星がこの身を以て体験してきたこと。

 誰と出会い、誰と交流を深め、自分が何をしてきたのか。
 幼い頃に両親、故郷を失い、追われた。見知らぬ地で過ごすことになり、そこでもいくつもの感情を抱え、努力を惜しまなかった。
 己を見下し、小馬鹿にしてくる奴らを見返してやると言わんばかりに鎚を振るい、いくつもの奇物を作り上げた。
 外れ者のように集まった五人で酒を酌み交わし、他愛ない会話をした。
 取り返しのつかない罪を犯し、肉親同然に愛していた彼女を厄龍に変えてしまった。
 己が作り上げた支離剣を振るわれ、何度も死を体験した挙げ句、〝死〟を迎えてしまった。
 誰よりも恋い焦がれ、誰もが認めるほど仲が良いとされていた彼を突き放し、「全て貴様の所為だ」と宣ってしまったこと――。

 そのどれもが、他でもない応星自身の記憶であり、前世のものであると本能的に理解する。頭痛と吐き気の中で抱えきれないほどの情報量に揉まれ、応星の意識は揺れ動き、その体は応星の意識を手放そうとばかりしている。人間としての防衛本能が働いているのか、一度全てを投げ捨てて意識を失わなければ、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 しかし、彼の脳裏には酷く冷静な自分がいるのも確かで。その冷静な自分が、「気をしっかり保て」と応星自身を鼓舞する。落ち着いて辺りを見ろ、と。でなければまた失うぞ、と呟いていて、応星はハッと目をこじ開けた。

「――待て……!」

 衝動のままに咄嗟に動かしていた手は、何も言わずに足早に去ろうとする彼の腕を掴むことに成功する。ぱしりと手中に収まる頼りない腕。掴むために上げた顔に映る彼の表情は、困惑と驚きに苛まれていて、無表情に飾られていた端正な顔はどこにも見当たらなかった。作りもののように完璧な彼は、一人の人間として応星の目の前に存在している。惜しみなく感情を表に出し、完璧な龍尊様など、欠片もない。

 その事実が何よりも嬉しくて、けれど、悲しくもあって。濁流の中で重なり始める彼の姿が相まって、ぐらりと視界が揺れる。
 黒い髪の隙間から見えた赤いタッセルピアスに、応星は頭が激しく揺さぶられる錯覚を得た。
 お揃いのピアス。お揃いの腕甲。月明かりの下で互いに合わせた赤い盃。応星、と微笑み名前を紡ぐ彼の名は。

「待ってくれ、丹、ふ――」
「――応星……っ」

 漸く思い出した彼の名前を、応星は口にすることもままならず、そのまま意識を失ったのだ。