時の流れとは早いものだ。
初夏に入っていたと思えば夏の暑さも通り過ぎ、気が付けば秋の香りが漂う。緑に染まっていた木の葉は黄色から赤へ。瑞々しく生い茂っていた草木はすっかり枯れ始め、辺り一面に枯れ葉が舞うようになった。これも風情があるもので、巷では紅葉狩りなどといった言葉が聞こえてくる。赤く色づいた木の葉を眺め、景色に心を浸すのが、季節の味わい方なのだ。
かくいう丹楓は季節の移ろいに没頭するわけにもいかず、働けるだけバイトに勤しんでいた。たった一年という制約の下、少しの時間も無駄にするわけにはいかなかった。日中は講義を受けて知識を高め、夕方は時間が許す限りはバイトに勤しむ。高校生の頃から何気なく始めた喫茶店のバイトは、初めこそはぎこちなかったものの、今となってはすっかり体に馴染んできて、前掛けエプロンを翻しながら丹楓は注文を取り、接客に勤めている。
自他共に認める無表情な彼を、初めて見た客は無愛想だと素っ気なく言った。その度に愛想が良くできないかと言われるものの、大して悪いとも思えない丹楓はただ頷くだけで何の対処もできなかった。
――――けれど、応星に出会って。眩しい笑顔を向けられて。愛想の良さが何かを頭に叩き込んだあとの丹楓は違った。もちろん彼ほどの純粋な笑みは浮かべられないが、ぎこちないながらも微笑んだ表情が、一部の客層に随分と気に入られてしまったようだった。
ドッと押し寄せてくる若い女性客を中心とした客層は、喫茶店には予想外の転機だったらしい。このままの路線で行こう、と言っていた店長の言葉には理解が及ばなかったが、丹楓は頷きだけで応えた。
そんなことを続けて早数年。今日も丹楓は無事に仕事を終えて帰宅をする。店を出る際にふと心配そうな顔を向けてきた店長は、彼の交友関係を気にしていた。どうやら丹楓が店を閉める時間まで働いてくれることに対しての心配をしていて、無理をしてほしくないという話を丹楓にした。
確かに以前は夕方には帰るようにしていたが、丹恒はもう高校生だ。これから先進学やら何やらを考えることがあるだろう。――――だが、もう手がかかる少年ではないのだ。ある程度の身の回りのことはできるし、夕飯の支度も一人でやれる。あれこれと手を出されることに不満も覚える年頃で、ある程度は好きにさせてやるのが一番いいのだと丹楓は思っている。
彼には彼の道がある。丹楓はそれに関与するべきではない。
――――なんて話をして、店を後にしたのが凡そ数十分前のこと。ふと時計を見れば、時刻は八時を指している。やはり講義とバイトの両立はいくらか体に負担がかかるようで、丹楓は玄関先で一人、くあ、と欠伸をした。丹恒は一足先に夕食を済ませているらしく、リビングに向かう道中の部屋から微かに物音が鳴っていた。
――――あれ以来丹恒との会話は目に見えるほど減ってしまった。どうやら丹楓が進学をしろと言ったことが多少気に障っているようで、家の中で目を合わせてもバツが悪そうに逸らされてしまう。同意をしてほしかったのか、それともまた別の理由があるのかは分からないが、ほんの少しの寂しさはある。
――――けれど、お互いに無視をしているわけではなかった。
丹楓は一度だけ左腕をさすり、リビングへと足を運んだ。扉を開いて静かな部屋の電気を点けると、テーブルの上に今日の夕飯が丁寧にラップされているのが見える。その上に白い紙が置かれているのに気が付いて、そっと近づいて眺めて見れば、「お疲れ様」と丁寧な字で書かれている。
会話は減ったが、決して仲が悪いわけではない。添えられた小さなメモを手に取って、丹楓は満足げに胸を満たしたあと、何気なく冷蔵庫やら何やらを確かめる。調味料の醤油が切れそうだとボトルを眺めて、一度だけ考える素振りを取ったあと、折角だから買い出しに行こうと決めた。
丹恒が残してくれたメモに追記を残し、財布を手に取ってエコバッグを携える。夕飯も食べずにもう一度外に出る音がすれば、丹恒も気になって部屋から出てくるだろう。その際に残したメモを眺めて、丹楓が何をしに行ったのか気が付くはずだ。
脱いだ靴をもう一度履いて、極力丹恒の邪魔にならないように静かに扉を開ける。醤油は確定して、米もついでに買っておくべきだろうか。そうしたら肩が痛くなりそうだ、と独り言を洩らしつつ、丹楓は夜道を歩く。リンリンと鈴虫の鳴く声が鼓膜を揺さぶる、すっかり秋も深まった今日この頃。夏に比べれば過ごしやすくなった気候に心が多少弾むが、天気はあいにくときたものだ。雲が多く、暗く、月の明かりさえも届かない。湿気を含んだしっとりとした空気が肌を撫で、少しばかりの肌寒さを覚えた。
どこかで雨でも降っているに違いない。急いで買い出しを済ませ、帰宅しなければ酷い目に遭いかねないだろう。
急な出掛けに折り畳み傘のひとつも携えていない丹楓は、足を速めてアスファルトを踏み締めていた。調味料を買うならコンビニでも文句はないが、やはり行きつけのスーパーは品揃えがいい。ついでに夕飯の足しになるようなものがあれば、と思い、丹楓はスーパーへと向かう。
信号をふたつほど越えてから、未だに煌々と看板を照らしているスーパーへと入った。鮮度を保つために調整されている空調に左腕をさすりながら買い物カゴを手に取り、品物を物色する。時間が時間だからか、半額とまではいかないがいくらか値引きがされている商品が並んでいる。鮮度がギリギリの刺身、調理されてから時間が経っている惣菜。
あまりにも目移りすれば無駄遣いをしてしまいかねない、と丹楓はそれらから視線を逸らしつつ、夕飯に役立ちそうな惣菜をいくつかカゴに入れて、目当ての醤油もカゴに入れた。少し欲張ってしまったような気もするものの、彼は足早にレジに並び、会計を済ませる。
普段は滅多に夜のスーパーに立ち寄ることがないせいか、どうにもレジ担当の店員が丹楓にチラチラと視線を向けていた。何かあるのかと小首を傾げ、「何か」と問えば、店員は勢いよく首を左右に振って「いいえ! すみません!」と頭を下げる。粗相をした覚えはないが、念のため頭を下げてからレジから外れ、カゴを近くの台に置いてからエコバッグへと移し替えた。
そう時間はかかっていないはずだが、いざスーパーから出ればどんよりとした夜空が丹楓を待っていた。つい先程まではかろうじて見えていた星空も、今ではすっかり曇天に覆われていて。今にも空が落ちてきそうだ、という感覚はこのようなものかと丹楓は納得した。
早く帰ろうと足を踏み出して歩くこと数分。家まではまだ距離がある信号の近くで、「あ」と誰かの声が聞こえてくる。聞き覚えのあるそれに思わず顔を上げれば、いくらかラフな格好をした応星が目の前に立っていて、物珍しそうに丹楓を見つめていた。
「丹楓! 奇遇だなあ!」
彼は嬉しそうに声を上げたあと、いそいそと丹楓の近くへと駆け寄ってくる。きょとんとした顔から一変して喜びに溢れる彼の表情は、やはりいつ見ても飽きないものがあった。自分よりも背の高い男が嬉しそうに近寄ってくる様を見ると、愛しさが込み上げてくる。いつも通り彼の後ろに白くてふわふわとした尻尾が左右に大きく振るわれている錯覚を見ながら、丹楓は「応星」と言った。
「お前最近ずっとバイト入れてるだろ? あんまり会話とかもできなくてちょっと寂しかっ……」
丹楓の呼びかけに応えるように応星は唇を開き、ありのままに言葉を溢す。それが勢い余って言わなくてもいいようなことを言ってしまったのか、応星は咄嗟に自分の言葉を切り、ピタリと止まった。いや、あの、と気まずそうに呟きを洩らしては逃げ道がないことに気が付いて、そのまま口を閉ざしてしまう。少しだけ、――――ほんの少しだけ恥ずかしそうに頬を赤く染めたと思えば、応星はそのまま「忘れてくれ……」と口元を覆いながらぽつりと呟きを洩らす。
こんな男が可愛らしいと思うのはやはり少しおかしいのだろうか。居心地が悪そうに丹楓から視線を逸らす応星を見上げて、いいな、と丹楓は小さく笑みを浮かべる。このように真っ向から好意を向けてくる応星に、いつかいい人ができるのだと思えば、羨望が胸に募った。
「そうかそうか。余がいなくて寂しかったか」
「お、おい……掘り返すな……」
「よしよし、寂しい思いをさせた詫びに撫でてやる」
ほら、頭を傾けろ。
――――気分がすっかり良くなって、丹楓はノリノリで応星をからかい始める。ほら、早く、と言えば応星はぐっと一度だけ身を逸らして、おずおずといった様子で頭を差し出した。そうでなければ荷物を持ったまま丹楓が応星の頭を撫でるなど、難しい話で。素直に頭を傾けてきた応星に気を良くした丹楓は、またとない機会だと目一杯彼の頭を撫でる。
するりと頭部の形を確かめるように手のひらを滑らせてから、くしゃくしゃと髪を掻き乱す。大型犬を撫でるように手を動かしてから、応星の髪型を思い出して一度だけ思い留まっていると、「これいいな」と応星が小さく呟いた。こんなにしてもらえるなら、もうちょい我慢すればよかったかな、なんて訳の分からないことを言っていて。満足そうに丹楓を見ていた。
「……髪が乱れてしまった」
考えなしに余が撫でたからだ。――――そう言って溜め息を吐きながら応星から手を離してやると、彼は頭を上げながら「構わんぞ」と言う。
「どうせ夜だしな。じゃなきゃこんなことしないだろ?」
家に帰ってもあとは寝るだけだ、と言って応星は何気なく後頭部に手を伸ばし、普段つけている簪を外す。シャラ、と金具が小さな音を立てるのを丹楓は聞いていた。それを外す応星を見るのは初めてのことで、思わず視線が釘付けになる。
白い髪を下ろした応星の髪は、丹楓と同じくらいの長さをしている。毛先が腰まであり、男にしてはやけに伸びた髪だ。丹楓も同じではあるが、手入れが大変そうだという感想じみたものが脳裏をよぎる。そうしてふと、高校生の頃を思い出して唇を開いた。
「其方、その簪は贈り物か? 高校のときにはつけていなかったと思うが」
そう気になって声をかければ、応星は「今更か?」と笑いながら簪を眺める。
「これは俺が作ったもんだ。流石の俺も学生の頃はちゃんと規則は守ってたさ。けど、今は義務教育だの何だのに縛られてないだろ? この髪色と同じように個性だって出したっていいはずだ」
それにほら、――――応星は自分の後頭部に簪を回して、差しているように見せてから「似合うだろ」と自信満々に丹楓に言った。にやりと口角を上げて笑っている様は、圧倒的な自信があってこそ浮かべる表情だ。自分に自信があって、間違いがないと思っている様子――――丹楓はそれに首を縦に振って「よく似合っている」と頷いた。
実際、彼によく似合っているのだ。まるで初めからそうであったように。
応星の髪色は生まれつきのものだった。話を聞くに彼の弟はしっかりと暗い髪色をしているが、応星は反対に雪のように白い髪が生えてくる。遺伝子に何らかの影響が出ているのかどうかは分からない。けれど、何であれ応星はこの髪が嫌いだったという。この髪色の所為で誰にでも揶揄われ、嫌がらせを受けていた。幼い頃の彼は引っ込み思案で、人の陰に隠れるほどの照れ屋でもあったという。
今では引っ込み思案だったなどと言われても一切信じられないのだが、彼が言うのなら間違いはないのだろう。何度か黒に染めようかと思っていたが、結局質が悪くなる可能性に頭を悩ませ、月日を重ねてきた。何度も教師には地毛かどうかを確認され、その度に嫌気が差す日常を送っていた。こんな髪色じゃなければ良かったのにと、応星が呟いていたのを丹楓は随分前に聞いていた。
切ってしまえばいいと思うものの、美容室やら何やらに行けばこぞって地毛かどうかを聞かれ、好奇の目が向けられる。それにも嫌気が差していた高校の頃にはもう、彼は真っ直ぐにそれを伸ばしていた。願掛けだと適当な嘘を吐いて、一本にまとめる。まだ小言は言われるものの、成長して我慢を覚えた応星は鬱陶しそうに表情を歪めるのをやめた。
――――そんな中、丹楓が告げたのだ。其方の髪色は眩しいな、と。
「其方の髪色は夏の日差しのように眩しいな。――――いや……その色なら星の瞬きか。何にせよ、余はその髪色が好きだ」
其方にしかない唯一の色だからな。そう言って惜しげもなく応星に告げて以来、応星は人目を気にすることはなくなった。未だに根付いていたらしい性格も、傲慢な態度に塗り潰されて生き生きとし始める。以前まで彼に嫌がらせをしていた同級生は、丹楓の突拍子のない言動に驚いたのもあってか、下手に応星に絡まなくなった。
自信に溢れた言動は自ずと彼の魅力を最大限に引き出してくれる。気が付けば応星の周りには友人になりたいと思う人が増えたものの、応星は相変わらず丹楓と共に居続けていた。