――――応星は今も変わらずに髪を伸ばし続けている。今でも人の目が気になるのか、と何気なく問いかければ、応星は首を横に振って「今は違う」と言う。
「今は本当に願掛けなんだ。自分の将来の意味も込めてる」
「将来? ああ、職人になることか。其方の作品は色んな者の目に触れられているからな。調子はどうだ」
この調子ならきっといい職人になる。余が言うのだ、間違いない。
彼を鼓舞するよう頷きながら応星の様子を窺えば、応星は「ああ」と言った。丹楓の意に反するように酷く落ち着いた声色に、丹楓は思わず頷くのをやめて応星を見上げる。彼は相変わらずじっと丹楓を見下ろしているが、先程の満面の笑みはどこにもなかった。ただ、真っ直ぐに丹楓の顔を見つめて、真剣な眼差しを向けている。
夜、ということもあってか、人通りは少なく車の通りも疎らだ。お陰で周りの環境音は鈴虫の合唱しか聞こえない。その所為だろうか――――、ふと応星が見せてくる表情が、他の何よりも真剣味を帯びていて、少しも揶揄う気持ちが起こらなかった。
どうした、と口を挟む気持ちも一切ない。ただ、今にも何かを言い出しそうなこの男の言葉を、丹楓は待っていた。簪を片手に収めたまま、する、と人差し指だけで丹楓の輪郭を撫で、「そのこともあるが……」と応星は口を開く。
丹楓が応星の言葉を待っていると、彼は気が付いたのだ。
「俺はな、丹楓――――」
その意図を汲み取った応星が、お前が、と彼が何かを言おうとした途端。――――丹楓の手のひらにぽつりと空からの滴が落ちてきた。
――――ザアッ
雨が降ってきた。――――そう理解すると同時に、バケツの中をひっくり返したかのような雨が空から降り注ぐ。二人の体は瞬きをひとつ落とす間にすっかり濡れてしまった。それでも変わらずに降り続ける雨粒は大きく、打ち付けられている体は痛みすらも覚える。しまった、と思った頃には既に遅い。思わず呆然としていると、応星が丹楓の手をパッと取った。
「走れるか? うちの方が近いから、着替えとか貸すぞ」
流石にその体じゃ家まで歩くのは厳しいだろ、と彼は有無も言わさずに丹楓の手を引いた。ぐっと力強く引かれた体はふらつくように歩き出して、応星に追いつけるよう精一杯の駆け足になる。俺が引き留めなければよかったな、と彼は言っていたが、話ができて嬉しいのは応星だけではないのだ。
気にするなと丹楓は言うが、けたたましい雨音に掻き消されてしまって聞こえていないかもしれない。もう一度口にしようと唇を開くと、応星が握っている手にきゅっと力を込める。その動作に、ちゃんと聞こえてる、と言われたような気がして。丹楓は何気なく手を握り返した。
寒い。雨に打たれている体が、冷えてきた風に吹かれて純粋な寒さを感じる。――けれど、握られた手からは温かな熱が伝わってきていて、居心地の悪さは感じられなかった。
辿り着いた先、家の扉を開けて応星は丹楓を招き入れる。「ただいま」と声を張った様子と、玄関に揃って置いてある靴の数からして、今日は彼の家族が揃っているようだ。
流石に濡れた体では家に上がれない丹楓は、玄関口でぼう、と立ち尽くす。ぽたぽたと自分の髪から水が滴り、足下には水溜まりが少しずつ出来上がっていく。他人の家の玄関に水溜まりを作るのもどうかと思っていたが、応星が「ちょっと待っとけ」と言って一足先に家へと上がって行った。
状況からして彼はタオルを用意してくれるのだろう。家の奥からは見知らぬ声が「あら、もう帰ってきたのね」と応星に語りかけていた。
「雨がいきなり降ってきてな。タオルが欲しいんだ、そこで友人と会って」
「あらあらあら! ご友人さんって、お話に出てくるあの……?」
「そういうのは今はいいから!」
賑やかな声が丹楓の耳に届く。タオルを貸してくれるなら、と拭きやすいように荷物を足下に下ろしていた丹楓は、自分の動きが疎かになっているのを痛感していた。指先が知らぬ間に小刻みに震えていて、心臓の鼓動がいやに激しくなる。緊張か、それともまた別の何かか。堪らず足下を見つめて硬直していると、奥から「おばさんは来なくてもいいから!」と応星が言い放っていた。
――――彼は「母」とは一度も言っていなかった。思えば、応星の口から家族の話は聞くものの、一度だって「父」と「母」という単語を聞いたことはない。両親、と言っていた割には他人行儀の言葉に、丹楓は思わず腕をさする。寒さの所為で先程の応星の体温はすっかり消えてしまっていた。
「すまん丹楓、これで取り敢えず体を拭いて」
「応星くん! タオル足りないでしょう? たくさん持ってきたわよ」
「だあああ! だから大丈夫だって!」
タオルはそこに置いてくれていいから! と声を張りながら応星は丹楓の頭にタオルを掛け、咄嗟に体を抱き寄せる。ぐっと引かれて収まった応星の腕の中は確かに温もりがあるが、どうしても濡れた衣服が頬に張り付いてくる。彼が咄嗟に彼女の視線から丹楓を隠そうとするのは、丹楓の体の事情を知っているからだろう。
誰かを不幸に、あるいは苛立たせてしまう才能があるのかもしれない。――――そう思ってしまう人生ばかりだった。
夏の間にも彼女は一度は帰ってきていた。暑さ故か、目に見えて分かるほどの不機嫌さに、丹楓はそっと丹恒に部屋から出ないように、と連絡を取る。彼は普段からすぐに返事をくれていて、その日も数秒後には返事が返ってきた。
『どうしてもか』という問いかけに、丹楓は『どうしてもだ』と返し、丹恒を納得させる。そのままスマホを布団の上にそっと置いたまま、丹楓は自室を出た。
部屋から出なければいいのに、と何度も言われたことがある。もちろん、丹楓もそうすればこんな目には遭っていないだろうと思っている。殴られないで、殴らせないで。連絡が来れば彼女はまた女の顔をして出て行くのだから。
――――けれど、そういうわけにはいかなかった。部屋の扉を開けてから聞こえるのは彼女の苛立った声と、何かが割れる甲高い音。ドタバタと嫌な音ばかりが響いてくるのが嫌で、丹楓はリビングの扉を開けて彼女と顔を合わせていた。
――――嫌だった。折角、唯一血の繋がりがあると自覚している弟との暮らしが、一夜にして荒らされるのは。丹楓が目の前に現れることでその矛先が丹楓にのみ向けられるのなら、彼はいくらでも体を張った。殴られることに対する痛みがなければ、抵抗するつもりもない。ただ殴られるだけで家に置いてもらえるのなら安いものだと、そう信じていた。
普段通りの日常、変わらないやり取り。アンタが大学に通えているのはこっちが学費を出しているからよ、と言う棘の含んだ言葉。アンタがいなければ良かったのにと向けられる、言葉の刃。本当に親不孝者ねと、嫌味しかないそれに、「親でもないはずだが」と反論をしかけて、――――やめた。そんなことを言ってしまえば最後、彼女のプライドに傷をつけてしまうからだ。
いつも通りの時間を過ごし、家にも居座りたくない彼女はふらりとまた外へと向かっていく。今日は随分と機嫌が悪く、遂には頬を叩かれてしまった。どのタイミングで切ったのかも分からないが、口の中に微かな鉄の味が広がって、無意識に眉間にシワを寄せていたらしい。機会を窺ってそろ、とリビングの扉を開けてきた丹恒が、また顔色を青くしながら丹楓の元に駆け寄ってきた。いくら話すことが減ったとしても、身を案じてくれているのは健在らしい。タオルを持っている微かに震えた手が、ぐっと口元を拭った。
顔が腫れている。――――その一言で、講義を休まざるを得ない状況になり、二日ほど見送ってから出向いた大学で、応星が険しい顔をしていたのを覚えている。連絡をした試しはない。かといって、丹恒が応星に連絡を取ったという話も聞いてはいない。そもそも応星は丹恒と連絡先を交換してはいない――――そう考えたところで、酷くふて腐れたような顔付きの応星が、丹楓の手を引く。
口の端に小さく貼られた絆創膏を、彼の指先が微かに撫でた。構内で人の目があるというのにも拘わらず、応星はじっと丹楓を見つめる。そうしてたった一言、「手当ては」と呟いた応星に、丹楓は「昨日した」と言った。昨日したから今は新しく替えていないと言えば、溜め息を吐いて後の予定を聞かれる。バイトまでの時間があるなら家に寄って行けと言われて、結局応星の部屋で新しく手当てを受けたのだ。
応星は飽きもせずに丹楓の手当てを率先してくれた。その日のみならず、定期的に繰り返し続けてくれている。お陰で傷の治りは早く、いくらか跡も消えるようになっていた。
――――それでも受けた形跡は簡単には消えてくれないものだ。
応星は丹楓の傷が今どれほど体に刻まれているかを知っている。そして、服の下に隠れている丹楓の痣が、雨に濡れて透けて見えるかもしれないという可能性も考えてくれている。だから咄嗟に丹楓の体を抱き寄せて体を隠したのだろう。丹楓が、面倒事を起こしたくはないとひた隠しにしているのを、知っているから。
「そしたら代わりに何が欲しい? お風呂でも沸かし直しておきましょうか?」
「分かった分かった、それでいいから向こうに行ってくれるか!?」
さすがにこいつも濡れた格好を見られるのは恥ずかしいだろうから! そう言って懸命に追い払おうとする応星の姿を、丹楓は好ましく思った。彼は自分の体を心配してくれる。彼は自分の事情を他人に明け透けにはしないでいてくれる。無理やり自分が暴いてしまったから、と、誰にも打ち明けずにいてくれる。
感謝している。それについては。感謝しきれないほど、感謝している。
――――けれど、どうしてか寒さが足下から這い寄ってくるのだ。
足首から、背中から、全身を包み込むような寒さが止まらない。まるでたった一人で冬に投げ込まれたような感覚に、混乱すら覚える。風邪を引いたのだろうか。それとも、雨に濡れた所為だろうか。応星の腕の中にいるはずなのに、震えが止まらない。
――――ああ、違う。これは。違う、
「丹楓……? 顔色が悪いぞ、平気か?」
「あら、それは大変! 急いでお風呂を用意してくるわね!」
パタパタと駆けていく小さな足音が、タオルの向こうから聞こえていた。彼女は本当に他人の為に風呂を沸かし直しに行ってくれたのだろう。応星が少しだけ安心したかのようにふう、と息を吐いてから漸く手を離してくれた。
彼の家庭は円満らしい。それは、この家に入ったときから全身に伝わってくる。漂ってくる夕飯であろう香りも、家の中の雰囲気も、全てが物語っている。極めつけは彼と、その親のやり取りで。自分には決して向けられることのないそれが、全身を、ぐるぐると、全身が、――――――――寒い。
さむい、寒い。寒くて仕方がない。体の芯が、まるで骨から氷漬けにされてしまっているようで。けれど、本能はここにいてはいけないと、丹楓に告げている。ここにいてはいけない。自分に、ここに居場所はないと、言っている。
「冷えたのか? ちょっと待ってろ、今もう一枚タオルを」
「…………いらぬ……」
応星が丹楓の体を気にして、その場に置かれたタオルを一枚追加しようとその場を離れる。その隙に丹楓は詰まっていた言葉を喉の奥から絞り出し踵を返して、ふらりと玄関の扉を開けた。扉一枚でいくらか遮断されていた雨音が、ザアザアと音を立てているのを聞き届ける。その音で応星はハッとして、廊下から「おい、」と丹楓に声を掛けた。
それを皮切りに、丹楓はその扉を強く閉めて、咄嗟に駆け出す。応星に追いつかれないように土砂降りの雨の中を懸命に走り、彼から逃げられるように足を動かした。バシャバシャと水飛沫が上がるのを気に留める間もなく、帰り道をただ走る。
幸運にも擦れ違う人はいなかった。水を跳ね上げる車も、通ることはなかった。どうやら夜ということと、急な雨ということで外に出る人の数は限られているようだ。
漸く見えた自宅の扉を思い切り開いて、バタンと音を立たせて閉める。けたたましい雨音は扉一枚のお陰である程度遮断されたが、それでも屋根を打ち付ける音は耳障りだった。少しだけ気持ちを落ち着かせるようにそっと耳に手を添えてから、丹楓は壁に寄りかかってその場に座り込む。持っていたはずのエコバッグは応星の家に忘れてきてしまったが、それを取りに帰る余裕が丹楓にはなかった。
とにかく寒かった。耳に添えていた手を両腕に移し、丹楓は体を抱える。自分で自分を温めようと試みて、何度も両腕をさすった。すりすりと、濡れた衣服が肌を擦るが、少しだって体は温まらない。
「――――丹楓? 帰っていたのか?」
やがて玄関を閉めてから少しの物音がしないことに違和感を覚えたらしい丹恒が、不思議そうに部屋から出てくる。彼の言動から察するに、丹恒は一度部屋を出てリビングにあるメモを見たのだろう。「風呂が空いてるぞ」と言葉を続けかけたが、彼の言葉は吐息になって消えていった。
「丹楓! どうかしたのか!?」
風邪でも引いたのかと咄嗟に駆け寄ってきた丹恒に、丹楓は小さく視線を向ける。あれ以来多少距離が空いてしまったような気がしていたが、心配そうにしている弟の瞳は相変わらず優しかった。
彼は丹楓の様子を窺うと、咄嗟に廊下を駆けてタオルを持ってきた。取り敢えず体を拭こう、と濡れた肌にタオルを押し当てて水気を取ってくれる。頭、腕、顔――――気が付けばすっかり面倒見が良くなっている弟を見やって、ふと口を開いた。
「風呂が、空いているんだな……」
「ああ、俺はさっき入ってきたから、まだ温かいはずだ」
そのまま入ってくるといい。そう言って丹恒は丹楓の手を取って、重い体を立ち上がらせる。先程までの震えはいくらか収まったが、それでも体は寒さを訴えていた。立ち上がったあとも丹楓は腕をさすっていて、丹恒はそれを不思議そうに見つめる。そうして丹楓が浴室へと足を運んでいくのを見送って、「着替えはあとでそこに置いておくから、しっかりと肩まで浸かってくれ」と丹楓に声を掛けた。
脱衣室の扉を閉めると、丹恒がどこかの部屋の扉を開ける音が微かに聞こえる。宣言通り丹楓の着替えを取りに向かったのか、それとも手当てのための道具を取りに行ったのかは定かではない。それでも丹楓は彼の言葉に甘えて、すっかり濡れてしまったタオルを洗濯カゴに入れた。
あとで丹恒には買ったものを応星の家に置いてきてしまったことを謝らなければならない。弟のことだ。笑い話にはしないだろうが、真面目な顔をしながら「仕方がない」と納得してくれるだろう。驚いて、応星の家から逃げてしまったことに対する弁解は、これっぽっちも思いつかないけれど。応星にどう謝ろうか考えながら服を脱いでいく。しっとりと濡れた布は肌にぴったりとくっついて気分が悪かった。脱いで洗濯カゴに入れると、漸くその気持ち悪さから解放されて一息吐く。
ほう、と吐息を吐いて。体に刻まれた跡を軽く撫でてから、後悔が押し寄せてきた。これだけ良くしてくれている応星に何て態度を取ってしまったのかと、罪悪感で胸がチクチクと痛む。物理的な傷に対する痛みは全く分からないというのに、どうしてか胸の痛みだけははっきりと分かった。
しかし、だって、仕方がないのだ。――――仕方がなかった。
認めるわけにはいかなかったのだ。
――――ぐっと拳を握りながら、丹楓は浴室の扉を開けた。締め切られていた部屋からふわりと全身を包む湯気はしっとりとしていているが、外とは異なって温かさがある。丹恒の言う通り、まだ浴槽は温かいままのようだ。
すぐに冷えた体を湯船に入れるわけにもいかず、丹楓は蛇口を捻ってシャワーを浴びる。サアサアと降り注ぐそれは、雨に比べれば遥かに小粒で、体に当たる水滴は心地が好い。――――その中で応星にどうやって謝罪をしようか、悶々と頭を悩ませていたのだった。