雨と熱

 悶々としたその翌日に、丹楓は応星に謝れなかった。――――理由は簡単だ。単純に風邪を引いて熱を出してしまったからだ。
 目を覚まして体を起こそうとしたとき、やけに体が重く、手が滑ってしまって使い古したベッドから滑り落ちてしまった。ドスンと音を立ててしまった所為か、肩から落ちたその数秒後に丹恒が部屋を開けて、どうしたと駆け寄ってきた。
 どうもしていない、何もない。――――そう言おうとしたものの、開いた唇から出てくるのは少しだけ湿った咳で、ゴホゴホと片手で口元を押さえると丹恒はすぐに状況を判断する。額に手を押し当てて、もう片手で自分の額に手を当てていて。丹恒は丹楓の体温と自分の体温を比較していた。そうして熱があることを知るや否や、渋い顔をしてから丹楓に肩を貸して体を起こす。
 体を起こして、強制的に丹楓をベッドに追いやって。「体温計と冷やすものを持ってくる」と告げてから踵を返した。その数分後には氷水を入れた桶と、体温計を持って丹楓の部屋に戻ってくる。「冷やすものがなかったから取り敢えずこれで我慢してくれ」と言って、近くの床に桶を置いてからタオルを浸して絞る。その白いタオルを額に載せて体温計を手渡してくれるものだから、丹楓はそれに素直に甘えていた。
 体温計の電源を入れてから脇に挟んで数分だけ待つ。その間に丹恒はやたらとそわそわしていて、少しだけ心配そうに丹楓を見ていた。すると、ピピッと小さな電子音が聞こえてきて、丹楓はぼんやりとしたまま脇に挟んでいた体温計を差し出す。

「三十八度、五分……少し高いな……」

 食欲はあるか、と丹恒は丹楓に問いかける。彼は普段通り丹楓との会話をしてくれていて、それだけで少しだけ胸が満たされた丹楓は「そんなに、」と言った。そんなに腹は減っていない。そう言って、布団に隠されていた腕を出し、不安そうにしている丹恒の頭を撫でる。
 応星の髪質とは全く異なった手触り。小さな頃から触れていた弟の頭。ポンポンと撫でていると、丹恒がみるみるうちに不機嫌そうに顔を歪めて「どうしてそうなるんだ」と言った。

「泣き出しそう、だったからな……大丈夫だ……安心して、学校に行くといい……」

 義務教育は果たすように。――――そう念押しすれば、丹恒は何かを言いたげに唇を開いたが、ぐっと押し留まった。何せ通学まで時間はそう残されていないのだ。丹恒は真面目で、遅刻など一切したことがない。その上、丹楓のように友人に唆されサボることなどしたこともないのだ。
 その輝かしい状況を、自分の体調程度で崩してほしくなくて。頼む、と言えば丹恒は渋々といった様子で「分かった」と言う。

「その代わり、今日は早めに帰ってくるからな」

 バイト先には休む旨も伝える、と丹恒は半ば意地を張るように告げて、少しだけ気にするような素振りを見せたまま部屋を出て行った。その数分後には玄関が閉まる音が聞こえてきて、しっかりと学校に向かってくれたことに安堵の息を吐く。

 ――――その途端に咳が込み上げてきて、噎せ返っているとじわりと目尻に涙が浮かんだ。

 空腹感は、ない。――――しかし、代わりに喉の渇きがある。何か飲み物を用意してもらってから見送るべきだったと丹楓は後悔していて、溜め息を吐いた。何も飲まない、という行為は現状の健康状態を鑑みると、悪化させてしまう可能性がある。ただでさえ体から汗が出て体内の水分を失い続けているのだ。失った分をどうにかして補わなければ、丹恒のいない家で丹楓は意識そのものを失いかねない。

 良くて救急搬送、悪くて絶命、だろうか――――。

 そうなってはならない、と丹楓は体を起こし、ゆっくりと慎重に床に足をつける。決して倒れないように気を強く保ちながら。丹恒が額に載せてくれたタオルをそうっと桶にかけて、ふらつく足取りでリビングへと赴いた。
 空――――ではないが、昨日買っていた惣菜も何もない冷蔵庫を開けて、近くにあった麦茶のペットボトルを取る。堅く閉められている蓋を何とかして開けてから、飲み口に口をつけて一口だけ流し込む。
 ごくりと麦茶を飲み込む音が思いの外大きくなったものの、それを聞くのは誰一人としていない。飲み口から口を離した丹楓は、飲み物くらいは近くに置いておいた方がいいだろうということで、冷蔵庫を閉めながら蓋をする。思ったような力は入らなかったが、何とか締まったそれを片手に持ち、丹楓は自室へと踵を返した。
 ぺたりぺたりと素足がフローリングの廊下を踏み締める。汗の所為で少しだけべたつく感覚が気持ち悪い。体調が良くなったら掃除を目一杯してやろう、と心に決めて、ベッドの上に倒れ込んだ。ボフン、と丹楓の体を支えてくれたそれは、微かに軋んだ音を立てた。一瞬でも買い換えることを視野に入れたものの、この家は自分たちのものでなければ、家具も自分たちのものではない。――――それを思うと、途端に全てがどうでも良くなった。

 ぼんやりとする意識の中、丹楓は手探りで自分のスマホを探す。確か近くにあったはず、とぽすぽすと動かしていると、硬い感触がした。長方形の、少しだけ冷えた物体の感触だった。それが探している目当てのものと知ると、ずるずると引き寄せて画面を点ける。
 パッと映し出されるのは、以前五人で写真を撮りましょう、と白珠に言われてタイマー機能を使って撮影されたときの写真だ。メッセージアプリに送るので教えてくださいと言われ、結局五人のクループチャットが作られ、送られたものを待ち受けにしてもらったものだ。

 あたしたちはきっととっても仲良しになりますと、他でもない彼女が興奮気味に言ったのを、丹楓は覚えている。春先の出会いで、大学構内を応星と見て回って、流れで彼らに出会い意気投合したのだ。
 まるで、以前からの旧友であるかのような居心地の良さに、そのときの丹楓は白珠の言葉に頷いた記憶がある。肯定の言葉を口にすることはなかったものの、他の三人も妙に納得していて、誰も彼女を否定する気はなかった。
 その写真が送られて以来連絡という連絡は取っていないものの、仲が悪くなったような感覚はない。それぞれがそれぞれの時間を、人生を送っている分、つかず離れずの距離感が絶妙なのだ。その中で応星と丹楓がとりわけ仲が良くて、一緒にいる時間が長いだけで――――ふと、寂しさが胸に募ったような気がして、丹楓は手早く電話帳を開く。トントンと画面の操作をして、働いているバイト先に暫く出られない旨の連絡を入れると、電話の向こうから「いっそのこと一週間くらい休んでくれて構わないから!」なんて声を張られた。
 君の作業効率化のお陰で、他の子たちも随分と頑張れているから、なんて声をかけられて、ほっと安堵の息を吐く。丹楓自身に何かをした記憶は殆どないが、店長が言うのなら間違いはないのだろう。

 彼の好意に甘えて礼を告げてから電話を切る。そしてそのままスマホを投げ捨てるように放り出して、丹楓はうつ伏せになって咳をする。体が思ったように動かせず、重くて息が苦しい。折角丹恒が用意してくれたタオルも額に載せられないまま、丹楓は小さく唸った。
 今この状況下で彼女が帰ってきてしまったらどうしよう、と行き場のない不安がドッと押し寄せてくる。
 丹恒がいないことは不幸中の幸いといったところではあるが、彼女が帰宅をして家に八つ当たりをし、今の自分を見つけて手をあげてきようものなら――――さすがの丹楓も命の危険がある。全てに対する抵抗力を失った体は、殴られ慣れていようが何だろうが、無事では済まされないだろう。

 彼女が前回帰ってきたのは先月だ。今までの経験から考えると、早くて今月のどこか、遅くて来月冬の入り口でふらりと帰ってくるかもしれない。

 今月でなければいいのに、そう思いながら地を這うように体を引きずって、桶に手を伸ばした。
 パシャン、と氷水が弾ける。タオルを掴もうとして失敗した手が、冷えた水に浸ってしまった。背筋が凍るような悪寒が走ったが、同時に熱を抱えている体はその冷たさが心地いいと言っていて。その感覚に丹楓は少しずつ眠気を掻き立てられてしまい、思わず目を閉じる――――。

 ――――本当は知っている。この家庭環境がおかしいことくらい。親族に血の繋がりがないことくらい。唯一本能的に血縁者であるという感覚が得られるのは、一緒に住んでいる丹恒と、手紙のやり取りをしている雨別くらいだ。
 全く別の、赤の他人がすっかり一族に取り入って親戚面をしているのだと、雨別は書き記していた。それをどうにかしようと彼は一人奮闘していて、もしかしたらそちらに飛び火するかもしれない、とも書き記していた。
 ――――飛び火。もしかしたら、丹恒に何らかの影響が及ぶかもしれない。そんなことはあってはならない。何せ彼は、丹楓の大切な宝物なのだから。そうならないように丹楓が立ち回り続けるしかないのだ。

 彼が義務教育を終えるまで
 丹恒が自立するまで。
 弟が――――自分の存在がいなくとも、立ち上がって歩き続けられるまで。

 この決意は固く、覆しようもないことは丹楓自身もよく知っている。そもそも、丹楓自身がそれをやめようと思わない限りは、決して覆らないものだともよく分かっている。
 けれど、時折不安に駆られるのだ。
 全てが終わって、丹恒が手元から離れていったとき。自分はどう生きればいいのだろうか――――。