雨と熱

 カタン
 ――――ふと、物音が聞こえて丹楓は知らない間に手放していたらしい意識を手繰り寄せる。記憶の最後にあるのはうつ伏せで、視界の半分ほどを布団が占めていたはずだ。
 しかし、彼が見た景色は見慣れた天井が視界に広がっているだけだった。普段からリビングで過ごすことが多い分、あまり使わない照明が、じっと丹楓を見下ろしている。たまには部屋の明かりを点けようかと、そんな的外れのことを思っていると――――、また音が鳴った。

 カタン、パタパタ、トトト

 誰かが戸棚を開け閉めして、駆けるような微かな音が静かな家に響いている。慌ただしく鳴らされる音に丹楓は働かない頭で、彼女の帰宅を脳裏に浮かべてしまう。意識を失う前に考えていたことがもしも本当になっていたら、一体どうしようかと微かに身動ぎをした。そのまま寝返りを打って姿勢を変えて、震える手で体を起こそうと試みる。
 意識を失う前にあった悪寒は、いつの間にか熱に変わっていて。普段なら感じられないような熱さが体中を駆け巡っている。これは珍しい現象だな、なんて他人事に思う自分を頭の片隅に追いやって、丹楓はありったけの力を振り絞って立ち上がる。
 立ち上がった途端にズシリと体全体が上から押さえつけられるような感覚がして、吐き気が押し寄せてきた。
 しかし、口に入れたものは飲み物だけで――――出せるものは何ひとつだってない。
 そんな中、ふらふらと覚束ない足取りで自室の扉に手を掛けて、開けようとした直後にふと、気が付く。

 ――――この物音の発生源が彼女だとすれば、こんなにも大人しいはずがないと。彼女は帰ってくるなり苛立ちをその胸に抱え、辺りを荒らさなければ抑えようにもない憎しみに駆られているのだ。その原因の大半が自分にあることを知って、丹楓は身を捧げているようなものではあるからこそ分かる。今、この家にいるのが彼女である可能性は限りなくゼロに近い。
 ――――なら、一体誰がここにいるというのだろうか。思いつく限りの人間をどうにか脳裏に思い浮かべてみるものの、特別丹楓の身の回りでは丹楓がどこに住んでいるのかを知っている者は殆どいない。いくら仲のいい応星であろうが、万が一に備えて家に招いたことなどないのだ。
 唯一住所を知っているとするならば、履歴書を見ているはずの店長で。――――しかし、朧気な意識の中でちらりと確かめた時計は、昼前後を示している。喫茶店は昼から三時頃までそれなりに忙しくなるのが特徴だ。店長が家に来るなどという状況には至らないだろう。
 そもそも丹恒は家を出る前に必ず鍵をかけるはずだ。今家に入ってきているということは、鍵を外してこなければ家には入れない。つまり消去法で言えば音の原因は丹恒でなければおかしいのだが――――彼が学校を早退してまで家に帰ってくるとは思えなかった。
 何せ丹楓が告げたからだ。学校には行けと。優しく、聞き分けのいい彼は、丹楓の言葉を無視することは滅多にない。丹楓が大丈夫だと言って聞かせたのだから、そう易々とは帰ってこないはずなのだ。

 ――――では、この物音は誰が?

 そう不思議に思って呆然としていると、トントンと廊下を歩く音が微かながらもこちらに近づいてきているのが分かった。丹楓は咄嗟に扉から距離を取って、三歩ほど後ろに下がる。ふらふらと体が左右に揺れていて、真っ直ぐに立っていられる自信はなかった。体温が朝よりも上がっているのが分かる。このまま放置すれば、自分がどうなってしまうのか、最悪の結末を考えながら徐にその場に屈み込んだ。
 寒いのに、酷く熱苦しい。
 困ったな、と再び他人事のように溜め息を吐くと、自室の扉が静かに開かれる。

「――――丹楓?」

 音の発生源が自分も知らない誰かだったら、どうしようかと悩んでいた先。扉が開いたあとに聞き覚えのある声色が降り注いでくる。それは、低くてどこか聞き心地が良くて。時々揶揄うように弾むことがある、聞き慣れた声だ。
 それに丹楓は俯かせていた顔を上げて、声の主を見上げる。彼は白い髪を器用に――普段とは異なるまとめ方で――ひとつにまとめて、薄い生地の長袖である袖を捲っていた。片手でトレーを持ち、不思議そうにこちらを見下ろしているのは、他でもない応星だった。

「起きたのか……っと待て、この部屋あまりにも物が少なくて勝手に小さいテーブルを出したんだ。今、これを置くから無理に動くなよ」

 そう言って応星は知らない間に出していたらしい小さな机にトレーを置く。コトン、と音を鳴らして置かれたそれには、ほうほうと湯気が沸き立つ卵粥が載っていた。

「ほら、立てるか? 無理なら寄りかかってくれて構わないから」

 応星は用意したらしい粥を後目に、その場に屈み込んでいる丹楓に手を伸ばす。一度だけ頬に手を滑らせて「熱いな」と呟いたその表情は、今までに見たことのない真剣な顔そのものだった。丹楓が思わず「おうせい……?」と確かめるように口を洩らすと、応星は丹楓の腕を自分の背中に回しながら、「ああ、応星だ」と返事をする。そのまま丹楓の背中を支えつつ立ち上がるものだから、丹楓は何気なく彼の背に回された手をきゅっと握り締める。

「……応星……」
「はいはい、お前の応星だぞ」

 彼の服を握りながら再び彼の名前を呟けば、応星はトントンと丹楓の背を軽く叩きながら軽口を言った。まるであやすような手つきにふと、心が安らかになったような気がしたが、それを覆すように疑問がふつふつと湧いて出てくる。
 一体何故、応星がここにいるのだろうか。家の鍵は、どうやって所在地を知ったのか。
 いくつもの湧いてくるそれを口にしようとして、喉の奥がカラカラに乾いていてケホケホと咳をする。今朝以外何も口にしていない所為か、湿った咳ではなく乾いたそれに、応星は「無理するなって」と言いながら丹楓をベッドに座らせる。風邪が移ってしまうかもしれないという一抹の不安が丹楓にはあるというのに、手を離した応星はただ優しい笑みを浮かべるだけだった。

「ど、どうして、ここに……」

 懸命に言葉を紡ぐ丹楓に、応星は粥と一緒に持ってきていた飲み物を手渡してくる。近くに置いてあったペットボトルはぬるくなってたから冷蔵庫にしまっておいた、と彼は言っていて、丹楓に飲むように勧めてきた。湯気を立たせるそれは、風邪を引いているときに飲むのにうってつけだという生姜湯だ。生姜独特の、少しだけツンとした香りが鼻腔をくすぐる。
 彼は丹楓が生姜湯を飲まなければ一切質問に答えないようで、丹楓の問いに対する返事は返ってこなかった。
 代わりに丹楓はマグカップにふうふうと息を吹きかけて口をつける。温かいお湯の中に生姜の辛みが混ざっているが、ほんのり甘さも加わって落ち着いた味わいが口いっぱいに広がってくる。その甘さがハチミツなのか、砂糖なのか、風邪で体の機能が低下している丹楓には見極められなかった。
 その代わりに、生姜湯を飲んだ丹楓を見ていた応星が口を開く。

「丹恒くんから連絡があって」
「…………恒、から……」
「そう。丹恒くんって俺の弟と知り合ってたんだな。弟経由で連絡が来てさ」
 
 昨日の出来事を反省しながら大学に赴いた今朝。普段なら窓際の席に悠々と座っている丹楓が見当たらず、応星は焦りを覚えていたようだ。丹楓が雨の中を走って帰ってしまうほど、不快な思いをさせてしまったのかと悶々として、一睡もできずにいると、不意にスマホの通知で端末が震える。普段なら気にも留めない通知が、いやに気になってこっそりと盗み見ると、『応星さんの連絡先で合ってますか』という文面が見えた。
 以前から入っていたが大して使ったことのないメッセージアプリに、身内以外からの連絡が来るのは珍しいことで。不思議に思いながらも名前を確認すると、丹恒の文字が見えたのだという。

「お前が熱を出してるって聞いて。いても立ってもいられないから、やっぱり早退しようか悩んでたらしいからな。兄さんがこんな目に遭ってるのに学校にいるってことは、お前が学校に行くように言ったんだろ?」

 お前は真面目だからな。そう応星は笑って言い、丹楓の手に収まっているマグカップを受け取る。たった一口程度の量しか減っていないものの、応星は満足そうだ。
 丹恒はどうやらバイト先にいる応星の弟と連絡先を交換していて、応星が彼によく似ていることから藁にも縋る思いで賭けたらしい。応星という方に面識があるのかと問えば、兄だと答えられ、事情を話して応星の連絡先を教えてもらったようだ。
 兄の期待を裏切るような真似を取ることに抵抗がある。けれど、取らなければあの家にはたった一人しか残されていないのだ。万が一のことがあれば丹恒は自分自身を恨んで、憎んで生きざるを得なかっただろう。

「だから俺が行くって言った。お前が置いていったものもあるし。何より、昨日のことも謝りたかったしな……」

 こうすれば丹恒は丹楓の期待を裏切らずに済む。家の鍵は授業が終わったあとにある数分の休憩時間で渡しに行くという手筈になった。彼の通う学校は、丹楓と応星が通っていた高校だ。久し振りに見た母校から友人の弟が駆け寄ってくるのを目にしたとき、どこか感慨深く思ってしまったのは内緒らしい。
 家の鍵を受け取ったあと、応星は買い物をするのにスーパーに寄ってから家に赴き、丹楓が忘れていったバッグを携えてここに来たという。教えてもらった住所を検索して、目的地に着いたときの緊張感は計り知れなかった。
 念のためインターホンを鳴らしたけれど、返事はなかった。仕方なく預かった鍵で家に片手を桶に浸したまま意識を失っている丹楓を見かねて、咄嗟に駆け寄ったのだと彼は言う。

「大事にはならなくて良かった」

 そう言ってからマグカップをトレーの上に置き直し、代わりに差し出されたのは応星が買ってきたらしい冷えピタだ。タオルよりマシだと思うと言ってじっと丹楓の顔を見てくるものだから、丹楓はぼんやりとしたまま小首を傾げる。そうだというのなら差し出してくれればいいものを、彼は困ったように視線を泳がせてから「だから、」と口を開く。

「その、離してくれるか……? どこにも行かないから」

 そう言いながら指差す方へと視線を向ければ、丹楓は無意識のうちに応星の手を掴んでいたようだった。
 きゅっと掴まれた彼の手は困ったように緩く開かれていて、抵抗をする意思は見せていない。一体いつの間に、と思った丹楓はこくりと頷いてから、そっと彼の指先を離す。漸く自由を得た応星は一度だけ自分の手を眺めてから、丹楓にそれを渡してすぐに用意してくれた粥へと手を伸ばす。
 ベッドの端に腰掛けて、レンゲを片手に「味付けは悪くないはずだ」と言って、丹楓に粥を差し出した。目の前に出されたそれを丹楓は見つめ、手を出さずに黙って応星の行動を窺っている。片手に収まっている冷えピタをカサカサと指先でいじっていると、応星がくっと小さく笑ってから「それとこれ、交換な」と言って粥をレンゲごとトレーに置いて、トレーごと丹楓に再度差し出した。
 丹楓はそれを受け取るべく冷えピタをそっと置いてからトレーを受け取ると、反対に応星が冷えピタを持って行く。そのままビニールを外して「ちょっと前髪上げられるか」と丹楓に言った。丹楓は応星の言うことを聞くように、一度トレーを布団の上に置いてから前髪を掻き上げ、額を露わにする。その額に冷えピタを貼ってから「もういいぞ」と彼は言った。

「次は粥を食おうな。食欲がないかもしれないけど、食うもん食わなきゃ薬が飲めないからな」
「…………」

 卵粥にしたんだ。そう言って応星は丹楓の行動を見守るようにじっと、丹楓に視線を向けている。先程言っていた「どこにも行かない」を彼は確かに守ってくれるようで、どういうわけか不思議と心が落ち着いてくる。無意識で何らかの不安を抱えていたのだろうか――――いくら考えを巡らせてみても、少しも見当はつかなかった。
 しかし、どこにも行かないのは今の丹楓にとって安心できるものではある。――――だが、それはそれとして気持ちが焦る気もした。

 丹楓はレンゲを手に取り、粥の上をつんつんと軽く突く。ほんのりと黄色みを帯びた、キラキラと輝くそれは、ぐつぐつと煮込まれてすっかり柔らかくなった白米だ。米を炊いていた記憶はないけれど、昨夜の残りを彼は使ってくれたのだろう。昨夜の残りが無駄にならなくてよかったと、ほっと一息吐く。買い物に行ったらしい応星の財布からこれ以上の出費は控えてほしかったのだ。
 卵粥には彩りを添えるようにパラパラと青ネギが軽くふりかけられている。風邪にはネギがいいとどこかで聞いたことがあるが、効果のほどを実感する出来事を丹楓本人は迎えたことがない。そもそも、丹楓自身はこれまで熱を出したことが一切なかったのだ。
 けれど、自分が今どうすればいいのかは明白だ。応星がわざわざこの家に立ち寄って作ってくれた卵粥を食い、解熱剤を飲めばいい。そして、大人しく布団の中にもぐって、静かに眠ればいいのだ。
 いいのだ、けれど。――――どうしても食指が動かない。レンゲを持った手は絶えず粥の表面を軽く突くだけで、それを掬って口元に運ぼうとは思えなかった。作ってくれた応星には悪い話ではあるが、丹楓には食欲がこれっぽっちも芽生えなかった。

「……ゼリーの方がよかったか?」

 丹楓の行動を見かねた応星が、ふと彼に問いかける。念のためゼリーも買ってあるぞ、と応星は言ったが、丹楓はそれに首を横に振った。食欲がないことはもちろん、贅沢も文句も言うつもりはないからだ。彼は自分の為に料理を振る舞ってくれた。――――たったそれだけでも救われる気持ちになるというのに、その好意を無下にすることだけはしたくなかった。
 丹楓が首を横に振るのを見ていた応星は、「でも口にしないと体に悪いぞ」と丹楓に言い聞かせる。食欲がないのは分かるけれど、少しでも食べないと体が保たないぞ、とまるで幼子に言い聞かせるような口振りに、僅かに唇が動く。食べなきゃいけないのは分かっているはずなのに、体が思うように動かなかった。

「…………分かった。貸せ」
「………………」

 もじ、とレンゲを掴んでいた指先を軽く動かしていると、不意に応星が丹楓の手に収まっていたレンゲを奪い去る。言い聞かせていた優しい口調から、普段とそう変わらない口振りに変わっただけなのに、何故だかそれが少しだけ怖いと思えてしまった。
 怒らせてしまっただろうかと、丹楓は応星の行動を見つめる。彼は丹楓からレンゲを奪ったかと思えば、トレーに載っている卵粥までもを手に取って、熱を逃がすようにレンゲを粥に差し込んでいく。水気を含んだ、掻き混ぜられる音がしていて。一体何をするのかと思えば、応星はレンゲに粥を掬ってからふう、と息を吹きかけた。

「ちょっとだけでいいから食えるか?」

 そう言って応星はレンゲに掬った粥を丹楓の口元にずい、と寄せる。ほんのり香るのはネギと、ダシの温かな香りだ。それがほんのり鼻腔をくすぐってきて、なかったはずの食欲が微かに顔を覗かせてくる。思わず腹に手を当てて、じっと応星を見つめれば彼は軽く笑って「口開けろ」と言った。

 その言葉の通り、丹楓は小さく唇を開き、差し出されている粥を出迎える。少しだけ熱いと思ってしまったが、小鳥の啄み程度にしか迎えられなかったそれを、丹楓は咀嚼した。普通の白米とは異なって咀嚼するほどの食感などないに等しいが、今の丹楓にとってはそれが有り難かった。ダシの香りと風味が微かに口の中に広がっている気がして、無味無臭とまではいかないそれを、ぐっと嚥下する。
 微かに「おいしい……」と呟くと、応星は一度だけ目を見開いてから、少しだけ嬉しそうに「そうか」と言った。
 誰かに食べさせてもらうということ自体を経験したことのない丹楓は、まだレンゲに残っている粥に再び口をつける。その間、応星は場を和ませるようにぽつぽつと身の上話をしてくれていた。

 どうやら幼い頃に応星は一度だけ酷い熱に魘されたことがあるのだという。体を起こすのも億劫で、何かを口にすることも嫌で仕方がなかった。どうしようもなく寂しくて、不安で。たった一人でいることが耐えられなかった。
 けれど、兄という手前、甘えることに対して抵抗がある。自分には弟がいるのだから、甘えてはいけないのだという先入観がある。――――そんなときに粥を用意してくれた親が、辛いときは甘えていいと言ってゆっくりと、粥を食べさせてくれていたそうだ。

「まあ、そのあと熱が引いたときには凄く恥ずかしくなったんだけど」

 あの頃は立派なお兄ちゃんになるんだって張り切っていたからな。
 ――――彼はそう語りながら、丹楓の食事に飽きもせず付き合ってくれていた。お陰で丹楓は粥の半分ほどを食べられて、多少の満足感を得る。差し出されていたレンゲに食らいつくのをやめると、応星は察して「これだけ食えりゃ十分だ」と言っていた。彼の昔話は、同じ兄の立場である丹楓が、変に意識をして抵抗をしないようにと語られていたものらしい。甘えることは悪いことじゃないぞ、と応星は言ったが、丹楓はそれに首を傾げる。
 生まれてこの方、丹楓は甘えたことがない。――――甘えられる相手がいなかったからだ。その分、応星が何を言おうとも甘える方法を知らないし、術もない。
 しかし、彼の好意は無駄にしないようにと頷いて、肯定の意を示す。それを見かねていた応星は何かを考えるようにじっと丹楓を見つめていたが、飲み物が入ったコップを手に取って、丹楓に差し出してきた。それは、生姜湯が入っていたマグカップとはまた別のもので、中身は純粋な水だ。

「薬だ。さすがに生姜湯で飲ませるわけにはいかないからな。これ飲んだのを見たら、丹恒くんに連絡するぞ。ちゃんと薬飲んだぞって」

 誰よりも心配してたからな。応星はそう言って丹楓の手のひらに薬を二粒載せる。成人は二粒だって、と雑談を交えながら飲むように急かしてくる。丹楓はそれに答えるように口に薬を入れて、水で喉の奥へと押し流す。小さな異物が水と共に胃の中へと流れていくのを実感してから、飲みきったコップを応星の方へと差し出した。
 ――――すると。

「よくできたなぁ」
「…………は……」

 応星は空のコップを受け取るや否や、丹楓の頭に手を載せてくしゃりと頭を撫でた。汗ばんでしっとりとしているはずの頭を、彼は嫌悪することもなくぽんぽんと撫でていく。それは、丹楓が丹恒にしてやるものと同じようで、ほんの少しだけ異なっていた。
 一体何に対する行動なのかと、丹楓が目を丸くしていると、応星はそれがおかしかったのか、丹楓の頬をツン、と突きながら笑う。「何て顔をしてるんだぁ?」と少年さながらのいたずらな笑みにふわふわと、妙な多福感に包まれていると、頭に置かれていた手が頬に滑る。
 普段なら温かいと思う応星の手のひらが、今日ばかりは同じくらいの温度に思えた。

「飯食って薬飲めたら褒めてやらないとだろ?」
「余は、褒められる歳では……」
「だからだよ。大人になったら誰も褒めてくれないだろ? なら俺たちが互いを褒めてやるしかないさ。特に丹楓、お前はきっと頑張りすぎるだろうからな」

 俺が褒めてやるよ。今日だけはお兄ちゃんだと思ってくれていいぞ。
 彼はそう言いながら胸を張って、ニヤニヤとした表情のまま、頬に触れていた。「薬が効いたら熱が下がると思うけど」と言って、頬から肩へ。押し倒すような動作を取って丹楓に寝るように示す。丹楓はそれに大人しく従い、もそもそと布団へと入った。もう少し経てば寒くなるだろうと思って出した毛布は、今の丹楓にとっては少しだけ暑い。
 ――――だが、体にのしかかる重みが何故だか少しだけ、安心感を掻き立ててきていた。
 丹楓が布団に入ったとしても、応星はその場から動かずにベッドの端に座っている。丹楓が手渡したコップをトレーの上に置いて、じっと見つめてくるものだから、丹楓も応星の顔を眺めていた。恐らく先程無意識に応星の手を掴んでいたことが原因なのだろう。どこにも行かない、を絶やすことなく続けてくれる応星に、じわりと目頭が熱くなるのを感じた。
 ――――彼は優しい。誰に対しても。分け隔てない態度が、時折傲慢になるそのギャップが、好意を呼び寄せるものであるとは知らずに。だからきっと、彼は素敵な女性と出会い、円満な家庭を築くのだろうと想像をする。犬を飼うだろうか。子供は二人くらいで、お互いの血を受け継いだ顔立ちをしているに違いない。――――そしてもちろん、その隣に自分はいないのだ。

「…………熱が出てると寂しいよな。泣くなよ、一緒にいてやるから」

 そう告げられて、丹楓は初めて目尻から涙が溢れていることを知った。それに気が付いた応星が、指先で拭いながら「表情も変えずに泣くなんて器用な奴」と口を溢す。ぐっと涙を拭ってから、少しだけかさついた指先が離れていくのを惜しんで、ふと応星が勘違いをしていることに気が付いた。
 丹楓が寂しいと思っているのは、何も熱が出ているからではない。今この場にいてくれている応星が、いつか友情よりも愛情を取ると思っているからだ。彼は丹楓が知らない家庭環境の中にいる。そこで学び、得たものを自分の将来に活かしていけると、思っているからだ。
 彼とは異なり、冷え切った家にいる丹楓は、その応星の未来について行ける気がしなかった。
 ――――どうしてそこまで応星のことを考えてしまうのか、丹楓自身は理解できなかった。ただ、目の前にいてくれている親友の、輝かしい未来を想像しただけで胸がきゅうっと締まる息苦しさを感じてしまう。彼に好かれている者はこんな風に献身的な看病も受けられるのだと思うと――――、息が詰まった。

 それをどう捉えたのか分からない。

 応星は再び丹楓の頭を撫でて、「昨日は悪かった」と徐に謝罪を口にする。
 彼は丹楓の体の事情から、いい境遇ではないことを知っている。一目見てこの原因が家庭にあるのだとも見抜いてきた。――――その上で突然、一般的な家庭の風景を目の当たりにしてしまい、驚かせてしまったことを悔いていた。お前のこと全然気にしてやれなかったな、と頭をそっと撫でながら申し訳なさそうな顔をするものだから、丹楓は徐に応星の手に自分の手を伸ばす。

 応星の所為ではない。これは、誰の所為でもない。――――そう言いたかったけれど、どうしても言葉は出なくて。代わりに飽きずに応星の顔を見つめ返すことしかできなかった。

 応星は丹楓が自分の手を握ってきたことに少しだけ驚く素振りを見せてから、苦笑を洩らして「泣くなって」とまた手を伸ばしてくる。片手は丹楓に捕まっている所為で、彼は体勢を変えざるを得なかった。
 ギシ、とベッドが微かに軋む音を立てる。ベッドに腰をかけていたが、応星は床に膝を突いて丹楓と目線を合わせる。応星が悪いわけではないのに、彼はずっと困ったように微笑んだまま丹楓の頭を、頬をちょこちょこと撫でていた。