少しだけくすぐったいような。心地がいいような。そのどちらかの感覚に揺れ動きながら手を堪能していること数分。応星が漸く安心したかのように「泣き止んだな」と言った。彼は丹楓の視線に晒されていると知っていても、目を逸らす素振りも見せなかった。ただ、絶えず頭を撫でてくるものだから、それに安心感がふつふつと掻き立てられる。
そうして漸く、背後から忍び寄るように眠気が押し寄せてきて。丹楓は自分の瞼が重くなったような気がした。
「眠いか? 寝るまでいてやるから、寝てもいいぞ」
丹楓の様子に気が付いた応星が、素直に欲求に従うようにと勧めてくる。寝たのを見たら片付けをするからと言っていて、穏やかな表情のまま丹楓が眠るのを待っていた。
――――しかし、それを聞いて素直に眠らないのが、今の丹楓と言うもの。応星の言葉を聞くや否や、丹楓は応星の手を握っている自分の手に、小さく力を込める。眠ったら彼はいなくなってしまう。――――それが、不思議と永遠のもののように思えて恐ろしかった。まるで子供のような心情に、応星どころか丹楓自身が滑稽だと思ってしまうほどだ。
だが、彼はそれを笑うこともなく、丹楓が強く握ってくる手を軽く撫でながら「大丈夫だって」と言う。離れないとは言い難いけれど、予定が終われば丹楓の傍にいるからと言って、彼の説得を試みる。さすがに眠ったら後片付けくらいはしなきゃならないけれど、それが終わったらまたここに来ると言って、丹楓の様子を窺った。
丹楓は話す気力もないのか、それとも眠いだけか。応星の言葉を聞いても返事をすることはない。――――しかし、仕方がないと言いたげに握っていた手に込めている力を抜いて、応星の手を離す。
それに彼は「今は離さなくてもよかったんだけどな」なんて言って、紅潮している丹楓の頬に手を添えた。
「代われたらよかったのに」
――――と、応星が突然静かに呟く。
「代わってやれたらお前はこんなに心細くなってなかった……そうだろ?」
実際は代わることなんてできないけれど。それでも気休めになれるのなら、と少しの雑談をして、丹楓の気を紛らせる。もう一時間は彼の時間を奪ってしまっていることに気が付いている丹楓は、それでも応星を手放せない状況に心底嫌気が差した。
彼には好いている者がいる――――これは紛れもない事実であり、恐らく今も彼の心にはそれがいるのだ。到底自分のようにただの友人が引き留めて、彼の時間を奪うことなど許されやしない。ましてや彼は、物作りをするための時間を捨ててまでここにいるのだ。日頃から夢を語られる丹楓は、彼に対する罪悪感を覚えずにはいられなかった。
その上、風邪は空気からも感染してしまう。これ以上応星が丹楓の近くにいれば、空気を通して応星に移しかねない。そうなってしまったとき、丹楓はどうしようもない後悔の念に苛まれるだろう。
応星を帰すべきだ。
――――かろうじて残っている理性を奮い立たせ、丹楓はそうっと頬に手を添えている応星の手を離す。「帰らないと、移る」と言葉を振り絞ってから、突然の発声に驚いた体が咳をし始めるので、咄嗟に口元を隠した。ゴホゴホと噎せていると、応星は離れるどころか丹楓の背をさすって、「そりゃいいな」なんて言う。
「移してみるか」
「……何、を」
間髪入れずに放たれる肯定的な言葉に、丹楓が目を白黒させていると、応星は言葉を続けた。
「よく言うだろ? 風邪を移せば治るってさ。迷信とかそういうものだろうけど……そうだな……移すっていうならキスのひとつでもしてみるか?」
応星は場を和ませる気持ちで冗談のひとつとしてそれを言ったのだろう。カラカラと笑いながら「そんなんでお前が本当に良くなるならな」と続けて言う様がそれを確かに裏付けている。
本来ならば丹楓も彼に続くよう、普段通りに鼻で笑えればよかったのだろう。下らないことを言っていると一蹴して、背中を叩くくらいのことをしてやれればよかったのかもしれない。
――――しかし、今の丹楓は酷く弱り切っている状態だった。どうしようもなく不安で、今この場にいる応星が離れたとき、寂しさでどうにかなってしまうのではないか、と思考すらもままならない状態だった。
――――だから、寂しさに身を任せるようにもう一度、応星の手に自分の手を伸ばす。
「ま、冗談――――」
冗談だけど、そう言葉を続けようとした応星が、ふと丹楓の手に気が付いて言葉を切った。藤紫色の瞳が丸々としていて、驚くように丹楓を見つめてくる。先程の丹楓と同じように目を白黒とさせていて、一度だけそっと視線を逸らした。少しだけバツが悪そうに瞳が左右に振れる。彼もまた、丹楓も笑って冗談だとでも言ってくれるだろうと思っていたのだろうか。僅かに眉間にシワを寄せて、くしゃくしゃと自分の頭を掻いている。
――――やがて彼は覚悟を決めたように溜め息をひとつ。自分が言い出した手前、引くに引けなくなったのだろう。
ベッドの端に手を置いてから立ち上がって、丹楓の横に手を置き直す。ギ、と軋むベッドが、応星と丹楓の二人分の体重に何とか耐えようとしている。丹楓を押し倒すような形を取った応星は、「後悔するなよ」と真剣な面持ちで呟いた。
その言葉が丹楓自身に言ったものなのか、それとも応星自身に言ったものなのかは定かではない。ただ、丹楓はぼうっと応星を見上げていて、何度目かの頬に添えられる応星の手を受け入れる。
彼は丹楓の唇を確かめるように、親指の腹でそうっとなぞった。抵抗すればすぐにでもやめてやるぞ、と言わんばかりの予備動作に、丹楓は一度だけ瞬きをする。心なしか、応星の頬がほんのり赤みがかっているような気がした。
そんな顔をするくらいならやめればいいのに、と丹楓は思う。思うけれど、制止の声を上げる気は少しもなかった。ただ、自分には抵抗する意思はないことを見せつけるように、目を閉じる。そうして、応星がどのような行動を取ろうが何だろうが、咎めることはしないことを示した。
――――単に欲しかっただけだ。いつの日か自分の知らない家庭を築くであろう応星の、忘れられない思い出を。彼と過ごした日はどれもがキラキラと輝いていて、どれもがいい思い出だが。その中で一番忘れられなくて、且つ応星自身の記憶にも刻みつけられそうな出来事を。
――――と言ってしまえれば聞こえはいいだろう。丹楓は単純に少しだけ、本当に少しだけ羨ましく思えてしまったのだ。一般家庭と何ら変わりのない家庭を築ける応星が、どうしようもなく羨ましかった。だから、一生涯記憶に刻みつけてやるつもりでそれを欲しがった。
目を閉じること数秒。暗闇の中で半分ほど意識を手放しかけていると、ふと自分の唇に柔らかいものが微かに押し当てられる感触がした。それは確かめるように一度、触れるだけで。その後も丹楓が何もしないと分かるや否や、深く――――深く吸い付いてきた。ちゅ、と意図しない音が聞こえると、頬に添えられている応星の手が微かに強張る。彼も緊張しているのか、少しだけ震えているような気がした。
――――初めての口付けは、朦朧とした意識の中で行われた。その所為もあって記憶に刻みつけるはずの思い出は朧気で、必死に手で手繰り寄せなければすぐにでも忘れてしまいそうなほど脆かった。だからそのあとに見た応星の表情など欠片も覚えていない。彼が何を言ったのかも、そのあとにどうしたのかも、記憶にはなかった。
ただ――――、気晴らしに読んだ小説に書いてあった「初めてのキスはレモンの味」なんてものは嘘だと分かったし、男の唇も柔らかいものなのだと分かった。
たったそれだけ。それだけを記憶に刻みつけて、次に目を覚ましたときには、応星の姿はなかった。代わりに学校から帰ってきたらしい丹恒が丹楓の部屋で本を読んでいて、丹楓が目を覚ましたことに気が付くと、本を読むときには掛けているらしい黒縁眼鏡を外して「起きたか」と言う。何の気なしにちらりと時計に目を向けると、時刻は既に夕方へと移り変わっていた。
丹恒曰く応星は丹楓が寝入ったあと、後片付けをしてくれたのだという。片付けをしたあとも応星は律儀に丹楓の傍に寄り添っていて、丹恒が帰宅するまで飽きることなく丹楓の寝顔を眺めていたようだ。――――幸い、彼の話を聞くに彼女の帰宅はなかったようで、丹楓はほっと安堵の息を吐く。
そのまま丹恒に渡された体温計で体温を測り、今朝よりは幾分落ち着いた温度を見て丹恒も少しは安心したようだ。明日にはまた熱が下がっていると思う、と言って、体温計の電源を落とす。ピッと小さな機械音を聞き届けてから、応星が買っておいてくれた冷えピタを貼り直してくれて、彼は「夕飯の支度をしてくる」と言った。
「…………丹恒」
踵を返し、部屋を出て行こうとする弟の背に声を掛け、呼び止める。
丹恒は律儀にピタリと足を止めたあと、丹楓の方へと振り返って小首を傾げた。丹楓が何かを強請ると思っているのか、「何か欲しいものがあるのか」と問いかけてくる。
丹楓はその問いに「いや、」と言ってから言葉を続けた。
「もう一度、『楓兄』と、……呼んでみないか……?」
そう小さく呟き、丹楓は弟の様子を窺った。歳を重ねる毎にすっかり落ち着いた丹恒は、知らない間に呼び方さえも変えてしまったのだ。その成長が嬉しくもあるが、やはり恋しいこともある。小さく、自分に懐いてきていたあの頃が酷く懐かしくて、丹楓は少しだけ提案をした。
――――もちろん、断られているとは思っている。
彼は当然のように――しかし、少しだけ恥ずかしそうに、気のせいかと思うほど微かに頬を紅潮させてから――「絶対に言わない」と言って、そのまま部屋を出て行った。
バタン、と半ば投げやりに閉めたような扉の音に、丹楓の肩が微かに震える。なるほど、これが反抗期か――――と思いながら、再び眠るべくゆっくりと瞼を下ろした。
結局、丹楓の熱が下がり元気を取り戻しても、応星から「熱が出た」という報告は来なかった。