後に平常心を取り戻したノーチェは、手品にも似た終焉の行動をじっと眺めていた。
男は長い自分のコートを絨毯の汚れにかぶせると、数秒待つ。その後に勢いよく剥がすと、赤黒い渋の上に広がっていた黒いシミが、あっという間に消えてなくなった。
普段行うとは思えない終焉の行動に、何気なく拍手を鳴らす。すると、終焉はソファーに座るノーチェを見るや否や微かに微笑んで、コートをくるくると丸めた。手品のようなあの行動があくまでノーチェを元気付けるためだけに行われたということを、終焉が洗濯機を回しに行くときに彼は気が付いた。
いつ何が起こってもいいようにスペアをどこにでも置いているのか。脱衣所にある洗濯機を回して帰ってきた男の服装は、普段と変わらない汚れのないシャツとベストだった。
「落ち着いたようでよかった」終焉は言葉を紡ぎながら、珍しくノーチェの隣へと腰を下ろす。柔らかな素材をふんだんに使ったソファーが深く沈んだ。椅子もいいがこちらも悪くない、なんて比べるような感想に、ノーチェはほっと胸を撫で下ろす。
見たところ終焉には傷のひとつも見当たらない。刻まれていた首元の赤い痣も、今では綺麗さっぱりなくなっている。
あの事に触れてもいいのか。彼が迷っていると、意を察したように終焉がぽつりと呟いた。
「今日は激しい方だった。この古傷が開くとは思わなかったよ」
淡々としている言葉の端に、妙な感情が含まれているような声色。終焉はどこか愛しげに胸元に手を当てて、服の上から傷をなぞる。その口振りからして、普段は苦しくもなく、傷が開くこともなかったのだと予想ができた。
激化してしまったのはノーチェが切っ掛けとでも言いたいのだろうか――。
「…………ごめんなさい」
あまりの罪悪感からか、彼は小さく謝罪の言葉を口にした。
隣に座る終焉は横目でノーチェの顔を見る。その表情は悲しそうな、寂しそうな――初めて出会った頃のような無表情さがそこにはあった。ぼんやりとしてどこを見つめているのかも分からない。何かを考えているようで、何も考えていないような、はっきりとしない表情だ。
その表情が嫌で、男は「気にしないでくれ」と言葉を紡ぐ。あくまでこれは自分が招いた結果だと言って、ノーチェの顔にそっと両手で包んだ。
冷たい、氷のような手のひらが、彼の頬の熱を奪う。
「……もうどこも痛くないの……?」
試しに問い掛ければ、終焉がまっすぐノーチェを見ながら当たり前だと言った。
「私は断ろうと思えば断れたんだ。わざわざ目の前で死んだのは単なるエゴに過ぎないよ」
だから気にしないでくれ。そう言うと終焉はノーチェの頬をいじる。捏ねるように、肌触りが良くなった頬を揉んで、僅かに寂しそうに微笑んだ。
ノーチェが頼み込まなければ死ぬ筈がなかったのに、死んだのはあくまで自分の所為だと男は言う。痛みの激しさも、死ぬまでの苦しみも、全ては自分がそれほどまでに幸せだと思ったからだ、と。
何故終焉が幸せだと思うことによって死んでしまうのか。彼にはもう聞く勇気もなかった。
終焉がノーチェの頬をこねて、摘まんでを繰り返すうちに、ノーチェの中で緊張の糸が解れていくのが分かる。温かな手のひら――ではないが、無表情ながらも必死にノーチェの気持ちを解してやろう、という気遣いが伝わるのだ。
その終焉に応えてか――彼の表情が微かに和らぐ。もう大丈夫だと言いたげにちらりと終焉を見上げれば、意を察したように男は彼の頭を撫で回した後、手を離した。
頬を撫で回されたお陰だろう。血の巡りが良くなったように頬が暖まる。ほくほくと。何気なく手のひらを添えてみれば熱を感じた。
終焉は特別死ぬことに関して何も思っていないようだ。他人に打ち明けたのはこれが初めてだな、と言っていたが、その顔に戸惑いの色はない。相も変わらず無表情でありながらも、仄かに優しさを兼ね備えている妙な顔だ。その顔で胸元に手を添えるのだから、酷く気にかけてしまう。
その傷とノーチェには何かしらの関係があるのではないだろうか――。
「……なあ」
「ん?」
ほんの少し、小さく言葉を紡いだつもりだが、終焉の耳には届いてしまったようだ。彼がぽつりと言葉を溢した後、終焉がノーチェの顔を覗き見る。先程彼が取り乱したお陰だろうか――普段よりも遥かに優しい顔付きで、「どうした」と終焉は言った。
「アンタは俺のこと、どこまで知ってんの……?」
屋敷に初めて来た日。終焉はノーチェのことを知っていると言ったのだ。好き嫌いも、一族のことも、二種類の人間がいることも。
初めこそは気持ち悪いと口走ったが、その情報を可笑しなことに使うわけでなければ、言及するようなこともない。料理を振る舞うことに好みを把握したり、力仕事を任せないようにすることを意図的に避けさせたりする程度のものだ。
先日見せてしまった失態も、男は何も言うことはない。寧ろ気が利かなくてすまない、とさえ言ってくるのだ。
そんな終焉に対して、ノーチェは男のことを何ひとつ知らなかった。
――当然だろう、初めて会った人間でしかないのだから。
だからだろうか。少しずつ絆されていく気持ちが、身の内を明かそうとする意思を突き動かすのだ。
「……そうだな……貴方が奴隷になってしまったこと以外は全て把握している」
言葉を探したのだろう。一息置いた後に呟かれた言葉に、ノーチェは胸の奥が騒ぐようなむず痒さを覚える。無意識に「ああ、まただ」と思うものの、その原因はまるで分からない。
リーリエやヴェルダリアのときもそうだ。こちらは知らないのに、向こうはこちらを知っているような口振りが、ノーチェの何かを刺激し続けるのだ。
――不意にそれをどうにかして、聞き出したい衝動に駆られた。
「……俺……俺、さ……小さい頃は殺せたんだ、色んなもの……」
意を決して呟いた言葉はあまりにも小さく、ノーチェはゆっくりと俯いてしまう。自分のことを話すのは酷く苦手で、喉の奥でつっかえるような違和感が彼の意思を蝕んだ。
奴隷になる前の出来事を思い出すのは彼にとって良いものか、悪いのもなのかは分からない。
それでも話そうと思い至ったのは、代わりに終焉から話を聞き出そうという思いによるものだろう。
男は「無理なんてしなくてもいいよ」と柔らかく彼に問い掛けたが、制止を振り切ってノーチェは話を続けた。
殺せて当然の環境下にいた。父も母も、生粋の殺人鬼だったからだ。〝ニュクスの遣い〟の中で父は物理に特化していて、母は魔法に特化している。その両親から産まれたノーチェは、父と同じように物理に特化していた。
だからといって魔法が扱えないわけではないし、物理にものを言わせるわけでもない。短刀や刃のついたものなら何だって扱えるようにした。父が持ち合わせていた武器を、彼が継ぐことになっていたからだ。
小さな頃から扱いに長けていたこともあり、彼はすぐに人間を殺めることができた。
狙うべき相手は基本的に奴隷商人――ルフランでは一口で〝商人〟と括られている人間達だ。
〝ニュクスの遣い〟の一族は、持ち合わせている力が使いようによっては悪用できるからこそ、奴隷一族として一部の人間に知られている。物理に特化していれば体に見合わない重労働を。魔法に特化していれば魔力の貯蓄へ回されるのだ。
その事実を知っているのが主に奴隷商人達であって、同じ轍を踏まないよう、事情を知る人間達を皆殺しにするのが彼の目的だった。
それがノーチェの使命だから、――ヴランシュ家の使命だから。
人間を殺めることに罪悪感は不思議となかった。相手が憎むべき人種だからか、殺人鬼の間に産まれたからなのかは分からない。――だが、難なく殺せてしまったという事実は、ノーチェの中に傲りを生んだ。
呆気ない最期だった。生きているだけあって、傷をつければすぐにでも息絶えてしまう。奴隷商人達が持つ不思議な首輪にさえ気を付けていればなんてことはない。このままいけば捕まることもなく、親の跡も十分に継げるだろう。
――何より、戦うことはとても楽しかった。
だからこそノーチェは刃を持つことを選んだ。奴隷商人を殺す間に自分より強い者に会えれば、無理にでも手合わせをしてもらうつもりだった。母の遊び癖が彼にも受け継がれたように、思春期の頃から女で欲を発散させながら、その日を待つつもりだった。
そんな日常が、ある日音を立てて崩れていったのだ。
「殺せなく、なったんだ……急に。刃物を持って、対峙したときだった……」
あのときの感覚を、ノーチェはいつまでも忘れることはなかった。
言葉を切って終焉の動向を探ったが、男は彼に催促することもない。ただ黙ってノーチェの話に耳を立て、彼を見つめている。
言及はしない。催促もない。話を聞いているかもどうか分からないほどの無表情なのだが、今日の彼にとってそれは不思議と心地が良かった。何があってもこの人は自分を受け止めるだろうな、という感覚が、胸に募る。
直後の感覚を彼は思い出したくもなかったが、記憶の海から網を引くように、引きずり出す。
「――三年前、いつものように奴隷商人と対峙した……そのとき、急に見慣れない景色が映り込むようになった」
「景色?」
ひとつひとつ丁寧に、捕まる直前の出来事を語る。すると、唐突に終焉が不思議そうな声色でノーチェに訊ねてきた。彼はそれを景色として言うべきか、それとも後に見る夢として話すべきか迷う。
――しかし、どちらも同じことだと思って、男の問いに答えてやった。
「死んでるんだ、人が。それだけなら俺だってこうなってないんだけど……その光景を見たとき、初めて足が竦んだ……怖かったんだ」
時々それを夢にも見る。
ゆっくり、思い出を語る口調で呟くが、胸の奥でざわめく感覚が時間を追う毎に量を増していくのが分かる。
足が竦み武器を手放した彼は、気が付けば奴隷商人が保有する特殊な魔法が施された首輪をつけられてしまった。その首輪は遣いの意欲を奪うようなもので、抵抗しようにもそんな気持ちが芽生えなくなってくるのだ。
それでも恐ろしく思えていたのは、一時的に見えてしまった見慣れない景色の方だった。
タイルの上に転がる黒い姿。雨に晒されて広がる黒い血溜まりのような液体。自分の記憶にはない筈なのに、まるで体が「憶えている」と言わんばかりに動くことを拒んでしまう。
それを自分が殺してしまったのだ、と思うことこそが――何よりも恐ろしかった。
終焉はそれを僅かに訝しげな様子で聞いていた。ちらと目配せをするノーチェの瞳は、その小さな変化を逃さない。ぴくりと眉が動き、ほんの少し視線がノーチェの顔から足元へと落ちる。確証的なものであるとは思えないが、彼は終焉が何かを知っているのだと思えた。
男は何かを知っている。彼の知らない何かを。それを知ることができれば、奇妙な違和感を拭えるような気がして、ノーチェは終焉の服に手を伸ばした。
「何……」
驚いたように男が声を洩らす。しかし、彼はそれを振り切って言葉を紡いだ。
「アンタが死んだのを見たときに、忘れてたその夢を思い出したんだ。黒い血も、黒い髪も……それを見たときの怖さも全部、同じだ」
なあ、アンタ。俺と前会ったことあるのか。
――そう言葉を紡いだとき、ノーチェの頭が強く痛み始めた。こめかみから来るような、偏頭痛にも似た嫌な痛みだ。目元まで痛んだような気がして、堪らず彼は目を伏せる。彼の異変に気が付いた終焉は「どうした」と手を伸ばしたが、その手を掴み、ノーチェは再び男を見た。
驚くように見開いた目の奥に、戸惑うような色が見え隠れしている。普段からノーチェが抵抗もしない大人しい人間だからだろうか。ぐっと様子を窺うような瞳に、終焉が僅かに引いた。
「アンタ、俺の好み知ってんだろ……」
迫るノーチェに対し、終焉が少しずつ慌てるような顔色を見せる。
彼の好みは彼の友人か家族くらいしか認識がない。それなのに会うのが初めてだった終焉が、熟知しているのは可笑しな話だ。
「特定の人間しか知らない、一族のことだってそうだ……」
「ノーチェ」
一族のことを知っているのは同族と、基本的に奴隷商人――彼が打ち明けても平気だと思った人間のみだ。それに対し、終焉は「ノーチェが奴隷に至るようになったこと以外は知っている」と告げている。
つまり目の前の男は何らかの理由により、〝ニュクスの遣い〟が奴隷一族であるということを知っているのだ。
一族間で自分とは異なった真逆の色である黒い髪の持ち主について、特別これといった話は聞いたことがない。恐らく男は「一族の誰か」と面識があるのではなく、ノーチェ本人のことだけを十分に知っているのだろう。
裏付ける要因はないが、もしかすると本当にノーチェと終焉は、どこかで会ったのかもしれない――。
そんな思いからノーチェは迫る言葉を一層強くした。答えてくれ、と迫る度に少しずつ、少しずつ頭の痛みが増していく。初めは針を刺すようなものが一変して、頭を殴られているような痛みに変貌した。思わず表情が曇ってしまうのを、終焉は酷く心配しているのだろう。
それでも彼は終焉に迫るのを止められなかった。知りたいという好奇心と、胸の突っ掛かりをどうにかしたかったのだ。
「ノーチェ、落ち着いてくれ」
なんて宥めようとする終焉の言葉にも耳を貸さず、ノーチェは「俺とアンタは何か関係あったのか」と問う。
「一族の奴は、基本的に、信頼する奴以外には言わない筈だ。それなのに、アンタがうちの事を知ってんのは、何か、何かある筈で」
「……頼むから落ち着いてくれ……」
言葉を紡げば紡ぐほど、酷い頭痛が彼を蝕む。徐々に吐き気を催してきて、頭が割れてしまうのではないかという錯覚にすら陥る。頭が痛い、割れそうだ――なんて言葉を飲み下し、彼は痛みによって潤み始めた視界で終焉をひたすら見上げた。
困ったような、悲しそうな。心配そうな――色々な色が潤む視界に映り込む。そんな表情をする理由もきっとこの違和感に関係しているのだろう、と思って彼は頭の中で鐘でも打ち鳴らされているような頭痛を抑え込む。
寝込みたくなる衝動を抑え込み、ノーチェはもう一度終焉に言った。何らかの関係があったのじゃないかと。
「たとえば、例えば、俺とアンタは、何か……何か、親密な関係で――」
「――煩い黙れ!」
――そう言葉を紡いだ瞬間、ノーチェの視界が塞がれた。
終焉の手のひらが目元を覆い隠すように当てられたのだと気が付くと同時、あれほど痛みを訴えていた筈の頭が鎮まる。目の奥の痛みも、喉元に来る吐き気も、波が引くように無くなったのだ。
冷たい手のひらに鷲掴まれるような感覚。開いた指先から見える終焉の金の瞳が、強く見開かれる。怒りを灯したように見える輝きに、彼の背筋に悪寒が走る。
「そんなもの、忘れてしまえ……!」
獣が大きく口を開き、驚くノーチェの頭を一口で食らったような錯覚が、彼の意識を奪い去った。