うだるような微睡みへ

 ――無抵抗な体に伸びてきた手が、いやらしく体を這うものだから、思わず唸り、その手を弾き返したかった。
 けれど、意欲もない体ではそれすらもままならず、ただほんの少し、頭の片隅で「嫌だ」と思うだけで終わる。そうやって失った貞操を、まるで自分以外のもののように、他人のように、「なくなったんだな」と思っていたのだ。

「――……ッ!」

 ハッと目を覚まし、ノーチェは荒い呼吸を繰り返す。胸の奥で強く鳴り続ける鼓動と共に、気分の悪さすらも覚えてしまって、数回寝返りを打った。頭や顔を始めとする体は汗にまみれていて、べたつく肌が酷く心地が悪い。その所為も相まってか――、嫌な夢を見たものだと彼は咳を洩らす。

 布団を剥げば寒さが身体中を襲い、布団をかぶれば暑さが全身を包む。どうしようもないほど対処の仕様もない現状に、嫌気が差しながら、ノーチェは寝具から這い出た。
 重く、熱く、気怠い体を両腕で支えるが、ふらりと前方へと倒れてしまう。寝具の端から手が滑り落ちて、ノーチェはみっともなく床へと落ちた。
 力が入らない体が叩き付けられてしまい、床に打ち付けた肩や腕が鈍い痛みを訴える。――それでも頭の奥から響いてくる頭痛には、敵わなかった。

 しかし、痛いものは痛い。

 ノーチェは痛む肩を擦りながら、ゆっくりと体を起こす。相変わらずの重みと、気怠さが全身を駆け巡っていて、気分が悪いことこの上ない。胃の中に何かを押し込んだ記憶などないというのにも拘わらず、胃の中を掻き回されるような吐き気を覚えた。

 生きている間にこんなにも体調が悪くなったことがあっただろうか。

 茹だるような熱さの中で、ぼんやりと彼は目下の床を見つめる。冬独特な静けさの中では、赤黒い絨毯が普段よりも暗く見えているのは気のせいだろう。体を起こした拍子に俯いていると、吐き気がどんどん押し寄せてくる気がした。
 ノーチェは咄嗟に顔を上げると、目眩に襲われる。ぐらりと建物が倒れるように揺れて、頭が左右に揺れている気さえした。この必要最低限の家具しか揃っていないような部屋に、普段ならば特別不満は抱かないのだが――、今日ばかりは少しだけ物足りなさを覚えてしまう。

 ――用事を済ませたら部屋に居てくれる筈の終焉が、彼の目の前にはいなかった。

 「…………いないじゃん」なんて小さく愚痴を溢して、ノーチェはゆっくりと床へ体を倒す。起きて目眩や吐き気に襲われるよりも、倒れてぼうっとする方が気分はいい方だと気が付いたからだ。じっとしている分、背中を這いずる悪寒は絶え間なく彼を襲うが、嘔吐するよりはマシだろうと、きゅっと体を丸くする。
 自分が寝ていたことは理解しているが、目を覚ました時間が一体何時なのか、彼には分からない。終焉やリーリエが部屋を訪れた時間から数時間経っているのか、それとも数分しか経っていないのか。ろくに時計もない部屋では、時間の感覚を掴めなかった。

 寒いような、熱いような。矛盾した体を抱えたまま、ノーチェは小さく呻く――。

「――ノーチェ」
「…………」

 ――ふと気が付くと、部屋の扉が開いていた。
 いくら聞いたとしてもそれに感情がこもっているとは思えない言葉に、ノーチェはゆっくりと顔を向ける。声色と、屋敷内の現状から誰がいるのかなど明白で、静かに駆け寄ってくる終焉にノーチェは手を伸ばす。

「どうした? 先程落ちた音がしたが、痛いところは……?」

 自分に伸びてきた手を咄嗟に掴みながら、終焉は彼の体を起こした。
 思うよりも遥かに調子が悪いのか、ノーチェは起こしてもらった体を終焉に預けたまま、小さく愚痴のように洩らす。「ここにいるって言った……」なんて言って、男の服を掴むと、顔を終焉の胴体に押し付けた。

 あまりにもノーチェらしからぬ言動に終焉は驚きながらも、すまないと謝って頭を撫でる。何をしていたのか、普段の手袋は外れたまま。黒い爪が目立つ白い手が頭を撫でることに、ノーチェは満足感を抱いた。自分が自分ではないような感覚に苛まれながらも、この状況に満足しているのは確かだ。

 先程落ちてしまった額に乗っていたタオルなんてものよりも、終焉の手の方が冷たく感じられる。体温がないだとか、ただ冷たいだけのそれではない。いくらノーチェが体をすり寄らせていようが、彼の熱を奪うばかりで、終焉自身は少しも温まりはしなかった。
 ノーチェは終焉の言葉を右から左へと受け流し、比較的ゆっくりと呼吸を繰り返す。体は重く、気怠さも未だ健在だが、部屋に誰かが一人でもいるだけで、気持ちはほんのり軽くなった気がした。

「寝ていたので、邪魔はできないと……タオルよりも氷嚢がいいと思ったしな。持ってきたんだが……」

 裏目に出てしまっただろうか。そう言って片手に携えた氷嚢をノーチェの頬に押し当てる。まるで終焉の手のように冷たい温度の、ざらついた布の感触が頬を滑る。ひやりとしたそれがあまりにも心地好くて、ノーチェは「ん」と呟きながらそれを受け入れた。

 ほんの少し、――いや、かなり距離が縮まった現状に、終焉どころかノーチェも確かに違和感を覚える。
 しかし、弱りに弱ってしまっているほど、妙に人肌が恋しく感じるのは、人間としての性か。頭の片隅では理解をしている筈なのに、ノーチェの体は一向に終焉から離れることはなかった。

 ただ、甘えるようにぐっと袖を掴むのだ。

 そうして改めて知る終焉の異常性に、彼は意識を向けないようにしていた。異様に冷たい体も、少しの心音だって聞こえないことも。死から舞い戻ってくることが、「化け物」たる所以であることも、
 目を閉じ、耳を塞ぎ、それを受け入れないよう必死だった。

 ――そんなことをしていると、不意に終焉が撫でる手を止めて、ノーチェの体を抱え始める。それが彼を寝具へと戻すための行動だと気が付いて、彼は大人しく終焉の腕に収まっていた。
 成人済みの体をいとも容易く抱えて、ノーチェが使っていた寝具に寝かせる。いくら奴隷であるとはいえ、ノーチェの体つきはいくらか戻ってきた筈だ。それを軽々と持ち上げる終焉に対し、彼は「結構力があるんだな」なんて考えて、大人しく布団の中へと戻る。
 ――直後に何気なく、「べたべたする」と呟いてみれば、男が小さく口を開いた。

「……拭くものを持ってこよう。ついでに着替えもだ」

 ――心なしか、どこか気持ちが落ち込んでいるような声色をしている。
 だが、終焉の顔はほんの少しの笑みを浮かべているだけで、悲しげな顔をしているわけではない。自分の聞き間違いかと思い、ノーチェは気に留めないよう小さく目を逸らした。そのあとに「早く戻ってくる?」なんて訊けば、終焉は首を縦に振る。

「当然だとも。愛すべき貴方が望むのなら」

 聞いているだけで恥ずかしさを覚えてしまうような言葉を、飄々とした態度で唇から紡ぐようすも、変わりはない。
 終焉のその答えに彼は満足して、分かった、と口を溢す。男は約束を忘れるような性格ではない。加えて、裏切りを働くような人格にも思えない。目を覚ましたときに終焉がいなかったのは、単純にタイミングが悪かっただけのことなのだ。

 ノーチェの傍を離れる際に、ついでと言わんばかりに終焉は彼に「食欲は?」と問い掛ける。なるべく口にしやすいものを作ったつもりだと男は言い、ノーチェの反応を窺う。
 家主本人からすれば少しでも口にしてもらいたい状況ではあるのだろうが、今のノーチェには食欲といったものが湧いている兆しはない。
 ノーチェは終焉の問い掛けに小さく首を左右に振った。男の手料理は、それはそれは魅力的なものではあるが、体調が悪い今となっては話は別だ。申し訳ない気持ちを込めながら「ない」と小さく呟いてみれば、男は寂しそうに「そうか」と言う。

「あ……あの! よ、良くなったら……食べるから……あの」

 その表情があまりにも悲しく思えて、彼は咄嗟に布団を払いながら声を張った。その直後、今まで塞き止められていた咳が溢れ始め、ノーチェは口許を手で覆い隠す。けほけほと、朝よりもいくらか落ち着いてはいるが、状況が悪いことは変わらなかった。

 それでも彼は声を張って、男の背に語りかけた。先程見掛けた終焉の顔は、道端に捨てられてしまった子犬のそれによく似ている。放っておいても問題はない筈なのに、良心の呵責に耐えかねて「良くなったら食べる」だなんて宣った。
 背を向けていた終焉が、ノーチェの言葉によって顔を向ける。そこに驚きだの、悲しみだのといった表情は少しも浮かんではいない。まるで先程ノーチェが感じたものは錯覚だと言わんばかりの無表情で――、彼はぐっと息を詰まらせた。

「そう焦らなくても処分はしないさ。ただ……」
「ただ……?」
「……リーリエがどれだけ食うか、だな……」

 ほんのり笑いを浮かべて終焉はノーチェが懸念していた言葉を継げる。捨てはしないが、なくならないとは限らない。元より終焉はノーチェと、ついでにリーリエの分の食事しか作っていないのだ。いくら二人分とはいえ、平らげられない量ではない。
 何よりリーリエは終焉の手料理をいたく気に入っている節がある。「美味しい美味しい」と言って、気が付けばノーチェの分さえも完食してしまいかねないのだ。

 その懸念点を告げると、ノーチェは僅かに眉を顰め、首を左右に振った。
 リーリエほどではない――と自負している――が、彼もまた終焉の手料理を気に入っている節がある。あくまで自分のために用意されたものが、他人の手によってなくなってしまった暁には、珍しく不満を隠しきれないだろう。
 「それはいや」――そう何気なく呟いてみれば、男は口許を緩め、「分かった」と言った。

「ノーチェが口にする分程度は残すようにするよ」