お祭り騒ぎとりんご飴

 祭りは一大イベントなのだろうか――一度屋敷に〝商人〟が訪れて以来、まるで脅威のない生活にノーチェは空を仰ぎながらぼんやりとする。夏は相変わらず終焉の睡眠の邪魔をするようで、日中男は暇を見付けると何かに寄り掛かって眠りに就くのを多く見るようになった。その度にノーチェは終焉の服の裾を摘まんでは引っ張ってみる。すると、男はゆっくりと目を覚ますのだ。

 眠いなら寝たらいいといくら言おうとも終焉は首を縦には振らなかった。ただ「気にするな」の一点張りで、変わらず家事をこなし続けている。その様子にノーチェも深く追及することはなかったが、彼は「眠いなら寝たらいいのに」と小さく呟くだけのことはした。
 祭りはもう目前にまで迫ってきている。街へ買い出しに行けばその慌ただしさが身体中に犇々と伝わり、急用以外では街には赴きたくないとさえ思えるほどだ。かくいう終焉も寄り道することもなく足早に家路に就いてしまうものだから、街に居たくないと思うのはノーチェだけではないのだろう。
 毎日の恒例となった植物の水遣りを終えるべくノーチェは水道の蛇口を捻って締める。きゅっ、と心地のいい音が鳴って水が止まったのを確認すると、彼はホースをまとめ、水道に掛ける。朝日を反射して煌めいている庭を見るのはいつまでも新鮮で、思わず感嘆の息を洩らしてしまうのも最早日課だ。

 青々と茂る植物を見ていると少しでも嫌な気分が晴れるような気持ちになれる。ノーチェはぼんやりと緑に色付いている葉を見つめて、行き届いている手入れに思わず顔が綻んだ――気がした。

「ノーチェ」

 不意に呼び掛けられ、彼は徐に立ち上がる。気が付けば傍には終焉が立っていて、「朝食ができているよ」と静かに声を掛けられる。それに彼は小さく頷いて屋敷の中へ戻る終焉の背を追った。相変わらず長い髪は暑苦しいと思えるほどどこまでも暗く、透き通りさえも見せない黒に彩られている。
 暑くはないのだろうか――そんな考えも無意味だと言わんばかりに男の表情は静かで冷たく、何の感情も宿していないように見える。夏が嫌いなのだろうか、不思議と感情を読み取れない時間が長くなったようにさえ思えた。
 屋敷の中は相変わらず外よりと涼しくて居心地がいい。終焉の後を追うと薄手のカーテンが靡く客間に辿り着いた。テーブルには朝食が用意されていて、「向こうじゃないの」と思わずノーチェが呟くと、男は小さく顔を俯かせながら「たまにはいいだろう」と答える。

「日差しは嫌いだが、庭は好きなんだ」

 そう言って最早定位置である椅子に座ると、紅茶ではない見慣れない飲み物を終焉は注いでいく。香ばしく黒く独特な香りのするそれは、コーヒーと呼ばれるもので、香りからしてかなり苦いであろうそれに終焉は砂糖とミルクを混ぜるのだ。
 ノーチェも定位置であるソファーに体を沈め、終焉の手からコーヒーが注がれたマグカップをもらう。流石の彼もブラックで飲むなどということはなく、砂糖とミルクを適量注いだ。ほんのり甘く色付いたそれを口に含むが、変わらない苦味に僅かに眉を顰め彼は朝食であるサンドイッチへと手を伸ばす。
 食事にも随分と慣れたようだ。口に含む量は変わらないが、自ら進んで食べるノーチェを見て終焉は満足げに微笑みを溢し、パンケーキに手をつける。今日もまたメイプルシロップをふんだんに使用した甘ったるい朝食に、ノーチェは静かに溜め息を吐いた。「よく朝から食えるな」そう言えば終焉はパンケーキを飲み込んだ後「甘いものが好きだからな」なんて言った。
 今夜はリーリエが二人を誘った夏祭りの日だ。夕方から夜にかけて始まる規模の大きいそれは、街から離れた終焉が居る屋敷にもよく分かるほどだという。何度か準備に勤しむ街を訪れたとき、見なかった筈の飾りつけを嫌というほど目にしたときには祭りがあるのだという実感をした。
 ノーチェは勿論祭りなどという行事にも疎く、「本当に行くのか」と終焉に問えば男もまたリーリエと同じよう「当然だろう」と澄まし顔でノーチェに告げる。男は祭りの参加自体は初めてだというので「食べ物目当てだろう」とさえも彼は思っていた。――思わざるを得なかった。

「……ご馳走さまでした」

 ポツリと呟いたノーチェの言葉に終焉は小さく頷いて、毎日恒例の「どうだった」という味の問い掛けをノーチェに投げる。当然彼の回答も何ひとつ変わることなく、「美味しい」とだけ言葉を紡げば、男は安堵の息を吐くようにほう、と吐息を吐いた。

「…………別に……毎日訊かなくても、アンタの料理、普通に美味い……」

 何気なく呟かれたノーチェの言葉に終焉は僅かに顔を上げながら瞬きをして、本当か、と問う。本当だと言うように小さく頷いてやれば――、終焉はほんの少し嬉しそうに――それもどこか幼さが残るような表情で――小さく微笑んだ。

「……それならよかった…………っ」

 ――突然終焉が口許を押さえながら大きく咳き込んだ。
 ごほごほと喉の奥の何かを掻き出すような咳にノーチェは目を丸くすると、咳を終えた終焉は喉元に手を当てながら首を傾げている。気管に入って噎せてしまったのだろうかと思い、「あんまり変なこと言わない方がいいか……」なんてノーチェが一人呟く。終焉も原因がはっきりしないようで「噎せたのか……」と小さく呟いていた。

「……まあ、今日は作らないんだがな」

 気を持ち直して終焉はポツリと小さく呟く。今日の夕食は街で済ませる予定であることが気に食わないのだろう。どこかふて腐れたような表情にノーチェはぼんやりとその目を見つめていて、「別に今日だけだから……」と宥めるように言葉を洩らす。

 目前となった祭りを前に、余計な食事をしては入るものも入らないと言ったのはリーリエだ。日課となっている料理をするなと念を押された終焉は嫌々ながらもそれに従い、街に買い出しに行くことはなかった。
 そもそも祭りの準備に勤しむルフランは様々な人間で溢れ返り、買い物など落ち着いてできるような状況ではないのだ。わあわあと四方八方から沸き上がる歓声のような声に耳を塞ぎたくなるのは事実。しぶしぶ祭りの日はリーリエの意志に従って、買い物に行くのをやめた。
 終焉は食事をノーチェとのコミュニケーションの材料にしているのだろう。「……明日からはまた作るから」そう言ってちらりとノーチェに目を配らせる様は、不必要だと言われることを懸念しているようにも見て取れる。それにノーチェは首を縦に振って応えた。
 食事の概念を忘れかけていても、男の料理はやけに美味しいと思えるのは本当のことだった。屋敷に置いてもらえている以上、断るための明確な理由がなければ終焉はそれを許してはくれないだろう。彼は首を縦に振った後、「……量は考えて……」とだけ小さく言った。
 祭りの規模はどの程度だろうか――先日のリーリエの言葉を脳裏に掠めながら、ノーチェは微かに目線を落とした。