遡ること数十分ほど前。街の中心部で笑うリーリエは金の髪を肩に流し、勢いよくジョッキをテーブルに叩き付ける。ダァンッとテーブルにだけ起こる振動が地鳴りにも思えるほどの衝撃、賑わいに負けず劣らずの周りの歓声に赤い瞳がキラリと輝く。
「次ぃ!」
口許を拭いながら笑う女の周りには沢山の野次馬と、我こそはと戦いを挑む酒豪達。テーブルを挟んだその向こうに居るのはジョッキを片手に頭を垂れる数人の男だ。周りの歓声は猛る雄々しい声と、呆れる女達の声が入り交じる。「体を壊しても知らないよ」――そんな言葉に返すのはいつだって「男の戦いに口を出すな」だった。
この出来事が終焉にバレたらどうなることやら――。頬を赤く染めたリーリエはこの先にある怒りだけを静かに恐れる。自由行動を勝ち取るために与えられたのはいくつもの制限だ。そのうちのひとつ――いや、殆どを無視して迎えた今ほど、恐ろしいものはないだろう。
へらへらと笑いながら合流し直した後、頬を赤らめ酒の匂いをまとわせ、袋を肩にかけた様子を見て冷徹な表情を向けるに違いない。男の性格上、怒りなどの感情を露わにすることは殆どないが、冷めきった鋭い眼光は体を針で刺すほどの威圧感だけを与えてくるのだ。
目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ――リーリエはジョッキの持ち手をぐっと握り直し「まあいっか!」と前を見据える。頭を垂れた男はふらふらと覚束無い足取りで野次馬の中へと戻ると、続いてリーリエに挑む者が席に着いた。すると――驚きの声が上がる。
「あら、これはこれは有名人の登場?」
「そんなことはないと思うがね」
辺りが口々に「モーゼ様だ!」と言い出しては野次馬と化していない住人達は「何だ何だ」とそれに加わる。――夜とはいえ暑さが残る夏の月だ。野次馬に囲まれて熱気が増す空間に、更なる熱が舞い込んでくる。こうなってしまっては収拾がつかない、と女は口の端をくっと上げた。
目の前に現れたのは薄紫の毛髪を持つ男。薄ら笑いを浮かべながらジョッキも持たず、テーブルに肘を突いてただほくそ笑む。僅かに弧を描く瞳は紫と白の色を湛えていて――、それを目にしたリーリエは露わになっている片目で嫌なものを見るように眉を顰めた。
「そう……あんたが『薔薇の男』ね? こうして対面するのは初めてかしら」
ジョッキの持ち手を握る手に、爪が食い込むほどに力が込められる。
「おや、その口振りだと私のことを誰かから聞いたようだね。――こちらこそ初めまして、『原罪の魔女』さん」
対する男はただ胡散臭い笑みを浮かべたままリーリエと向かい合うのだから、端から見れば一触即発の状況に見えただろう。歓声だったざわめきは次第に不安の色を帯びていて、ところどころから不安げな声が聞こえてくる。
それを耳にしたリーリエは「酔いが醒めてくるからどうにかして頂戴よ」と言って漸くジョッキを離した。
「……そうだね。私もゆっくりと話をしてみたい」
そう言って男はゆっくりと立ち上がると、ざわめきを増してくる野次馬に向かって「お開きにしてくれるかい」と柔らかな口調で言った。
「お祭り騒ぎはいいものだけど、あまり気を抜くと隙を突かれてしまうからね。ここらでやめて、店で飲み直してくるといいよ。野外は恐ろしい」
祭りが盛んな月は犯罪が増してしまう。そのことを知っているのか、野次馬達はぞろぞろとその場を去り始めていったが、そのうちの数人が押し退けて男の目の前へと躍り出る。彼らは不安げに「どうしてですか」と唇を開いた。
「どうして黒い服を全身に着ているのですか」
何も知らない者が聞けば不思議に思う言葉だっただろう。黒の服などどこにでもあるのだから、好んで着る人間がいても可笑しくはない。
――だが、この街ではそれが異質だった、特に「黒で全身を隠す」ことは。
男が着ているのは殆どが黒に彩られた裾の長い服だ。神父のような見た目ではあるが、〝教会〟のそれとは全く色合いとデザインが異なる神父服。奇しくもそれは男によく似合っていて、欠点の付け所もないほどだった。
男は――もとい、モーゼはゆっくりと口許に人差し指を当てると、たった一言
「ただの『警告』さ」
――とだけ言って彼らに別れを告げる。さあ、行った行った、とにこやかに笑って軽く手を振るのだ。
そんな彼らはモーゼに対して一礼すると、頼りなさげな足取りで屋台へと向かった。よく見ればそれは菓子だけではなく、フランクフルトやラムネなど、街並みにそぐわないような――そうでもないような――ものがところ狭しと並んでいる。稀に自分の手料理を振る舞う住人も居て、誰もが楽しそうに笑っていた。
この街はいいところだね、そう言ってモーゼは肘を突いたままのリーリエに視線を投げる。女は酔いが醒めたと言わんばかりにふて腐れた表情のまま「そうね」と興味なさげに呟いた。空のジョッキの中には酒など残っている筈もなく、リーリエは手を突いてゆっくりと椅子から立ち上がる。
「……全身を覆う黒い服は〝終焉の者〟の象徴――つまり、忌み嫌われた色。そんなものを『警告』と称して着るあんたが私に何の用?」
リーリエの服は夜に紛れる闇の色。本来ならば近寄りがたい存在と思われる状況で声をかけてきたのは、街を支配するという〝教会〟の人間だ。彼らは悪と認めた存在に関するものはひとつの慈悲さえも見せないというが――リーリエが着ているのは黒いドレスだ。それを意に介せず声をかけてきたということは、それなりの理由があるのだろう。
女はテーブルに手を突きながらモーゼの出方を窺うように問いかけた。どこか怒りを含んだ視線を送っているというのに、目の前の男は霞のように薄っぺらな笑みを浮かべたままだ。
――なんて気味の悪い。
熱気がこもる暑さがあるというのにも拘わらず、リーリエが感じたのは体の芯から冷えるような寒さだ。出方を窺っているというのに、探られているのはまるでこちら側なのではないかと錯覚してしまうほど。モーゼはただ立っているだけなのに誰一人としてそれに近寄ろうとはしなかった。
腹の奥に何を抱えているのかも分からないこの男を野放しにしておくことこそ危険なのではないか――。
興が冷めれば楽しい筈の祭りはただの騒音へと姿を変える。そんな煩わしさを覚えているリーリエにモーゼはひとつ、「欲しいものがあるんだけど」と呟く。
「貴女自身もまた、私の欲しいものに該当しているみたいだね」
――ぞくり、と背筋を走る悪寒が酷く不快だった。
女は何かを言った試しはない。そもそも、この男との対面すらも初めてのことだ。唯一知っていることといえば薔薇の花ということくらいで、背丈も、見た目も、声も――何も知らなかった。
なのに男はまるで初めから全てを知っていたと言わんばかりの態度で言葉を紡いだのだ。モーゼが欲しがっているものはとある〝命〟――それを、リーリエは持っていると言うのだが、女は否定も肯定もせずにただ思う。
この男は一体何をどこまで知っているのか、と。
「……で? 私を殺すとでも?」
ふぅ、と息を整え、リーリエはその目を見る。
感情を込めていないというよりは、欲しいもの以外にまるで興味も持てないような瞳。――いや、生き物を「生き物」として見ていないような瞳だ。モーゼにとってこの街も、住人も、リーリエも机の上に置き去りにされた文具のようなもの。捨てようと思えばいつでも捨てられるような存在なのだろう。
虫けらを見るような目が不愉快だという言葉を呑み込み、リーリエはモーゼの言葉を待つと、男は首を横に振って「いいや」と言う。
「確かに似ているけれど、貴女のそれは他者に移すことはできないだろう? 殺したところで何の価値もない」
男の口調は終始穏やかで、当たり障りのないようなものに思えた。――しかし、それが更にリーリエの神経を逆撫でするのだ。
「……じゃあもうひとついいかしら?」
リーリエは胸中に憤りを抱えながらなるべく穏やかな口調を保つようにゆっくりと唇を開いた。モーゼは「どうぞ」と微笑み、女の言葉を待つ。
「……あんた、罪の意識はないの?」
ポツリと呟かれた言葉は確信を含んだようなもので、モーゼは瞬きを数回繰り返した後「誤魔化しようもないね」と言う。その表情に焦りなど微塵もなく、ただ子供の悪戯を「仕方ない」と許す父親のように穏やかだった。
「――全ては愛ゆえに、だよ」
「本当に……最っ低ね……!」
その会話を最後にモーゼは興味を無くしたのか――呆気なくリーリエに「それじゃあまた」なんて言って背を向ける。女の瞳に映るその後ろ姿は父親でも、ましてや神父でもない。ただの罪人がいるだけだった。
ほんの少し悔しそうに唇を噛み締める。チクリと刺す痛みと共に、口紅とは違った赤色がじわりと滲んだ。全てを知っているわけではないが、何も知らないわけでもない自分には何もできなかったのだと、リーリエが知る事実が刃のように胸に刺さる――。
――そうして、不意に瞬きを落とした。
通常、目に見えないものが他の誰かに見えてしまうように、リーリエには僅かに先を読むことに長けている。それがリーリエの昂る気持ちを落ち着かせるように突然見えてしまって、――賑わいを背に静かに唇を動かした。
「……何でそっちに居るのよ、少年は……」