雑談もなくただ歩く。軽く夜空を見上げれば、先程まで十分に見えていた筈の星が、少しずつ数を減らしている。それどころか虫達の鳴き声が徐々に減っていって、しまいには聴こえなくなる。
ほんの少し残念だと思うと同時、街の中心部が近いのだとレインは理解した。少女の隣を歩いているだけで目的の場所に辿り着けるのだと、喜びを覚える。
嬉しい、と頬を緩ませると、遠くから人の声に混ざって自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
低く、耳障りのいい、レインの名を呼ぶ声。誰かなんて、すぐにでも分かる。
だからこそ彼女は駆け寄ろうと足を動かした。隣を立っている少女はただそれを見守るだけ。追い掛ける兆しもなく、躑躅のように赤い瞳で、じっと見つめる。
――すると、唐突にレインが振り返った。何せ一緒に行くと思っていた少女の姿が隣にはないからだ。
驚いて、小さく唇を開いて少女を見る。
少女とはまた違った、ルビーのように赤く煌めく瞳が、困惑の色を湛えたまま少女の目を見つめ返した。
すると、少女が徐に人差し指を口許に添える。
「私は用事があるの。そうね――、この〝時間〟は忘れてもいいわ」
ぽつり。少女が言葉を紡いだ瞬間、時計塔の鐘が鳴る。
日中ならば噴水の水が大きく立ち上がる切っ掛けの鐘の音。祭りの最中のそれは、祭りの終わりを知らせる音だ。夜更かしはいけないと設定された時刻は夜の九時。辺りは明かりで満たされているとはいえ、夜の暗さが際立つ。
ほんの少し冷たさを増した風が頬を撫でた頃、レインは茫然と辺りを見渡した。
「――レイン!」
「……!」
彼女を呼び掛ける声がすぐそこから聞こえてきた。
驚くように肩を震わせてから、レインは咄嗟に街へと向き直る。暗い場所から一変して明るさに包まれた中心部では、子供達が両親の元へと駆けていく。
その中で一人、燃えるような赤い髪を揺らしながら男が駆け寄ってくる――。
「こんの馬鹿が!」
「!?」
焦るような、安堵したような。そんな声色のまま駆け寄ってきたヴェルダリアが、勢いよくレインの頬を摘まむ。
摘まんでからぐっと引っ張って、頬を伸ばすものだから、彼女は目を丸くした。
驚いて見上げた先にある彼の顔は、呆れたような――いや、何度も同じことを繰り返して、その対処に負われ続けている疲れきった人間のような顔だ。眉間にシワを寄せているが、本当に腹を立てているのなら声を掛けることなどしないだろう。
頬をつねられたレインは、頬を擦って頭を何度も下げる。ヴェルダリアは舌打ちをしてから、「何ともなくてよかったけどよぉ」と呟く。
「お前に明かりを持たせてなかったから、何が起こるかもわかんねえし」
どっか行くときは誰かについていてもらえよ。
そう言ってヴェルダリアはレインの頭を撫でる。整えられている筈の髪をぐしゃぐしゃと撫でて、レインは乱れた髪型に頬を膨らませる。
――そして、何か思うところがあったのか、彼は何の気なしに問い掛けた。
「お前、誰に案内されてここまで帰ってこれた? 火があまり使えないことくらい頭に入ってるだろ?」
彼はレインの方向音痴を十分に理解している。だからこそ、呆れたような様子で迎えに行っては、口煩く一人で彷徨くなと言っているのだ。
加えて彼女は制限の設けられた力を発揮させている。お世辞にも頭がいいとは言えないレインが、祭りに混じる〝本物〟の存在に気が付こうが、対処法までは思い付かない筈なのだ。
――そもそも彼女はルフランについてはあまり詳しくない。偶然にも中心部にまで辿り着けた、という仮説も立てられるが、生憎ヴェルダリアはそれを信用していない。
以前告げたのだ。分からないのならその場を動くなと。下手に動けばすれ違い、余計に見付けられなくなるから、と。
本人がそれを律儀に守っているかは定かではないが――、第三者が絡んでいることくらい想像ができる。無事に帰ってくるなど、レインが一人で成し遂げるには少し、荷が重いのだ。
それを知ったのは勿論、知り合って間もないことである。
以前は街のみならず、森の外を歩いていたものだから、彼はこの苦労を十分知っている。知っているからこそ、案内をしてくれた人間にはそれなりの礼をしたかった。
したかった、のだが――ヴェルダリアの言葉を聞いたレインは不思議そうに首を傾げるのだ。
「…………何も覚えてないなんて言わねぇよな」
訝しげな顔付きで試しにそう問いかけてみれば、レインは核心を突かれたように顔を強張らせる。じっと見つめてくる金の瞳に負けじと赤色の瞳を向けていたが――、やがて彼女は静かに目を逸らす。
何も覚えていません。――そう言われたような気がして、ヴェルダリアが軽く頭を抱える。
つい先程までの記憶がないということは、記憶をいじられたということ。特に痛がる節はないレインの様子を見るに、無理に改竄をされたわけではないだろう。恐らく彼女は、水の中から一匹の金魚を静かに掬い上げるように、そうっと記憶を抜き取られたのだ。
そんな芸当ができるのは主に〝終焉の者〟と、モーゼだ。
――しかし、当の本人達をヴェルダリアは見ていない。そもそも、モーゼがレインの記憶をいじることなど、まずない話だ。
だとすれば〝終焉の者〟が原因だろうか。男はヴェルダリアを毛嫌いしているが、それ以外には無関心であることが多い。彼の傍にいるレインのことは特別気にしたことはないのだ。
元より男は、レインの正体を知っている。迂闊に手を出してくることはないだろう。
ならば一体――。
――そこまで考えて、たった一人、心当たりがあることを思い出す。
それが本当に正しい答えなのか。何故手を貸してきたのか。脅しのつもりか、或いは――。
ぐるぐると思考ばかりが巡っていて、彼はそうっと顔を覗き込むレインの存在に気が付くのが遅れてしまう。
一瞬だけ肩を震わせた。その事実が彼女にとってはほんの少し衝撃的で、心配そうな表情を浮かべる。どこか痛いところがあるのかと、そう言いたげな目をしていて。
ヴェルダリアは考えることをやめた。
子供達が親の元へ帰っていく波に混ざり、彼はレインの手を取る。これ以上迷子にならないよう、しっかりと教会に辿り着くことが目的だ。
手を取られた彼女はほんの少し驚いたあと、一度だけ目を瞑って小走りでヴェルダリアの後を歩く。歩幅が違っていて非常に疲れてしまうが、レインにはあまり気にならないようだ。
道中、囃し立てられるような言葉を聞いたが、それをヴェルダリアが一瞥すると、声がやむ。やんでから、走り去る足音が聞こえて、何気なく夜空を見上げる。
「ちびっ子がお前のことを見掛けたから俺を呼んできたんだぞ」なんて小さく呟けば、レインが驚いたようにヴェルダリアを見た。
彼女の方向音痴は最早街の人間に広まっている。教会周辺までの行動制限を設けられるまで、〝教会〟の人間達が何度も街の人間に訊ねたのだ。
人伝に訊いては見つけて報告をして――を繰り返していくうちに、やがて住人には「一人でいるレインを見掛けたら教会に報告」という意識が根付いた。そうすれば〝教会〟の人間達が慌てふためく負担も減り、住人の手を煩わせずに済むからだ。
その習慣は子供達にも伝わっていて、ヴェルダリアの元を尋ねた少女は、その報告をしただけに過ぎない。
その事実にレインは萎縮した。また迷惑を掛けてしまったと、咄嗟に足元に視線を下ろす。タイルから石畳へ移る足元を見つめて、またやってしまったのだと肩を落とした。
すると――、唐突に頭を撫でられる感覚に陥る。
俯いていた筈の頭に手が載せられ、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱される。突然の重みにレインは上目で彼を見やると、ヴェルダリアが「気にすんなよ」と振り返っているのが見えた。
「お前のそれは直んねぇからな。教えてくれたちびっ子に礼さえ言ってりゃいいんだよ」
とっとと帰るぞ。
そう言って背を向き直した彼に、レインは小さく頷くのだった。