握られた拳が一直線に頬へと当たる。肉越しに伝わる骨の鈍い感覚が手に伝わって、堪らず歯を食い縛るのだが、そんなことも気にする様子もなく彼は立て続けに回し蹴りを食らわせた。ぐしゃりと歪む顔付きに涙を浮かべて、本来害のない筈のそれらが、ひいひいと喚きながら地面を這う。彼はそれを酷く冷めた目で見つめて、チッ、と舌打ちをした。
魔力持ちだと分かった若者が意気がるように人間へ優劣をつけたのは、最早今に始まったことではない。女子供へ威圧的に接して、老人には当たりが冷たい。全ての魔法使いがそうであるとは限らないのだが――、如何せん、自分が特別な存在であると信じて疑わない者がいるのだ。
――そんな人間が彼は大嫌いだった。魔法使いというだけで自分が偉いのだとふんぞり返る人間達が、酷く煩わしく思えたのだ。
裏路地で行われる彼の暴力は日に日に数を増していって、今では彼を知らない者はいない。チョコレートのように濃い茶色の髪、海のように深い青の瞳、濃紺のベストを着て煙草を咥えた、二十代の若い男。頬には打撲跡が多少ついているが、彼が殴っている相手から見れば小さな傷だ。
そんな男に目をつけられたら最後――気を失うまで殴り続けられる、という噂だ。
彼はそれを真実にしてやろうかと何度も思った。そこそこ名の馳せたベストを今でも着ていながら、出鼻をへし折ってやろうかと何度も拳を握り締めた。石畳にへたり込む憔悴しきった男を一瞥して、気が済むまで殴り続けてやろうかと思っていたのだ。
それでもそこまで至らないのは、彼が――ロレンツが誰よりも優しい人間だったからだ。
「――何しやがってんだ?」
「……!」
――不意に届いた聞き慣れない声色に、ロレンツは弾かれたように声がした方へと顔を向ける。その直後、視線から逃れた男達はそそくさと尻尾を巻いて逃げてしまったのだが、そんなことも気に留められる余裕はなかった。
路地裏の出入り口で仁王立ちするそれがじっとロレンツを見つめている。赤い短髪に紫の瞳が好戦的に輝いた。笑みを浮かべるその様子からもしや同業者かと思ったが――、男が携える背丈ほどもある長い杖を見て、彼は目の色を変えた。
話には聞いたことがある。魔法使いには飛び抜けた才能を持つ人間がいると。人よりも遥かに魔力の量が違い、誰が見ても明らかな大きさの宝石を携えている。髪の色や使う魔法の種類から赤、青、黒、灰色の四種が挙げられていて、彼もその知識は頭に叩き込まれているのだ。
目の前に現れたのは燃えるように赤い髪、杖の先端にあるのは青い宝石――ラピスラズリだろうか――がキラリと輝いた。
「……ああ、お前もしかしてあれか? 噂の魔法使い狩りの人間だな?」
目の前のそれは思い出したかのようにロレンツを指差した。噂になっている彼の容姿が一致したのだろう。「まさかこんなとこで会えるなんてなぁ」と男は軽く笑うと、長身の杖を器用に回す。カン、と音が鳴って、青い宝石が一際輝いたような気がした。
彼は「だから何だ」と無愛想に呟いて、静かに体勢を整える。つい先程の攻防戦で酷く疲弊しているのだが、ロレンツの中にある蟠りを抑えるには、これしか方法が思い付かなかった。
「何だってそりゃあ――てめぇをぶん殴ってやるんだろうがよ」
まるで魔法使いとは思えない好戦的な笑みを、その男は浮かべていた。