そして、恋に落ちる

「――ああクソッ!」

 ダンッ、とレンガ調の壁を強く叩き、ロレンツは悪態を吐く。覚束ない足取りでゆっくりと前進する彼の頬には青い痣が堂々と刻まれている。視界が微かに歪んで多少地面が傾いたような錯覚に落ちた頃、彼の頭に痛みが走る。
 どこかへ倒れてしまったのだと気が付くのに数分かかってしまった。霞がかる頭を動かそうと必死に思考を巡らせるが、ノイズがかかったように唐突に思考が途切れる。頬や腹部にじりじりと痛みが背骨に響くようで、酷く不愉快だ。

 はあ。大きく溜め息を吐きながら近くの壁へと寄り掛かると、彼は道行く人間達を一瞥する。誰も彼もがロレンツを見た後、彼の眼光に怯えを覚えてそそくさと立ち去っていった。遠くではこそこそと話している人間が指を差してくるものだから、彼は再び舌打ちをしてやる。
 酷く腹立たしい。頬や腹部の痛みも、視線の数々もそうだが、一番癪に障るのは先程の喧嘩相手の存在だろうか。

 男ははちゃめちゃな魔法使いだった。一言で表すなら破天荒、だろうか。杖を携えていることから魔法でもぶつけてくるのかと身構えた彼に、男は容赦なく杖を振るったのだ。まるで鈍器を振りかざして来るかのように、あろうことか杖で殴ってきたのだ。

 ――こんな出鱈目な魔法使いが居てたまるかよ……!

 一触即発の攻防戦に彼は舌打ちをして、咄嗟に男の懐へと入り込む。杖がある分リーチが長く、有利なのは相手の方だ。虚を突いて懐で拳を振るえば一発くらいはお見舞いできると思い、彼はぐっと力強く拳を握った。
 ――直後に飛んできた男の膝蹴りに、ロレンツは咄嗟にそれを解放したのだった。

 ――結論を言えば、ロレンツはみっともなく尻尾を巻いて逃げたのだ。
 腕に自信を持っていなかったと言えば嘘にはなるが、杖を物理的に振るってくる男に敵う気がしなかったというのもまた事実。青く輝く宝石が何度も体にぶつかっては苛立ちを覚えて、とうとう地面にしりもちを着いてしまった。
 その様子を見ていた男はまるで、ロレンツから見ても悪党じみたような顔をするものだった。一度だけでも殺されるのではないかと思ってしまった自分を恥じて、彼はくしゃくしゃと頭を掻く。丁寧に整っていた髪は崩れ、前髪はロレンツの目元に掛かる。

 鬱陶しいな。――そう思うロレンツの視界に、赤い液体が滴るのが見えた。壁を殴った際に手が切れてしまったようで、側面から滲む血に、彼は顔を顰める。
 自覚してからの傷の痛みというものは厄介で、一度苛立ちから気持ちが逸れると、そこら中から痛みがやってくる。血こそは流れていないが、殴打による鈍い痛みが彼の思考を妨げてしまう。堪らず足がふらつくのを抑えられなかった。ぐらりと回る世界に、追い付かない足が絡まるのを、頭の隅で理解した。

「――でっ!」

 ぼすん、と音を立ててロレンツが飛び込んでしまったのは、街中で端に寄せられたごみ袋の溜まり場だ。
 お世辞にも弾力があるとは言い難いその場所は、微かに異臭が漂う。「くっせぇ……」と口を溢すも、思うように力が入らない体では、何とかして俯せになった体を空に向けることが限界だった。
 憎たらしいほどの青い空だ。建物の合間から見える青と水色の混ざり合う深い蒼。転々と白い雲が空を飾っていて、少しずつどこかへと向かって流れている。時折鳥が飛んでいる姿を見かねて、はあ、と小さく溜め息を吐いた。

 稀に、空を見上げていると自分が馬鹿らしく思えてくる。自分がやっていることは褒められたものではない。それを理解していて、精神面がひとつも成長していないことを思い知らされるのだ。

 ロレンツがやっていることはただの反抗に過ぎない。自分が憧れていたものが、家業に背いたことを許せず、必死に抗っているだけだ。行き場のない苛立ちを辺りに振り撒いて、誰からも恐れられるような人間になった。その先に何を求めているのか、彼はまるで分かっていないのだ。
 これでは街中で迷子になる子供と同じだ。行き先が分からなければ、帰る道も分からない。迷子になって、不安になって、癇癪を起こした子供と何が違うというのだろうか。

「…………はあー……」

 軋む体を何とか動かして、ロレンツは額に腕を添える。特別眩しいわけではないが、何となく目元を隠していたかったのだ。眩しいこんな世界に自分は似合わない――そんなことを言いたげに、空から目を背ける。そうすると、今まで聞こえなかった音が、するすると耳に届いてくるのだ。

 道行く人の足音。はしゃぐ子供の声。楽しそうに談笑する若い女の声に、不意にピタリと止まる足音。恐らく、誰かが倒れ込んでいるロレンツを見かねて、話題にでもしているのだろう。ほんの少しざわめきを覚え始めた周りに、彼は再び苛立ちを覚えた。

「いけません、近付いては……」
「いいの。気にしないで頂戴」
「しかし――」

 ――イライラと行き場のない苛立ちを抱えたロレンツの耳に、言葉が聞こえてくる。周りの野次馬と、一人の女の声だ。毅然としていて恐れも抱いた様子のない、真っ直ぐな芯を持った声。

「あなた達は散らばって、集中できないの。……そう。ええ、気を付けるわ」

 そんな女の声が近くまで聞こえてくるのだから、尚更ロレンツの神経を逆撫でし続ける。暫く休んで、動けるようになったらここから立ち去る算段を立てているのに、見世物になっていては休まるものも休まらない。

「……ねえ」

 一先ずは休息が必要だ。ごみ溜めの中で休みを得るなど、人間としての尊厳が失われる。しかし、体が動かないのだから仕方がないだろう。起きた後は家に戻り、急いで風呂に入れば汚れなど気にならない筈――。

 悶々と思案を繰り返すロレンツを他所に、真剣な声色がまた降り注ぐ。「ねえ」と彼の近くで言葉が落ちてきて、ロレンツは弾かれるように額に乗せていた腕を退かした。今まで自分が声を掛けられる、ということがなかった所為か、気が付くのが遅れた反応だ。

 ハッとしながら腕を退かすと、痛みが走った。――しかし、それよりも視界を奪う輝きに、ロレンツは息を止めてしまう。

「起きたの。ねえ、貴方、大丈夫かしら」

 ロレンツの海のように青い瞳が映したのは、綺麗な女だった。
 薄金の長い髪が、日の光を受けてキラキラと輝いている。ひとつひとつが絹糸のように滑らかで、シルクのような輝きはロレンツから呼吸を奪う。

 腰まで伸びているであろう金の髪。カチューシャで留めた前髪は短く、毛先は内側に巻かれている。何をどうしていれば白さを保てるのかも分からない白い肌には、ほんのり赤みが頬を染めていた。大丈夫、とロレンツの安否を問い掛けた声は、先程まで住人達と会話をしていた女の声そのものだ。

 ――どうして目に包帯を巻いているのだろうか。

 見目麗しい女に目を奪われたロレンツは、ふと彼女の目元へと視線が向いてしまう。
 肌よりも白い包帯が、女の目を覆い隠すように二、三周巻かれている。まるで周りに目そのものを見られたくないかのような見た目に、彼は掛けられていた言葉の存在を忘れていた。

「……大丈夫? 起きれる?」

 そう言って差し出された女の手は細く、白く――白魚のような指、とはまさにこのことだろう、とロレンツは思う。――同時に自分の安否が問われているのだと気が付くと、差し出された手を受け取ろうか考えて、顔を逸らす。
 女に頼るほど落ちぶれていない。そう言いたげに自分の手で起き上がろうとして――

「う……ッ!」

 ――腹部に走る激しい痛みに、起き上げかけた上体を再び倒した。

「っ……くっそ……!」

 息が止まるような痛みに、堪らず悪態を吐く。あの赤髪の魔法使い、容赦なく殴ってきやがったな、なんて思って、途切れ途切れの呼吸を必死に繰り返す。差し出された手を振り払うことはしなかったが、女の善意を無駄にしてしまった。その事実が、ロレンツの心に微かに残る良心を刺激する。
 息が止まるような痛みの中、女は何をしているのか、ロレンツは薄目を開ける。すると、女は長いスカートが汚れるのも気にせずごみ溜めに膝を突いて、ロレンツの腹部に手を添える。

「……おいアンタ、服、汚れるぞ」

 流石のロレンツも、女に手を出すということはしなかった。
 女は彼の言葉を聞き入れると、「平気よ」とだけ呟いて、軽く手を動かす。服の上から痛みの原因を探るような手が、そこを見付けると、とロレンツが再び呻くように声を上げた。

「ここね。もう平気」

 そう言って女は何かを呟くと、白い手のひらから――正確にはロレンツの腹部から――淡い光が溢れ出す。青く、白い、空のように明るい光だ。それが、魔法であることはもちろん分かってしまった。
 伊達に何人もの魔法使いを病院送りにしているわけではないのだ。
 それでも、振り払う気が起きないのは、彼女の使うものがロレンツの傷を癒やしているからだろうか。

「……はい。どうかしら」

 淡い光に目を奪われていると、不意に女がパッとロレンツから手を離す。マニキュアも何も塗っていない手が、惜し気もなく離れるものだから、意表を突かれたように「あ、ああ」と彼は呟く。
 確かに痛みはなくなった。試しに上体を起こすと、難なく起き上がれる。息が切れるような痛みはなく、「痛くない……」と口を洩らす。それに女は「そうでなければ困るのだけど」と言いながら、ロレンツの頬へ手を伸ばす。

「うちのがごめんなさい。痛かったでしょう?」

 そう言って再び淡い光が溢れた。心なしか、手が当たっているところがやけに温かく、安心感を呼び起こさせてくる。
 うちのが、ということは、女はあの魔法使いを知っているのだろう。口振りから知人か、友人か。――何にせよ、魔法使いである以上、ロレンツのことは認知している筈だ。
 その確認に、ロレンツは「俺が誰だか分かってるだろ」と呟けば、彼女は手を離しながら「そうね」と答える。答えて、ふと顔をロレンツの手の甲に向けて、「知っているわ」と言う。

 どういう原理かは分からないが、女には目の前が見えているのだ。

「けれど、貴方が傷付いていいことではないと思うの」

 そのままロレンツの手を取る。白い、女の手が、ロレンツの手をきゅっと掴んだ。
 途端にロレンツが大きく目を見開く。傷付いた筈の手が癒えて、傷ひとつない姿が現れた。
 女が傷を治す様子は、まるで祈りを捧げるようだった。胸元の白い宝石が一際目映く輝いて、暖かな空気が手を包み込む。その原理を彼は知っていて、呆気に取られながらも、女からは目を逸らすことができなかった。

 女はロレンツの傷を癒やすと、彼の体を起こすのを手伝った。自分が汚れるのも気にせず、ましてや周りと同じように遠巻きに見るわけでもない。「もう痛いところはない?」と訊いて、ロレンツがないと答えると、口許が僅かに上がった。

「よかった」

 笑ったのだ、と気が付くのに時間は必要なかった。
 ――女はロレンツに野蛮なことはしないように、と告げると、踵を返して歩いていってしまう。滑らかな薄金の髪を靡かせて、石畳をしっかりとした足取りで踏み締めていた。
 残されたロレンツは小さく呟きを洩らした後、顔が熱くなるのを感じて、思わず手を頬に添える。

「――……っ」

 たった一人、恋に落ちる音を聞いてしまった。