やがて黒は白を食む

 ――ふと目を覚ました頃にはすっかり寝入ってしまっていて、眠る前に見ていた筈の明るさなどどこにもなかった。

 しん、と静まり返った暗い部屋。そこが、自分の部屋なのか、それともまた誰かの部屋なのか、とうとう区別がつかなくなる。顔ばかりが熱くて体は相変わらず悪寒が走るような感覚がしているが――、身体中は汗ばんでいることから、温まっているのが分かった。
 何気なく熱い、と言葉を洩らしかけたが、喉の奥に詰まるような咳が突如迫り、彼は小さく咳を溢す。反動で胸が痛いだとか、喉が痛いだとか、様々な思考がよぎったような気がしたが、重い頭痛の前では掻き消されてしまった。
 頭の奥――目の奥の痛みが吐き気をほんのり掻き立ててくる。気分の悪さにノーチェは堪らず顔を動かすと、じっと見つめている目と目があった。

 赤く、暗く輝く瞳と、金に瞬く瞳がやたらとノーチェを見つめている。暗い部屋にぼうっと浮かぶようなその存在は、彼を睨んでいるわけでもなく、不思議そうに見つめているわけでもなく。だだ、じっとノーチェを見ているだけだった。
 ノーチェが眠っている間に顔色を窺っていたのだろうか――。何を言うわけでもなくじっと見つめているだけの終焉に、彼は多少なりとも疑問を抱いていた。
 何らかの用があれば男は起きたノーチェに声をかけるはずだ。体調はどうだ、気分は悪くないか――なんてありきたりな言葉だ。過保護にも思えるような言動を取り、執拗なまでにノーチェの看病を徹底する。体調が良いわけではないが、それすらも予想できる彼は首を傾げるような気持ちで、無意識に手を引く動作を取った。

「…………?」

 ――ふと、自分が何かを掴んでいることに気が付き、ノーチェは手元に目を移す。彼の瞳に映る自分の手は、何故か終焉の手を握る自分の手があった。手のひらをぐっと掴んでいるわけではない。ただ、子供が母親の指先をきゅっと握っているのと同じように、ノーチェの指先は終焉の人差し指を小さく握っているのだ。

 一体どういう原理で握り締めていたのだろうか。疑問に思いながらノーチェはその手を離そうとしていたが、どうにも意思とは反して手は男の指先を離そうとはしなかった。
 終焉は振りほどくような素振りを見せたりはしない。恐らく、ノーチェが自発的に手を離さない限り、男が解放されることはないのだろう。男は一体何時から何時まで、ノーチェの手によって動きを制限されていたのだろうか。

「――…………」

 相も変わらずノーチェの手は終焉を離そうとはしなかった。頭の片隅では離さなければいけないことは分かっているものの、ノーチェも次第に離す気持ちが疎かになっていくのが分かる。相手が困っているような素振りを少しも見せないのが原因だろうか、それともまた別の理由か。
 終焉がノーチェを拒むことはまずない。それに則って、彼は抜きかけていた指先の力を小さく込めて、その手をぐっと握り締めた。その直後に終焉が驚くよう、指先を微かに動かしたことはノーチェにも分かるほど。
 しかし、その顔はやはり無表情を飾ったままの状態だった。

「…………少し前にリーリエが来たんだ。薬ができたと」

 驚いた様子をひた隠すように男は空いている片手をノーチェに伸ばす。そのまま普段通りに頭を撫でた。まるで猫を撫でるような手つきに、ノーチェは「う、」と声を洩らす。
 ――あつい。ただその考えだけがノーチェの頭を占めた。

 終焉はやはり手袋を着けたままノーチェの頭を撫でる。肌触りが悪いわけではないが、熱により火照る体を持つ彼にとって、それはほんの少し不快感を引き立ててくるものだった。
 布の繊維が感じられるわけではない。どちらかと言えばシルクを彷彿とさせてくる妙な生地で、普通であればその肌触りの良さに感銘さえ受けていたことだろう。
 ――しかし、今のノーチェは熱を持っているのだ。その手がやけに不愉快で、堪らず「手袋外してくんないの」なんて呟いてみれば、男の眉が小さく動いた気がした。

 何かがおかしい。

 そう思うものの、頭の働かないノーチェでは、何が可笑しいのかまでは分からずにいた。ただ、妙に終焉が自分に触れてこないことに、少しのもどかしさを覚えているのだけは確かだ。
 そうして終焉は話を逸らすよう「何かを口にできるか」と呟き、ノーチェから手を離す。そのまま片手に伸びた彼の手を緩く離すよう、そうっと指先をほどいてやって、伸ばされていた手をノーチェの元へ押し戻した。

 拒絶された――というわけではないが、どうにも寂しく思えてしまった彼は「あの、」と声を出す。喉が渇き、すっかり嗄れた声が気になったのか、終焉は軽く踵を返しながら「飲み物を持ってこよう」と言う。
 黒い髪が翻り、その背中がやけに遠く感じてしまって、彼は小さく生唾を呑み込んだ。

 ただ飲み物を持ってくるだけ。そのついでに、食事と薬を持って男は戻ってくる筈だ。

 ――それが頭では分かっている筈なのに、どういうわけか彼は終焉の背中が遠く思えてしまった。
 どこかへ消えてしまうのではないか――そんな妙な恐怖が背筋を伝い、ノーチェは咄嗟に寝具から降りようと勢いよく体を起こす。力の入らない体を無理やり起こした所為か、それとも今まで寝続けていた所為か。重い体を起こした際、視界が大きく揺れてノーチェは寝具の端から手を滑らせてしまう。
 ――ドスン、とほんのり鈍いような音が鳴った。それに驚き背を向けていた終焉は振り返って、把握しきれない現状に眉を顰める。ノーチェは布団もろとも床に倒れ、小さく呻き声を上げていた。床に叩き付けられた面がじわじわと痛みを帯びているが、それらは気怠さや頭痛に比べればどうってこともなかった。

「……何をしているんだ」

 少しだけ呆れ返ったような、驚いたような声色の終焉が、足早にノーチェの元へ駆け寄りながら声を掛ける。倒れているノーチェの体を起こし、手首を捻っていないかどうかなどを確認する。
 力が入らない体を懸命に起こそうとしていた彼は、終焉が近くにいると気付くや否や、その手を終焉へ伸ばして男の服をぐっと掴んだ。

 気分が悪いのか、それとも目眩がするのか。体の異常を自覚したと思った終焉は、不安そうにノーチェの頬へと手を伸ばす。熱が悪化したのかと思い、額にも手を当てていたが、手袋も相まってか男の手では違いが分からずにいた。
 その間の彼はされるがままの状態でありながらも、終焉の服を握る手を緩めることはない。力が入らないこともあって、指先が僅かに震えているものの、彼は終焉を逃がすことはなかった。
 男は堪らずノーチェに「離してくれないか」と呟き、服を握る手に自分の手を添える。あくまで力ずくではなく、ノーチェ自身の意思で離すよう、促しているようなものだ。彼の指先をほぐすように軽く手の甲を撫で、男はノーチェの様子を窺う。

 ――しかし、ノーチェが終焉を離すことは一向になかった。

 赤黒く、暗く、無感情な瞳は黙ってノーチェを見つめていて、彼もまたぼうっと呆けたように終焉の瞳を見つめ返す。三日月がぽっかりと浮かぶ彼の特徴的な瞳は熱の影響もあっていやに潤んでいて、頬は赤く汗が滲む。体調が万全ではないのは見て明らかであり、終焉は困ったように眉を顰めた。
 ――その僅かに困ったような表情が先程見ていた夢を彷彿とさせてくる。

 墨を満遍なく染み込ませた黒い髪に、ところどころ赤いメッシュが交ざる。赤い瞳も、透き通るような金の輝きも、夢に見たあの人と同じもので、彼は小さく歯を食い縛った。
 やはり知っているのだ。ノーチェはこの男の存在を知っているはずなのだ。自分の体と寸分違わず、馴染んだあの視界と光景は、夢などではなくまさに現実そのもの。実際に体感していたのかなんていう疑問など、目の前にある不安の大きさに比べれば小さなものだった。

「――…………」

 ――しかし、それを思い出そうとする度に熱とは違った頭痛が彼を襲う。頭の奥底から響くような鈍痛は、吐き気をふつふつと湧き立たせるものだから、ノーチェは遂に終焉の胸元へとすり寄った。大して暖かくもない体だが、「そこにいる」という感覚を味わいたかった。

 彼の行動に終焉は目を丸くして、やはり困ったように口を噤む。ただノーチェが口にできるものを運ぼうと思っていたはずなのに、どういうわけか動きを封じられてしまった。体調は相変わらず悪そうに見えるというのに、彼はこれっぽっちも動く兆しを見せない。
 終焉は困ったままノーチェの頭に手を乗せる。「下に行きたいんだが」とほんの少しだけ戸惑うような声色が、彼の頭の上から降り注いだ。それは、その場を離れたがっている男の言葉だ。理由もなく引き留めているノーチェに困って、男は様子を窺うように声をかけるのだろう。

 離した方がいいことは分かっている。――しかし、離れてほしくはない。

 自分の行動に自分ですらも困惑したまま、彼は終焉の服を握り続けた。頭は変わらずに奥底から痛む上、吐き気を催しているのは変わらない。けれど、このまま終焉を離してしまうと、どこか遠いところへ行ってしまいそうで――離せなかった。

「……困ったな」
「……!?」

 溜め息がちにそう呟きながら終焉はノーチェを抱き抱える。最初の頃はいやに渋っていた横抱きだが、抵抗をする気力もない彼は、驚いたあと終焉の服を強く握ってから一息吐いた。
 困ったなどと呟いてはいたが、眼前に現れた男の小綺麗な顔は、少しだって困った様子もない。相変わらず長い睫毛に伏せ目がちの瞳が前を見据えたまま、ノーチェに与えた部屋を出る。彼が珍しく終焉の首周りに腕を回すものだから、男は簡単に部屋の扉を開けて出ることができた。

 トン、トン、と一定のリズムで歩いていくものだから、ノーチェに伝わる振動は大して強いものではない。未だに頭痛がノーチェを苦しめているが、少しずつ夢を忘れるにつれて痛みが引いていった。決して温かいとは言い難い男だが、居心地は悪くはない。熱で荒くなる呼吸を何とか落ち着けようと試みながら、彼は男がどこに自分を連れていくのかと疑問に思っていた。