階段を下りきり、右へと曲がって、終焉が向かったのは男の自室。夜の中でも変わらずに仄暗く、どこか居心地の良さを感じさせてくれる不思議な場所だ。
その部屋の寝具に終焉はノーチェを下ろし、回されていた腕を引き剥がす。気を抜いていた彼は腕を剥がされたことに驚きを覚えたが、直後に降ってきた黒い布地に肩を振るわせる。それが終焉のコートであると気が付いたら頃には、その服は彼の体に回されていた。
「コートは温まるはずだから羽織っているといい。さあ、布団に入って。存外私は寒がりだ、ノーチェが使うものよりは温かいと思うぞ」
「あ……ど、どこに……」
されるがままにコートを羽織られ、手際もよく彼は終焉の布団へ招かれてしまう。その結果、彼は終焉を離してしまって、男がどこかへと向かおうとしているのを阻止できなくなった。
どこに行くかなど分かりきっているはずなのに、口を突いて出た言葉はどこへ行くのかと問うものだった。
「……ノーチェ。私は自分の服を置いて消えるほど、薄情な生き物ではない」
ほんの少し呆れたような、そして溜め息を吐くように紡がれた言葉に、彼はぐっと息を呑んだ。呆れられてしまったのかと唐突に不安が押し寄せ、ノーチェは目を伏せてから「ん……」と返事をした。
その様子がどうにも叱られた子供のように見えて仕方がなかったのか、終焉は一度彼を抱き寄せて背中を擦る。「布団に入って待っているといい」そう言ってから頭を撫でて、男は部屋を後にした。扉を開けてから閉める音がやけに大きく聞こえてしまって、彼は軽く頭を俯かせる。
そうして次第に頭が覚めるような感覚に陥り――眉間にシワを寄せた。
「…………俺……何で、あんな…………」
羞恥がふつふつと湧いてくる。理由は定かではないが、何故か終焉を失ってしまいそうで、咄嗟に引き留めた自分がらしくないと思い、男の言う通り彼はもそもそと布団の中へと入った。軽くも温かな素材を使っているらしいそれは、外部からの寒気をすっかり遮断させて体を温めようとする。
しかし、ノーチェ自身は未だ背筋を這う寒気に見舞われているため、布団の上からそうっと男のコートを載せた。大して温度差に変わりはないであろうが、多少なりとも変化を与えてくれるような気がしたのだ。
あまりの寒気に彼は布団を目深にかぶり、きゅっと強く目を閉じる。――だが、その数秒後に布団から顔を出して、小さな溜め息を吐く。寒いはずの体を温めたいのだが、顔はやたらと熱くて仕方がない。まるで頭の先だけが沸騰しているかのような状態に、ノーチェは唸り声を上げる。鈍痛は相変わらず彼を苦しめ続けていた。
薬でも飲めば楽になるのだろうか。
自分の先程までの羞恥を振り返りつつ、現状を打破してくれるものに対して思いを馳せていると、男の部屋の扉が小さな音を立てて開いた。その音に合わせるように彼は目を開くと、扉の向こうから差し込む光があまりにも眩しく、顔をしかめる。眩しい、と口を洩らすことはなかったが、終焉は彼の顔を見るや否や扉を閉めた。
ほんのり漂ってくる香りに食欲は芽生えず、終焉が近付いてくる度にノーチェは若干の吐き気を覚える。決して不味くはないことは百も承知であるが、体調が悪い以上、彼はそれを「食べたい」とは思えなかった。
それを、終焉は重々承知しているらしい――。
「食欲はないだろうが、一口でも入れなければ薬を飲めないと聞いたことがある。軽いものを持ってきたぞ」
――そう言って男は近くにあるテーブルへといくつかの食器を載せたトレーを置くと、ノーチェの方を見た。
彼は咄嗟に首を横に振って食欲がないことを示すと、ほんの少しだけ終焉の顔が歪む。これは失望や寂しさというよりは、多少の怒りが込められているであろう表情だった。
「食え」
「…………や……」
突き放すような言葉に彼は反抗して、強く唇を結ぶ。この家の現主人と対等であるという認識は彼にはないが、自分の意思を伝える程度のことはできるようになった。
ノーチェは自分があまり食欲がないことを示すと、終焉は再び困ったように顔を歪める。体調が悪い分、あまり強く物を言いたくはないのだろう。食べないと治るものも治らない、なんてありきたりな言葉を呟いていて、どうにかノーチェに食事をさせようと必死だった。
それでも彼は首を縦には振らなかった。それどころか、終焉が折れてとうとう「薬だけでも」とコップと小さな白い錠剤を差し出して来たものすらも、首を横に振る始末だ。
「どうしてだ。そんなに気分が悪いのか……?」
男は堪らず身を屈め、ノーチェに目線を合わせる。困った様子の綺麗な顔がぐっと近付いたことに驚きすら覚えたが、彼は諦めることはなく首を横に振っていた。
口にものを入れたくはない。――そんな気持ちがやたらと彼を突き動かす。何かを思い出すような言動に、ノーチェですら混乱を覚えてしまっている。単なる吐き気や食欲のなさだけでは到底説明ができないほど、妙な反抗だけが彼を突き動かしているのだ。
終焉に出会う前――奴隷であった時代に何かを飲まされたような試しはない。いくら記憶を掘り起こしたとしても、合意のないあれそれや、想像通りの奴隷扱いを受けただけであり、毒薬などを飲まされたような記憶など今回はなかった。
――今回はって、なんだっけ。
それはあまりにも自然に、かつ流れるような想起だった。
彼は懸命に記憶を掘り起こし、自分の身に起こったことを思い出していたはずだ。それはいくら月日が経とうとも決して忘れることのできない、苦い記憶だ。その中には確かに飲まされた試しなどないというのにも拘わらず、何故か前回は味わっていたような、妙な感覚が募る。
その感覚は今に始まったことではない。彼は時折重要な場面に遭遇すると、忘れていた何かを思い出したような感覚に陥る。例えば命の危機に面したときなどは、「次回」に期待するような気持ちが湧いた。その裏には先程同様、まるで何度も味わい続けてきたような、不思議な感覚に苛まれていたのだ。
そしてそれは、今にも十分に発揮されている――。
――直後、ノーチェは喉元に何かが競り上がってくるような気配がして、咄嗟に口許を覆った。喉を焼き尽くすような酷い痛みと熱――胃の奥から酸が上がってきているのだと気が付くと、嫌悪感がふつふつと湧いてくる。
これはそう――、記憶を掘り起こした際に嫌だと思っていたものを思い出してしまい、それに対する強い嫌悪感が出てきたのだ。
体調が悪いことも相まってか、普段よりいっそう強く湧いてくる嫌悪と吐き気は止めどなく、ノーチェは胸に痛みすらも覚えてしまう。まるで口から再び血でも吐いてしまうではないかと思うほど、強い痛みだ。
これでは終焉に誤解を与えかねない。しかし、吐き気は止められるものではない。
彼は男に対して懸命に首を横に振って、到底口の中にものなど入れられないと示していた。
「…………そうか。なら仕方があるまい」
男は漸く観念したように溜め息を吐き、屈んでいた姿勢をやめる。二メートル近いであろう身長は、横になるノーチェから見れば塔のようで顔が遠かった。そのお陰か、男が今、どのような顔をしているのかなど、彼には分からなかった。
ただ、奇跡的に終焉が折れてくれたことによる喜びが、やたらと大きかったことだけは覚えている。
そうして僅かに涙で潤んだ視界に映る男は、何かを口に含んだあと、コップの中身を口に含む。
――そして、ノーチェへと顔を近付けた。
「――え、」
驚きのあまり、つい声を洩らしてしまった。その拍子に空いた唇を塞ぐよう、終焉が唇を合わせる。目の前にある顔がやはり綺麗だとか、女だったらどれほど美人だっただろうかとか、――唇が柔らかいだとか。そんな考えをまとめる前に、口の中に入ってきた液体を彼は思わず飲み下してしまった。
終焉が行った行動は、口移しであると認識する頃には、男の顔は離れていた。あまりにも静かで、短い数秒だった。
「……飲んだな。不快であれば申し訳ないが、体調がよくなった頃に口をすすぐといい」
そう告げたあと、男はノーチェを褒めるように軽く頭を撫でる。男の口振りからすると、ノーチェが飲んだのは先程見せてきた薬と飲み物だろう。彼があまりの衝撃に茫然としながら瞬きをすると、男はそれとなく視線を横へと逸らした。
嫌悪感――など、消え失せてしまった。寧ろ今彼が抱えているのはどうしようもないほどの驚きと、妙に満ち足りたような感覚だ。まるで、今までそれを望んでいたかのような感覚に、彼さえも自分自身を疑っているのだ。
どうして。どうしてだろう。それを何となく意識してみたのはつい最近だというのに、ずっと昔から待っていたような感覚がするのは。
自分の知らない自分がいる、というのは酷く気味が悪かった。だが、感情はまさに、自分のものだった。
「――……?」
――そう驚きに苛まれていると、不意に視界が微睡んでいく。
あまりの突然の眠気にノーチェは疑問を抱いていると、終焉が言った。
「その薬はリーリエ特製だ。薬に関しては効き目は抜群――ついでに、速効性の睡眠作用もある」
だから、私がまた部屋に戻る頃にはノーチェは寝ているよ。
――微睡む意識の中。懸命に抗おうと努力はしたが、虚しく落ちていく目蓋に従いながら、ノーチェは男の言葉を聞いて――眠りに落ちてしまった。