一日遅れの祝い事

 パーティー気分が夜まで続いた頃、何故か帰ろうともしないリーリエにノーチェは鬱陶しさを覚えていた。無論、原因はリーリエにあって、彼は陽気にはしゃぐその姿を嫌そうに見つめる。視線の先には既に酔いが回った様子のリーリエが一人。大きく笑っていて、空の酒瓶をまるで我が子のように抱えている。
 はっきり言えば酒臭い。目にまで染みるようなつん、とした独特な香りが、ノーチェの呼吸器官をぐるぐると巡る。胸の奥に溜まり続けるかのような、酒特有の香りに、遂に吐き気すら催すほどだ。まさか昼頃から唐突に酒盛りを始めるとは思わなかった彼は、女に早々に帰ってほしいとさえ思うほど。それほどまでに酔ったリーリエは面倒臭かった。
 終焉はキッチンの方へとこもりがちで、一歩たりともノーチェを招き入れようとはしなかった。約束していたものを作っているのだとは分かるのだが、彼とて納得できるような心情ではない。
 うんざりとした目付きを向ける先に、リーリエはやはりいる。赤いソファーに腰掛けてへらへらと笑いながら、酒瓶を大事に抱えている女が。普段ノーチェが座っているであろう場所に座っている所為か、不快感が増しているのは気の所為だろうか。
 大して期待はしていなかったが、自分の誕生日だというのに、優遇されない状況がほんの少し気に食わないのだ。

「……なあ、アンタ。酒臭い。いつ帰んの」

 遂に転がり始めたリーリエに、ノーチェはふて腐れたような呟きを洩らす。無意識のうちに表情に出ていたのか、女は赤い瞳でノーチェの顔を見ると、「そう拗ねないの」と笑う。ゆっくりと体を起こして、瓶を離した手で小さく手招きをして、彼を呼んだ。
 ――正直に言えば行きたくないの一言に尽きる。
 しかし、呼ばれているのに応えないわけもなく、彼はしぶしぶリーリエの元へと歩いていった。
 赤黒い絨毯を足で擦って、ソファーへと近寄る。「何」とだけ呟いて、女の様子を探ると――リーリエの滑らかな指先が、ノーチェの頭を撫でた。

「……何すんの」
「ん~? お誕生日おめでと~って思って」

 柔らかな髪を軽く撫でて、火照る顔を綻ばせながらリーリエは笑う。その顔付きは、母というよりは近所にいる顔見知りが子供に対して微笑むような顔で、何やらもどかしいような感覚がノーチェの頬を撫でる。恥ずかしさとはまた違った違和感に、堪らずその手を払い除けた。
 「ガキ扱いすんな……」なんて、奴隷の立場では言えたものではないだろうに。思わず口を突いて出た言葉はリーリエの耳を揺さぶる。「そうねぇ、子供ではないもんねぇ」と笑ってソファーに体を預ける様子は、先程まで酔っていた人間とは思えなかった。

 誕生日を祝ってもらうのは何年振りだっただろうか。おめでとうの言葉はもらうものの、贈り物など既にもらわなくなったノーチェには、今日という今日がやけに新鮮だった。
 終焉は用意するから、と言って昼頃からキッチンにこもりきり。彼の相手はリーリエがするものの、その立場は逆転していて、ノーチェがリーリエの相手をしてやっているほどだ。何度終焉に戻ってきてほしいと思ったことだろうか。
 スカートではないことが功を奏して大胆な格好をしても、目のやり場には困らない。しかし、この酒豪の相手を一人でするには骨が折れてしまう。男は彼の要望に応えようとしているのだが、今となってはそれが仇になったような気持ちになってしまった。

「いくつになったの?」
「…………さあ」

 二十歳は越えてる。そう分かりきった言葉だけを呟いて、ノーチェはリーリエに背を向ける。向こうでは終焉の声が、物音が聞こえてくるような気がして、手伝おうとする意識が働いたのだ。
 今日の夕食は何だろう。すん、と香りを追うと、何度目かの腹の虫が声を上げて鳴いた。くぅ、と小さな音だ。空腹を覚えることも、満たすことも漸く慣れた。
 ノーチェは軽い足取りでリビングへと向かう足を止めて、ちらりとリーリエの方へ視線を向ける。女は相変わらずソファーに座ったままで、ノーチェの視線に気が付くと、ひらひらと手を振った。

「……働かざる者、食うべからず……」
「…………ん?」
「…………手伝わないならアンタ、食うなよ」

 吐き捨てるように呟いて、ノーチェは客間からするりと廊下へ足を踏み出す。すると、間髪入れずに酒瓶が床に転がるような音が鳴るものだから、彼は呆れるように肩を竦めた。
 ふぅ、とノーチェは溜め息を吐きながら、チョコレート色にも似た扉を開ける。一時的に眩しく見えた明かりの後に、終焉がせっせと食卓の準備をしているのが見えた。甘いケーキを並べている様子が見られるのに、漂う香りは焼けた肉だ。

「……今日は肉……?」

 珍しいなどと思いながら終焉の傍へと近寄れば、テーブルの上に並ぶ輝かしい果物が視界に映る。イチゴやリンゴ、キウイやマンゴーなど、彩り豊かで一口サイズの果物がところ狭しと飾られている。その中で映えるベリーの類いがいっそう存在を強調させていて、光によって艶々と輝くそれらに目を奪われる。
 シロップでもかかっているのか、それとも果物本来のものか――甘い香りが微かに感じられていて、「おー……」と思わず感嘆の息が洩れた。
 夕食とケーキの香りが同時に感じられることには触れず、ノーチェはじっとそれを眺める。タルト生地に盛られたフルーツがあんまりにも眩しい所為か、彼の瞳は輝いているようにさえ見えた。
 後から来たリーリエさえも、輝かしいフルーツタルトを目にして「うわぁ」と感動すら覚えてしまう。よくよく見れば最近は減っていた筈の花の形が、いくつか散らばっていた。
 気分が舞い上がると出てくるらしい花を見て、ノーチェはちらりと終焉を見る。男はどこか満足げに口許だけで微笑んでいたが、ハッとして慌てた様子でキッチンの方へと走っていった。
 それに続くよう、ノーチェもまたキッチンの方へと向かっていく。扉を開けてこもる香りを再度胸一杯に吸い込むと、それが何なのか、正体が分かったような気がした。

「……ハンバーグってやつ?」
「ああ、よく分かったな。凝ってみたくて、煮込みにしてみたんだ」

 ソースを煮詰めたような強い香りが肺の中を巡回する。終焉の手料理を認識すると、決まって鳴いてくる腹の虫が勢いを増した気がした。思わず腹部に手を当てて「参ったなぁ」と言うように首を傾げれば、男が「夕食にしようか」とほんの僅かに嬉しそうに言った。
 深い更に盛られていくそれを見て、口の中に唾液が広がるのがよく分かる。ぐっ、と生唾を飲み込んで、もうもうと湯気を立てるそれを、彼は両手で受け取った。
 ソースの香りと、彩りを足すための野菜が情報として頭の中に蓄積されていく。丸々と楕円を描いてしっかりと火が通ったであろう肉に、つい目を輝かせてしまう。
 珍しく出てきた肉料理に彼は「美味しそう」なんて呟きを洩らせば、敢えて肉料理を避けてきた理由を、終焉の口から聞かされた。

 ろくに食べてこなかったノーチェの体に、突然の肉料理など胃に負担がかかる。もしかしたら、体調を崩してしまうこともあるのではないか――なんて。

「……そんなに?」

 ふと手元から視線を外し、ノーチェは終焉の横顔を眺める。その顔付きはやはり親のような顔付きで、柔らかな雰囲気をまとっていた。睫毛が長いだとか、肌が白いだとか、そういう感想よりも終焉の機嫌の良さを痛感する。体つきも食欲も確かなものになってきていて、純粋に喜んでいるのだと――そこはかとなく理解した。
 だからこそノーチェは男に「そんなに心配するもんだったの」と訊いた。すると、終焉は「当然だろう」と言って、もう一皿の盛り付けを終える。

「私にとって貴方は最愛だから」

 それだけ告げて、漸く終焉の目元が笑ったような気がした。

 ――何度似たような言葉を投げられたことだろう。
 終焉はノーチェに向かって「行こうか」と呟くと、ノーチェはそれに頷いてリビングの方へと歩く。頭の中で繰り返し反芻する終焉の言葉が耳にこびりついて、その後の言葉はろくに理解できなかった。
 誰かに特別視されたのは多くあるわけではない。「愛している」と言われてむず痒い感覚に襲われるのは、単に慣れていないからだろう。――それなのに、終焉の先程の言葉は鉛のように重く感じられていながらも、彼の胸に募るのは嬉しさだった。

 調子が戻ったようで何より。

 たったそれだけのことで安心感を抱くなど、随分と気楽なものになってしまった。
 ノーチェはふと目の前で何やかんやと言い争っている終焉とリーリエを見る。何やらリーリエがフルーツを摘まみ食いしたとかで終焉が軽蔑にも似た視線を送っていて、それを悪く思わなかったリーリエに「夕食はやらない」と断言しているところだった。
 男の手元にはお手製の煮込みハンバーグがひとつ。食欲をそそる香りを目の前にお預けを食らいそうなリーリエは、ぐっと唇を噛み締めたかと思うと、ノーチェへと向き直る。その拍子に驚いて肩を震わせた彼は何かと瞬きをして、リーリエに「ごめんなさい」と謝罪の言葉を投げられた。

「……? 何で俺……?」
「だってこれは少年のために作られたものだから」

 理由も分からないまま謝罪を投げられ、首を傾げるノーチェ。その問いに対してリーリエは簡単に答える。このケーキはあくまでノーチェのために作られたのであって、初めに食べてよかったのはノーチェだけだった。それを我慢もできず摘まんでしまった女は、「大人げないことしたわ」と見るからに落ち込むのだ。
 そんなことか。
 そう小さく呟いて、ノーチェはいつもの席へと腰を下ろす。携えていた夕食をテーブルに置いて、用意されているナイフとフォークを視界に入れながら椅子を引き寄せた。すると、ノーチェに倣うように終焉もリーリエも席に着いた。終焉が持っていた食事はしっかりと女の目の前に置かれている。
 彼はフォークを手に取り、ハンバーグ――を越えてフルーツタルトへと手を伸ばす。赤く熟れた甘そうなイチゴに先端を突き刺し、ひと思いに口へと運んだ。シロップの甘さと、イチゴ本来の酸味が混ざり合って簡単に喉の奥へと流し込められる。ケーキ本体を食べたわけではないのだが、「美味しい」とだけ呟いて、ちらりと終焉を見やった。

「……全く。ノーチェに用意したのに」
「いっただきまーす!」

 やれやれ。そう言いたげに肩を竦めた終焉を他所に、リーリエはタルトへと手を伸ばし――

「――少年!」
「……!」

 ――かけて、ノーチェへ声を掛ける。
 驚いて堪らずノーチェが嫌そうに「何、」と答えると、リーリエはいたずらっぽく笑う。

「お誕生日おめでとう」

 くしゃりと音を立てて掻き乱される白い髪。呆気に取られたかのように彼は口を半開きにしていると、終焉の耳障りのいい声が軽く聞こえる。

「ノーチェ」

 そう呼ばれて終焉を見れば、男はテーブルに肘を突きながら懐かしいものを見るように微笑んで言った。

「生まれてきてくれて有難う」

 ――たった一言。たったそれだけの言葉を述べて、終焉は目の前のタルトに手を伸ばす。あくまでノーチェのために用意はしたが、自分が食べないわけではないのだ。
 その様子を見かねて、――と言うよりはただ茫然としながら――彼もまた夕食に手をつける。見よう見まねでリーリエの所作を盗み、フォークでハンバーグを固定させながらナイフを入れる。
 すんなりとナイフが入るほど、柔らかく煮込まれたそれを口へ運んだ。ほろほろと口の中で崩れたかと思えば、噛めば噛むほど肉汁だとか、ソースの味わいだとかが上手く絡み合う。頭のどこかで肉が喉につっかえることを懸念していたが、その必要性もないほど簡単に胃へと流し込めた。
 終焉が用意してくれていた冷えたお茶で更に流し込めば、また次を求める手が伸びる。美味い――なんて言葉も紡げなかったが、ノーチェの様子を見て終焉は満足そうだった。
 ノーチェの隣でリーリエは手料理に感激して、どこからともなく出してきた赤ワインを開けてしまう。ポンッ、と景気よく飛んでいったコルクを終焉が受け止めたのだが、彼は何を言うこともなくそれを見送った。
 酒が入った女はやはり面倒で、酒瓶から直接飲んだかと思えば大口を開けて笑うのだ。「やっぱり特別な日には特別なご飯を食べないとねぇ!」――なんて言って、酒を呷る。途中、ノーチェに飲むかどうかを問い掛けて、流石の彼も「いらない……」と引き気味に返答した。
 目の前では終焉がタルトを頬張っている。相変わらず夕食に洋菓子を食べる習慣は変わらず、それどころか味を確かめるようにゆっくりと咀嚼を繰り返していた。「これはやはり甘さには限界があるな」なんて呟いて、ほんの少し落胆するように肩を落とす。
 流石のノーチェも、リーリエ同様に夕食とデザートを交互に頬張ることはしなかったが、一息吐いた頃にそうっとそれに手を伸ばした。

「…………んまい」

 クッキーのようにサクサクとした軽い食感のタルト生地と、瑞々しい果物が口いっぱいに広がるのが分かる。生憎ノーチェ自身は洋菓子に対する拘りが分からず、ただ美味しいと呟くだけだ。――それでも終焉は安心したかのように「そうか」と言うものだから、何だっていいのだろう。
 てっきり甘すぎるものが来るのかと思えば、終焉は節度は守るものだろう、なんて言っている。自分好みの甘いものを押し付けるのではなく、あくまで相手を考えてこそのフルーツタルトだったのだろう。
 かくいうノーチェもまた特別嫌だと思うことはなく、ただ黙々とそれを口に運び続けた。

 三年――確か三年ほどだ。彼は二十歳を奴隷下の中で迎え、誰にも祝われることもなく今日という日まで生き延びてしまった。十八だか、二十歳だか、成人として認められる年齢は地域によって異なるらしいが、ノーチェは既に成人している。奴隷として捕まることがなかったら、彼は身内にでも祝ってもらえていたのだろう。

 特別豪華というわけではないが、環境が悪いわけでもない。ノーチェは用意された夕食とデザートを食みながら、二人の会話を軽く聞いていた。自分が二十歳の頃は何をしていただとか、今日の料理のさりげない拘りだとか、明日には掃除をしなきゃならないだとか、日常的なことばかりだ。
 本当は当日に祝いたかったのに、なんて愚痴のように呟かれた終焉の言葉に、リーリエが呆れるように笑う。「体調崩すのが悪いんでしょう」そう言ってハンバーグを頬張ると、嬉しそうに笑った。

 何でもない日常の一部だ。何でもない日常の一部が、奴隷である筈のノーチェの目の前に広がっている。

 「おめでとう」と「有難う」――二つの言葉が頭の中で繰り返す中、ノーチェは黙々と飲食を続けていた。