一日遅れの祝い事

 気が付けばリーリエは小屋へ帰る準備をしていた。それを見送るため、ノーチェと終焉はエントランスで靴を履くリーリエを見つめる。外は暗く、月が僅かに欠けているのだが、女は特に気にも留めていないようだ。夜な夜な獣が現れるだとか、道に迷うなどという恐れがまるで見受けられなかった。流石森に身を寄せているだけある。
 ――と、感心していると、リーリエはノーチェに向かって「プレゼントはあげられないけれど」と言葉を溢す。

「何かあったらちゃんと駆け付けてあげるからねん。あんたは一人じゃないんだから」

 分かりきったような、ありきたりな言葉だった。
 ぽすぽす、とリーリエはノーチェの頭に手を置いた後、惜し気もなく屋敷を後にして森へと向かった。暗闇へ身を投じる軽やかな足取りは、酒を飲んでいたとは思わせないほど。煌めいていた金の髪が闇へ呑まれる頃、終焉は扉を閉めて「騒がしい奴だな」と鬱陶しそうに呟いた。

「……まあ、今日くらいは許し――」

 踵を返しながら終焉は呆れるように言った。――が、ノーチェの顔を見た途端に言い切ることもなく、彼の顔を見ながら驚いたように口を半開きにしている。
 一体何があったのだろうか。
 ノーチェは思わず首を傾げようとしたが、原因が自分にあると気が付いたとき、漸く目元を隠した。
 得体の知れない涙が、再び彼の頬を伝う。鬱陶しげに、厄介だと思いながら、ノーチェは何度も何度も袖で目元を擦った。ぼろぼろと溢れ出す厄介なそれに堪らず顔を俯かせていたが、ノーチェの行動を見かねた終焉が咄嗟に彼の手を取る。
 赤く染まった彼の瞳に映るのは、驚きよりも心配そうに自分を見つめる小綺麗な顔だった。

「腫れてしまうよ」

 荒れた大地に染み込むような水のように、静かに降り注ぐ男の言葉。あまりにも優しく、普段の無表情からは想像もつかないほど柔らかな声色だ。
 この人は本当に俺のことを心配してくれている。――そう思わざるを得ないほど、胸に染みるようなものだった。

「何か至らない点があったか? 嫌なものでもあっただろうか」

 ノーチェの両手を押し退けて、終焉の白い手が彼の頬を包む。親指で溢れる涙を何度も掬っては「どこか痛いか?」や「何かされたか?」なんてひとつひとつ丁寧に問い掛けてくる。彼はそれに首を横に振って、何かに対する不満があるわけではないことを提示した。
 ただ、酷く懐かしく、嬉しく思えたのだ。おめでとうだの、有難うだの、どこかで言われたような言葉だったが、どうにも胸の奥がじんわりと温まるような感覚に陥った。沸々と沸き上がる感動にも似た感覚に、リーリエの去り際の言葉がどうしてか気になった。
 ノーチェが茫然としている合間にも、終焉は懸命に彼を宥め続けている。それが特別嫌というわけではないのだが、特別悲しいというわけでもないのだ。
 強いて言うならば安心したのだ。

 ――自分は間違っていなかったのだと。

「――ぅ、え……?」

 間違っていなかったって何だ。
 唐突に降りかかった自分の思考に、ノーチェはハッとした。――同時に、彼の視界にあった小綺麗な顔がどこかへと向かう。代わりに見えたのはシャツの襟が開いたお陰で見える喉元と、鎖骨付近。そして、額に押し当てられる柔らかな感覚――。
 言わずもがな、ノーチェは目を丸くした。
 髪越しではあるものの、額に口付けを落とされたのだと気が付くのに数秒掛かってしまった。たった一瞬の出来事ではあるが、彼はその事実に確かな驚きを覚える。様子を窺うように離れてノーチェの顔を見た終焉は、「……止まった?」なんて言っていて、目元の親指でぐっと跡を拭った。

「な、なに……?」

 思わず終焉の言動を訊ねてみれば、男は「出すぎた真似をしてしまったか」と一言。どうやら以前からまじないと称して額に口付けを落とし、相手方を宥める方法を持っているらしい。
 一体誰を相手にしていたのだ、とほんの少し疑問に思ったのだが、驚きが勝った彼には何も訊くことができなかった。
 終焉は微かに微笑んだかと思えば、徐に彼の頭に手を載せて普段のように撫でる。自分とは違う髪質を堪能するように、指の間に髪を絡ませて、頭の形をなぞるように撫でた。
 ノーチェはその手が嫌いだというわけでもない所為か、されるがままで終焉の手が止まるまで微動だにしない。自分よりも多少大きな手のひらが頭を撫でてくるのは、不思議と落ち着くような気がしたのだ。

「……落ち着いたなら、風呂にでも入ってもう寝よう。疲れただろう?」

 特にリーリエの相手は。――男はそう告げるとノーチェの様子を窺った。彼は静かな赤と金の瞳を見て、確かに、と言わんばかりに頷く。音もなく歩いていく終焉の後を追って歩けば、終焉は「ケーキはくどくなかったか?」と何気なく彼に問い掛けた。
 普段よりくどくはない。たった一言呟いて、ノーチェは軽く鼻を啜る。情緒が不安定にでもなりやすいのか、何度も涙を溢してしまう自分に嫌気が差してしまっていた。
 ――しかし、男はそんなノーチェに嫌な顔ひとつせず向き合っているのだから、大事に思われているのは確かなのだろう。執拗に追求しなければ、特に踏み込んでくる様子も見せない。
 そんな終焉の隣は居心地がいいと思っているのは確かだった。

「……なあ」

 男の後を歩くノーチェは、服の裾を引っ張って意識を向けさせる。終焉は何も言わずに彼へと向き合ったが、赤く腫れたノーチェの目元に手を添えて、「どうした」と呟いた。

「…………ありがと、今日」
「……どういたしまして。まあ、一日遅れてしまったんだがな……」

 未だに悔しそうに落胆する終焉を見て、ノーチェは小さく笑った。この人といるのは悪くないのかもしれない――そう思う彼の胸に、確かな安心感が募り始める。
 淡い月明かりが降り注ぐ夜の中、外では秋を知らせる虫の音がぽつりぽつりと数を増していった。