「――――ッ!」
息が止まっていたと錯覚をするほど、ノーチェは勢いよく目を覚ました後に浅い呼吸を繰り返す。心臓が今まで感じたことのないほどに速く脈打ち、意識は朦朧とするばかり。頭に酸素が回っていないのだと気が付いているものの、悪夢に対する彼の体は正常には戻らない。
嫌だ嫌だとノーチェは小さく唸り声を上げた。嗚咽のようなそれは、決して誰かに届くわけでもなく、目の前にある布地に吸い込まれて消えるのだ。
――布地?
――そうしてふと、彼は目の前にあるのが虚空ではないことに違和感を覚えた。
恐る恐る顔を上げ、ぼうっとそれを見やると、黒い塊が僅かに動く。ノーチェの目は夜目が利く。ただの虚空であれば部屋の壁でも見られるはずだが、目の前にあるそれは黒い色の、衣服だ。少しだけ顔を上げた先にあるのは白い、日焼けのない滑らかな首筋があった。
そして、その上から低く、落ち着いた声が降り注ぐのだ。
「………………起こしたか……」
落ち着いた、と表現するにはあまりにも静かで、どこか頼りない。眠たげな声は彼の頭上から降ってくるものだから、ノーチェはただ疑問を抱えたまま「え、と」と口を溢す。
よく見れば彼の体を抱えるよう、終焉の腕が回されていた。
「……寝かしたはいいが…………私が眠れなくて。ノーチェも魘されているし、考えた結果がこれだ……許してくれ」
終焉は頼りない言葉でノーチェに告げると、徐に体を起こし始める。それに倣うようノーチェもゆっくりと体を起こすと、体の異変に目を丸くした。気怠さと、熱、そして寒気のない快適な感覚は、まるで初めての経験のようだった。
これが薬の効果か。――そう思うや否や、ノーチェの体を終焉が柔く抱き留める。彼はそれに驚き、体を強張らせて息を呑んだ。
緊張とほんの少しの恐怖。悪夢の影響か、終焉がノーチェに手を出すことなどないというにも拘わらず、彼はその後に何が来るのかとつい身構えてしまった。飛び跳ねるような心臓の音がまるで耳元で鳴り続けているよう。煩くて、吐き気すらも覚えてしまう。
それでも彼は男を突き放すこともなく、黙ってそれを受け入れていた。驚いて身動きの取れないノーチェを宥めるよう、終焉が頭を撫でて背中を軽く叩いていたからだ。
「怖い夢でも見たか」
まるでこちらを見透かしているような言葉に、ノーチェはうっ、と声を上げた。終焉が見たノーチェがどれほど魘されていたのか、彼自身が知ることはない。
だが、男が黙ってノーチェを抱き寄せ、彼を子供のようにあやす素振りを見ると、相当魘されていたのだろう。言及こそはしないが、男からはそれとなく知りたいと思う気持ちが伝わるような気がした。
怖い夢――そう言われて、彼はぼうっと男の手の動きを感じる。眠気を掻き立てるような一定のリズムで撫でたり、叩いたりするものだから、呼吸が整い始めた。
身動ぎすらもできなかった強張っていた体が、次第にほぐれるように力が抜けていく。そうしているうちに、何やら目頭が熱くなって、彼は徐に終焉の服をぐっと握り締めた。
「…………早く死にたい……」
ぽつりと呟いた言葉に、男が「それは無理だ」と告げる。
「……私に貴方は殺せない……私は、貴方を見殺しにはしない……分かってくれ」
愛しているんだ。
随分と久し振りに聞いたと、彼は思った。元より終焉は常日頃からノーチェに愛を告げるような男ではなかったが、今に至るまで「愛している」と告げたことは殆どない。まるで彼にそう告げることを控えているかのようだ。
ノーチェは終焉の腕の中でぼんやりと男の愛を受け取った。やけに耳触りのいい、温かい言葉だ。奴隷として首輪をあてがわれてから一度だって聞くことのなかったそれを、見目のいい男に言われるなど誰が思おうか。
彼は「分かってる」と小さく呟きながら僅かに顔を男の肩に埋める。普段なら冷たく、まるで氷のように思える終焉の体だが、今はいやに温もりがあった。そうして体や、髪の毛から微かに甘い香りが漂ってくる。この屋敷に来てから幾度となく感じてきた洗髪剤や、入浴剤の香りだと知ると、男の体が温かいことが納得できた。
「…………俺だって、奴隷になんてなりたくなかった」
「…………ああ」
漂う香りと温もりに絆されるように何気なく弱音を吐くと、男はよりいっそう抱き留める腕に力を込める。彼はそれ以上何かを言うことはなかったが、終焉からは離れる様子を見せない。ほんの少し気持ちが落ち着くまで宥めてくる手を味わおうと、黙って受け入れているのだ。
それを知ってか知らずか。男は離すこともなければ、撫でる手をやめるわけでもない。ただノーチェが満足するまで一定のリズムを刻み続け、気紛れに――且つ眠たげに、ふと言葉を呟く。
「――状況が改善されたら、皆殺しにしてしまおうか」
――それが終焉にとって「冗談」であるはずがないと、ノーチェは薄々気が付いていた。
「……殺して、もう誰も貴方に手を出せないように、仕向けてしまおうか」
ゆっくりと撫でて言葉を紡ぐ様は、まるで彼の体に終焉の言葉を染み込ませるようだった。
状況が改善されたら。それは、ノーチェの首輪が外れ、奴隷から解放されたら、ということになるだろう。現状ノーチェ自身は首輪が外れたことや、外れる可能性など少しも考えたことはないが、どうにも終焉は先にある可能性の話を持ち掛けてくることがある。
まるでそうなることが決まっていると言いたげな口振りに、彼は思わず「いいなぁ」と呟いた。
「…………もう、こんなんならないよう、皆いなくなればいいのになあ……」
終焉はあくまでノーチェが奴隷から解放されると思っているが、ノーチェは自分が奴隷から解放されるなどと思ってはいない。結局最後までいいように扱われ、惨めに野垂れ死ぬのだと思い描いているのだ。
だからこそ彼は自分の願望を含めるように小さく呟いてみせた。少しも温かくない男の体に縋っているはずだが、ほんのり温もりを感じる錯覚さえも覚えてしまう。これは終焉なりの優しさだろうか――男は何も言わず、ただ頭を撫でるだけだ。
夜がすっかり更けている所為か、外から音など聞こえてくるはずもない。それどころか不思議と音が消えていく錯覚さえもある。冬特有の静けさと寒さがノーチェの背中を這ってきた。彼の熱が治りかけている証拠だろう。
ほんのり眠気を感じてきたが、ノーチェは眠ることに抵抗を覚えている。目を閉じ、意識を失ってから再び望みもしない夢を見せられてしまうとなると、彼もろくに眠れやしないのだ。
――しかし、欲求には抗えず、彼は「んー……」と小さく唸り声を上げた。終焉が僅かに動き、ノーチェの顔を窺った様子が分かる。密着していたであろう体が少しだけ離れるものだから、彼は重い瞼を開いた。
「…………寝よう」
ノーチェを言い聞かせるよう、ぽつりと呟いた終焉は、彼よりも遥かに眠そうに見える。普段なら凛々しく開いた切れの長い瞳が、今ではすっかり蕩けたように緩く、眉尻が下がっている。終焉も眠いはずなのだ。
だが、眠いはずの彼は渋ったまま、男へ返事をすることもない。ただそうっと視線を逸らし、眉間にシワを寄せて口を噤んだままだった。特別「寝たくない」や「眠くない」などの言葉を洩らすことはない。
その様子を見かねて終焉はじっとノーチェを見つめたあと、仕方がなさそうに一度だけ目を閉じ、彼の体に回した手をくっと引き寄せ、掛け布団と共に寝具へと倒れ込む。ギッ、とほんの少しだけ軋んだ音が鳴った。
何の一言もなく男と共に倒れ込んだノーチェは、ほんのり目を丸くして「あの、」と口を溢す。腕の中で見上げた終焉は目を閉じて、彼の体をゆっくりと叩いた。その手の力があまりにも弱く、間隔も広いことから酷い眠気に見舞われているのだと、彼は思う。
その中で男は「……寝てくれ」と小さく言う。
「……怖い夢を見たのなら、今日だけ添い寝をしよう。少しなら気晴らしでも、なるだろう」
特別だ。
――そう言って終焉はノーチェの体を抱き寄せたまま、深い呼吸を繰り返し始める。抱き寄せられ体に密着する形になった彼は、男の胸や腹がゆっくりと息を繰り返しているのを感じた。眠りに落ちている人間特有の息遣いだ。
ただこの人が眠りたかっただけなのではないかと、頭の片隅で思う。しかし、ノーチェもまた眠気に襲われているのもまた事実だ。終焉の呼吸が、抱き寄せる腕がやたらと心地好く、瞼が落ちる。
――また、嫌な夢を見るのではないだろうか。そんな不安がよぎる。
だが、そんな不安とは裏腹に意識はどんどん遠く――、彼は意識の手綱を手放してしまった。
――そうして夢を見た。相も変わらず嫌な夢を見た。人権も、何もない非道な扱いを受ける夢だ。生きていて報われることなど何ひとつないのだと、思わされる夢だった。
――しかし、唐突に目の前が暗くなり、辺り一帯は一面の闇に包まれてしまう。
彼は瞬きを数回繰り返し、横たわっていた体を僅かに起こした。どこを見ても何もありはしない。何の音も聞こえず、生き物の息遣いもない。試しに手を伸ばして見るものの、何も触れることがなかった。
ここまで何も見えないのは初めてのことだった。〝ニュクスの遣い〟はその名の通り、夜の女神の遣いだ。夜の世界で目が利かないなど、ただの笑い事でしかないが――、夜と闇では意味合いが異なる。少しの光も通さない一面の闇は、彼の視界を奪ってしまった。
――だが、それでも不安は少しも感じられなかった。妙な安心感と心地好さに、彼は伸ばしている手を泳がせてみる。何も当たらないはずなのに、不意に彼の手のひらに柔らかな毛並みが当たった。息遣いは聞こえないが、息をしているかのようにそれはゆっくりと呼吸を繰り返している。
ノーチェは驚きを覚えたが、何もないよりはマシだとそれに近付き、寄り添った。独りでいる不安を獣のような何かがゆっくりと溶かしていくような感覚がした。虐げられることも、侮辱されることも、軽蔑されることもない時間はいつぶりだろうかと、頭の片隅で考える。
何ものにも関与されない平穏に彼は安心して、それにぐっとしがみついていた。