リーリエからの薬は驚くほど効果が出た。
明朝、目を覚ましたノーチェは部屋の薄暗さに目を丸くしたが、昨夜自分がどこにいたのかを思い出して納得をする。ゆるりと体を起こして、ぼんやりと部屋の中を見つめていると、隣にあるはずの姿がないことに気が付いた。
すっかり藻抜けの殻になった隣に、彼はムッと眉を顰める。どうせならしっかり治ったことを確認してから出てほしいものだと、何故か思ってしまった。
昨日までの体の重さや気怠さは嘘のようで、体を起こしたノーチェは寝具から這い出て床に足を着く。あまりの体の軽さに、今までの不調すらも治ってしまったのではないかと思いながら背を伸ばし、彼は終焉の部屋を出た。
廊下に出ると肌を刺すような冷たい空気が伝わる。何度目かの寒気を感じ、彼は腕を抱えた。そんな中でほんのり芳しい香りが漂ってくるものだから、ノーチェの腹は数年振りに空腹を感じるかのように、くぅ、と鳴る。
腹が減っているときほど、終焉が作る食事はいやに美味い。
――そのことを知っている彼は、ほんの少し胸を高鳴らせながらリビングの扉を開けた。
「…………少年!?」
扉を開けた矢先、驚きのあまり目を丸くしていたのはリーリエだった。小麦畑のように煌めく髪を緩くまとめ、ナイフとフォークを携えている。テーブルに置かれたフレンチトーストはまさに出来立てのようだ。ほうほうと沸き立つ湯気に彼は、いいな、なんて思いながら女に近付いた。
リーリエはナイフとフォークを投げ出し、勢いのままノーチェの肩を掴む。カラン、と食器がテーブルに叩き付けられた音がした。「ちょっとあんた大丈夫なの!?」そう言って肩を揺さぶってくるリーリエに、ノーチェは顔を顰める。
「一時はどうなるかと思ったのよ! あんたがいなくなったら、もう……」
まるで泣き出しそうな声色にノーチェは責め立てることもできず、体を揺さぶられながら「そんなに酷かったんだ」と小さく呟く。朝食もそっちのけ、自分を心配してくれる女に程好く感謝を覚えながら、キッチンに続く扉をぼうっと見つめた。
これだけ騒いでいても、キッチンにいるであろう終焉は少しも顔を見せることはない。それほどまでに忙しいのかと、彼は頭を悩ませていると――ふと、目の前に黒い蝶がひらりと舞った。
「――う、!?」
――直後、ノーチェの目の前に五匹はいるであろう蝶が目映い光と共に飛び交う。それはリーリエから発せられていると知るや否や、彼は「何してんの」と小さく呟いた。
黒く、影のような蝶ではあるが、ただの影のように黒いだけではない。白抜きされたような模様はほんのり光を放っているようにさえ見える。
その蝶がノーチェの肩や、頭に足をついてみせるものだから、ほんの少しだけ鬱陶しいという感情が芽生えた。
「――……体を軽く診させてもらったわ。うん、もう何の問題もない。何の悪影響もないわ」
本当によかった。
――そう言ってリーリエはノーチェの肩から手を離し、出来立てのフレンチトーストへと向き直る。気が付けば黒い蝶はすっかり跡形もなく消えてしまっていて、見る影もない。あの光景はリーリエの魔力が引き起こしたものであると、彼は納得して腕をさする。
体に異常はない。何の悪影響もない。――その事実が、ノーチェの安心感を引き立たせる。この事実を知れば終焉は喜んでくれるのだろうか――。
「さ、少年も隣座って! 待っていればエンディアが朝ごはんをくれるわよ~」
「…………ん」
促されるままノーチェはリーリエの隣にある椅子を引いた。客間とは違った座り心地の椅子に腰掛けて、軽く足を揺らす。キッチンの扉の向こうからやたらと心地のいい音が鳴っていた。
男は甘いもの以外を口にすることはない。――そのことから、今手掛けているものはリーリエのものか、ノーチェのために用意されるものだろう。
先日までは何も口にできなかったということもあり、ノーチェは終焉が来るのを今か今かと待っていた。隣ではリーリエはこれ見よがしに、やけに美味そうに食べるものだから、腹の虫が治まることを知らない。くぅくぅと鳴る腹に手を当てて、「まだかな」なんて呟く始末だ。
――そうしてノーチェが待ちぼうけて凡そ数分。不意に扉が開き、片手――というよりは最早片腕――に皿を器用に載せた終焉が、キッチンの向こうからやって来る。ほんのり甘さを含んだ柔らかな香りが彼の鼻をくすぐった。それを期に、腹の虫がなおのこと主張し始めるものだから、恥ずかしささえも覚えてしまう。
しかし、そんなことを気にすることもなく、終焉はノーチェの目の前に一皿置いた。まるで初めから彼がそこに居座るのが分かっていたかのように。
何の気なしにノーチェは終焉を見やると、ほんのり伏せられた男の目と目があった。普段と何の代わりもない、澄んでいるようで仄暗い瞳だ。顔も綺麗だが、目も綺麗だと思うや否や、すっと終焉の目が逸らされる。
――避けられたのかと一瞬だけ傷付いたような気がした。
けれど、男のその仕草が、ただの照れ隠しであることを知っている彼は、僅かに頭を悩ませる。何か気に留めることがあったのだろうかと、小首を傾げた。
「あ! 何であんた達二人ともホットケーキなの!? 私も食べたい!」
「久し振りに私も口にしたくなったからだ。子供のような駄々をこねないでもらえるか」
ノーチェの悩みを他所に、リーリエは彼らの手元のそれを見ると声を上げた。女特有のキンキンと鳴り響くような声は、病み上がりのノーチェにとってはいやに頭に響くものだ。堪らず顔を顰めると、それに気が付いたであろう終焉が、リーリエに向かって睨みを利かせる。
女が声を上げるもの無理はない。ノーチェの向かい側に座っている終焉や、ノーチェの手元に置かれた出来立てのホットケーキには、メイプルシロップがふんだんに使われている。真っ白な粉砂糖がほんのりまぶされ、皿の上にも雪化粧が施されているのを見ると、なおのこと食欲が掻き立てられるのだ。
いいな、などと宣うリーリエを横目に、彼はほんの少しの優越感に浸った。いくら首輪があしらわれた奴隷でも、今だけは一人の人間と同じように振る舞えるような気がして、「いいだろ」なんて呟く。そのまま用意されたナイフで軽くケーキを切り分け、一口サイズになったそれを、フォークで口に運んだ。
甘く、綻ぶような柔らかさに舌鼓を打つ。隣で「私だけ除け者にするなんて」と愚痴を溢すリーリエも、フレンチトーストを口に運んでいた。
「美味いか」
相変わらず口癖のように味を訊いてくる終焉に、ノーチェは首を縦に振る。その隣でリーリエも「美味しいわ~!」と声を上げるものだから、男は満足げに口許だけで小さく微笑んだのだった。