不安の中で見えた気持ち

 ――そんな調子で一日を越えたノーチェは、夜を迎えてから漸く自室へと向かった。たった一晩離れていただけだというのに、まるで数日ぶりであるかのような感覚にほう、と吐息を吐く。終焉の手によって整えられたであろう部屋は、まるで初めて部屋を与えられたときのように綺麗だった。
 換気のために空けられた窓を閉め、カーテンで外と中を遮断させる。あれだけ休んでいたというのに、あくびが口から溢れた。まともな休息を求めているのだろう。

 彼は質素な部屋の中を歩き、丁寧に整えられた寝具へと腰掛ける。男の部屋にあるものと何ら変わりのない質感に、どの家具も同じものなのだと納得してから、布団をかぶる。冬になってから厚手になった布団にほっと一息。顔まで埋めて、ノーチェは眠気が来るのを今か今かと待ちわびた。

「………………?」

 数秒、数分。時計はないはずなのに、秒針が時を刻むような音がなっている錯覚を覚える。眠いはずなのに全く眠気がやってこない。それどころか、時が経つにつれて目が冴えるばかりだ。
 ――それと同時に、胸の奥がざわつくような感覚を覚え、ノーチェはくしゃりと顔を歪める。息を吸っているはずなのに止まっているかのように息苦しく、何もないはずなのに何かが迫っているような気がしてならない。ぐるぐる、ぐるぐると視界が回り始めるような感覚は、ノーチェの中にある小さな恐怖心を煽った。

 ――何だろう、この不安は。

 堪らずノーチェは布団から這い出て、咄嗟に部屋を出る。目の前に広がる廊下を歩き、あてもなくそっと階段を下りた。赤黒い絨毯がノーチェの素足を包む。トントン、と降りて、あてもなくエントランス前を右往左往して、落ち着きのない自分をどうしたらいいのか分からなくなった。
 暗い。夜だから当たり前のことではあるが、その暗さがどうにもノーチェから落ち着きを奪っている。日中では確かに賑やかだった時間があった所為か、静まり返った屋敷の中は彼の不安を執拗に掻き立てた。

「…………っ……」

 言葉は出ない。胸の奥に広がり続ける蟠りとざわめきに、吐き気すら覚えてしまう。冬の所為も相まってか、全身から血の気が引くような気がしてならなかった。ここには自分一人しかいない――そんな錯覚が、ノーチェの恐怖心をより大きくするのだ。

 ――だが、分かっている。屋敷に一人しかいないなんてこと、あるはずがない。

 ノーチェは迷った末にエントランス付近で彷徨くことをやめ、終焉の部屋へと足を向ける。部屋に近付くにつれて華やかな香りが強くなるが、それは終焉が風呂を終えたということの裏付けだ。ほんのり高鳴る鼓動の理由を考えながら彼は扉に手をかけ、男を刺激しないようにそっと開けた。
 部屋の中は相変わらず薄暗い。ノーチェに与えられた部屋など非にならないほど、どんよりとしていて息が詰まるほど。

 しかし、今の彼にとってその暗さが何よりも心地好く、安心感を抱かせるのだ。

 部屋に押し入り、扉を閉めてからノーチェは寝具へと近付いていく。そこには案の定終焉が布団をかぶって小さな寝息を立てていた。ノーチェが眠れないことを知らないまま眠るその姿は、遊び疲れて眠ってしまった子供のようにすら思えてしまう。
 試しにノーチェは終焉の体を揺さぶり、起こそうと試みた。恥ずかしい話ではあるが、どうにも一人で寝ようとすると恐ろしさが勝ってしまう。眠気が来るまでの話し相手になってほしい気持ちだった。

 ――けれど、いくら体を揺さぶろうが男は目を覚ます兆しを見せなかった。いつの日か聞かされた「死んでいる」などという言葉が脳裏をよぎり、まさかと胸の奥が騒いだような気がしたが、男がほんのり嫌そうな声を上げてほっと息を吐く。
 死んでいない。死んでいるわけがない。――憑き物が落ちたかのように胸を撫で下ろしたが、ノーチェの悩みが解決することはなかった。

 眠れる気がしない。眠れるとは思えない。万が一意識を失って、また嫌な夢を見てしまえば、どんな目に遭わされるかも分からない。

 彼は懸命に終焉を起こそうとした。「起きてくんないの」なんて声を掛けてみるものの、男は唸るだけで目を覚ますことはなかった。
 そうこうしている間に寒さが足元から広がって、遂にノーチェは体を震わせる。布団の中に潜りたいが、夢を見たくはない。先日まで見ていたものを見たくはない。――そう、思っていた。

 思って、はたと止まる。
 自分の体験をなぞるような、あんな夢を見たあとはどんな方法で眠ったのかを、記憶の底から引きずり出した。

 賛同も、合意もなかったが、確かに終焉の腕の中で眠ったあとは嫌なものを見ることはなかった。人の気配も景色もない黒い空間ばかりが広がっていたが、その空間は男の部屋といやに似ているような気がして、ほんの少しだけ安堵の息を吐く。行動に出ようか思い悩むが、行動に移せないのは欠片だけ残ったノーチェのプライドが、邪魔をするからだ。

 いい大人が何を血迷って添い寝を求めているのだろうか。
 けれど、あれこれ考えても現状はよくなりはしないのだ。

 悩みに悩み、頭を捻らせた結果――ノーチェは終焉の布団をめくり、隙間から体を入れる。普段なら生きているとは思えないほど冷たい体をしている男だが、潜り込んだ布団の中はやけに温かかった。
 風呂で得た温もりが布団の中に広がっているのだろうか――。そう思うと、深く眠る理由がよく分かるような気がした。

 ノーチェが恥を凌ぎ男の布団に潜るものの、終焉は目を覚まさなかった。酷く心地好さそうな寝顔をしているものだから、それを眺める彼もまた、眠気を誘われてしまう。
 くぁ、とあくびを溢して何気なく顔を男の体に寄せると、終焉が「ぅ、」と声を上げた。

 ――起きたかな。

 そう思ってちらりと横目で顔を見る。すると、終焉は薄目を開けて、ぼんやりとした目付きのままノーチェを見つめるものだから、彼はいたたまれなくなった。
 文句のひとつでも言われればすぐに立ち去る予定だった。驚き、「何でこんなところに」なんて言われれば、恥ずかしいものの踏ん切りはつくはずだ。そのあといくら眠れなかろうが、男には何ら関係がないのだから。
 ノーチェは終焉の言葉を待ち、口を開かずにじっとその目を見ていた。普段とは異なり、鋭さも威圧もないそれは、不思議そうにノーチェを見つめている。現状を理解しようとしているのかは定かではないが、追及はいつまで経っても行われなかった。
 その代わりに――男の手が、ノーチェの頭に置かれるのだ。

「――……可愛いやつだな……」

 そう、ぽつりと呟かれた言葉に、彼は確かに恥ずかしさを抱き直した。通常であれば今すぐにでも抜け出し、自室にこもるほどの羞恥だ。今まで何でもないような顔をしていたくせに、今になって甘えてしまうなど、彼のプライドが一切許してはくれないのだ。

 ――だが、緩やかに、頭を撫でてくる男の手に、どうしようもない安心感を抱くのもまた事実。決して拒むことのないそれに、甘え直すようにすり寄ってみれば、終焉は眠そうに軽く頭を叩く。
 そして小さく「おやすみ」なんて言うものだから、彼はうつらうつらと船を漕ぐ。

 男はノーチェに手を出すことはない。間違った行動を取ることはない。決して自分を売ることもしない。
 その確信と、安心は眠気に襲われつつあるノーチェの口から、確かに言葉を紡がせたのだ。

「………………好き、だなぁ……」

 ――誰も彼の言葉を聞き入れてはいない。冬の中で呟かれたそれは、数秒が経つ頃にはすっかり静けさに呑まれて消えてしまった。

 だが、それでいい。
 無意識のうちに呟いていたらしい言葉を自覚し、ノーチェはゆっくりと目を閉じた。暗闇で漂う仄かな桃の香りに、彼の恐怖心はすっかり鳴りを潜め、安心して眠りに就くのだった。