人の波の行く先に

 夢とは酷く曖昧で、目を覚ます頃には随分と景色が違っていたような気がすることが多い。当然、ゆっくりと目を覚ました終焉もまた色々な夢を見てしまっていて、体を起こす頃にはやけに機嫌が悪そうに目頭を押さえる。

 初めに見たものは随分と楽しげなものだった。夜だというのに明るい光がぱちぱちと音を立てながら瞬くのだ。それの名前を男は知りもしなかったが、今となっては懐かしい過去の話。記憶の中に朧気に光るそれが花火だということに気が付いて、ほう、と吐息を洩らす。
 次に見たものは酷く不愉快なものだった。あまり思い出したくもないのだろう――顔を覆うように当てられた手のひらにぐっと力が込められ、小さな舌打ちを洩らす。太陽は喜びを表すように輝き、力なく倒れる感覚はこの上ないほど絶望的だった。

 祭りの賑わいが遥か遠くに思えるほど嫌な夢を見たものだ。――終焉は目頭を押さえていた手を下ろすと、遠くのものを見るようにぼうっと地面を見つめる。嫌な夢ほど忘れにくく、楽しい夢ほど忘れやすい脳の造りは非常に厄介だった。多少嫌そうに眉間にシワを寄せる様は誰が見ても――ノーチェから見ても不機嫌に思えた。

「…………だから言ったんだ」

 ポツリ。呟いた言葉は全ての状況を把握しているようで、男は再び深い溜め息を吐く。
 ここ数日ろくに眠れていないのが原因だろう。夏の日差しは眠りを妨げ、いくら遮光しようとも溢れる光が終焉の目を焼き付けて、深く眠ることもままならない。再び眠るためには夜のような深く濃密な暗闇でなければ体が納得しないのだ。
 それに加え、数日に亘って行っている行動は確かに自分を追い詰めているものになるだろう。

 ――それでも終焉には手に取るように分かっていた。一向に戻る気配のない彼の存在が遠く遠く離れていることに。

 耳を澄ませてみれば遠くに聞こえる人の声が量を増しているのがよく分かる。人混みに呑まれたのだろうか、という考えに落ち着くのに数分もかからず、自分がついていかなかったことに憤りを覚えて小さく舌打ちを溢す。「だからついていくと言ったのに」なんて誰かが聞いているようで聞いていない言葉を洩らし、徐にベンチから立ち上がる。

 夜に落ちた空に浮かぶ月明かりは柔らかく、普段なら僅かに聞こえる鳥の鳴き声は祭り囃子で耳にも届かない。ほんの少し暑さを和らげた風がほんのり頬を撫でて焦燥感を掻き立てるように思えた。
 微かに揺れる前髪を払ってほう、と溜め息をひとつ。終焉は足を踏み出して、静かなその場を後に歩く。向かうのは目の前を縦横無尽に歩き回る人の海だ。賑わいと眩しさにまみれたそこは、終焉にとってはただの毒のようなもので、無表情ながらも小さく眉を顰める様子からは嫌悪が滲み出る。

 ノーチェが傍らに居ないということ自体が随分と懐かしく思えてしまった。今まではそうであった筈が、今ではその事実が受け入れられず、胸の奥に潜む不安が小さく胸を掻く。彼はどこに行ってしまったのだろう――そんな囁きが耳元で呟かれたような感覚にさえ陥るのだ。
 土だった地面から一変、整備された石畳へ足を踏み入れた終焉が向かうのは勿論ノーチェが向かった筈の場所だ。灯りに当てられて艶めきを増す赤を点々と並べたそれに向かって――それでも列は乱さずに並んで――店主へと顔を合わせた。
 ざわざわと辺りから沸き立つ歓声を差し押さえ、店主は見上げた先の顔を見て「うおっ」と驚く声を上げる。辺りではまともに見かけない長身の、全身に黒をまとった男が感情もこもらない瞳でじいっと店主を見つめていたからだ。驚くのも無理はないだろう。
 ああ、何だ客か――そう思うと同時に店主から溢れた言葉は黒に対する嫌悪だった。

「……黒い…………服……」

 子供達に向けていた笑顔から一変。僅かに眉を顰め表情を強張らせるその男に終焉は形のいい唇を開く。「人を探している」――そう呟かれた言葉は辺りが賑やかであればあるほど聞こえないものの筈なのに、何故だか辺りが静寂に静まり返ったかのようにすんなりと聞き取れた。
 「……人……?」思わず呟いた言葉に赤い瞳が鋭さを増す。蛇に睨まれた蛙という感覚はこのような状態を指すのだろう――そう思えるほど、店主は身動きが取れなかった。

「……白髪の青年を探している。白髪に、反転した瞳が特徴的な青年だ」

 淡々とした声で呟かれた言葉はあまりにも冷たく、店主は不思議と夏の暑さよりも氷のような冷たさを感じる。足元を這って伝うひんやりとした寒気は、普通の生活を送っていて経験することなどまずないだろう。「ご存じか」と窺うような声色でさえ、怒気を含んでいるように思えるのだから尚更だ。
 「白髪……?」と思わず戸惑うような声を溢し、店主はそれをまじまじと見つめた。

 見つめる先に居るのは紛れもなく黒衣に身を包んだ男だ。店主を見つめる瞳は恐ろしいほどに冷たく、声は低く威圧的だ。――しかし、髪の艶や肌の色は女のそれとよく似ていて、いやに目を惹くものではある。敵意や悪意を向けているわけではないのだろうが――人間というものを好んではいないような様子だ。
 そんな男を見て店主は小さく「あんたが変わり者か」と呟いた。「あんたが変わり者の物好きか」と。――それに終焉は瞬きをひとつ落とし、「変わり者とは心外だな」と口を洩らした。

「白髪の兄ちゃんなら確かに来た……りんご飴を買っていって、途中で人の波に攫われたんだ……」

 くぐもったような声で、終焉の様子を窺いながら紡いでいる言葉に含まれているのは――まさに恐怖そのものだ。

 知らず知らずの間に終焉は人間相手に恐怖を与えているのだと気が付くと、男は「そうか」と呟きを洩らしながら目を閉じる。「悪かったな」そう言って――ポケットからしまっていた手を出すと、店主に向かって軽く握るような動作を取る。柔く、割れ物を包むように優しく。

 ――すると、終焉の足元が僅かに揺れ動き、店主はそれを凝視したままピクリとも動くことはなかった。
 終焉はそのまま黙って店主の前から離れると、店主はハッとした様子で瞬きをひとつ――「俺は今何してたんだ……?」と首を傾げ茫然としていると、子供達が「アメください」と言ってきた。男はそれに今まで何をしていたのかを考えることをやめて、人がよさそうな笑みを浮かべながら応対し始めたのだ。

 ――コツン。
 賑わいの中でも終焉の足は石畳を強く踏み締め、人の波を慣れた様子で軽く避ける。宛もなくどこを探そうかと思うものの、人混みに呑まれたノーチェの姿など探しようもなく、匂いを辿ろうにも自慢の嗅覚は祭りの様々な香りで使い物にならない。さて、どうしたものか――そう思いながら口許に手を当てて考える素振りを見せるものの、思いとは裏腹に体は歩むことを拒絶していた。
 酷い倦怠感が体を襲う。一歩を踏み締めるための足は重く、肩には何かが乗っているのかと錯覚さえしてしまうほど背筋は伸ばせない。生きるために必要な呼吸でさえも今は億劫で、繰り返されるのは肺の中に溜まった残り物の空気を押し出すだけの、大きな溜め息でしかなかった。

 ――あまり長居はしたくない。

 ふぅ、と肩の荷を下ろすように幾度目かの溜め息を吐いた。行き交う街の人々はそれにすら気が付かず街の中央へ向かうのに勤しんでいた。中央の――噴水広場にはショーだのパレードだのと言っても差し支えがないイベントが開催されるのだ。鮮やかなイルミネーションや魔法を使った見世物は人々の心を躍らせて、子供達ははしゃぎ回る。分けた与えられる手持ちの花火に火を灯して爛々と輝く表情を浮かべるのは、何も子供達だけの特権ではないのだ。
 ――そんな時間がもうじきやって来る。和気藹々と話ながらその時を待つ彼らの手には沢山の食べ物と出店で得た景品ばかりだ。目に優しくない色合いの水風船や、小さな袋に閉じ込められた赤い小魚。祭りを楽しんだ足跡がそこかしこに転がっていて、終焉は思わず目を細めた。

 何も楽しめやしないのだ。――何も。

 徐に波から離れていく男の足は頼りないほど重く、どこか影の差す表情は俯きがちで、閉じた唇から溢れる溜め息はあまりにも深く、憂いさえ帯びている。人混みには普段から身を投じるものから、慣れていたとは思っていたのだが――、やはり祭り事となると輝かしさを増すことには慣れやしないのだ。
 普段見える星達もこの日ばかりは灯りですっかり見えなくなってしまっていて、終焉は遂に人混みから離れた場所で壁に寄り掛かる。眠気も相まってか深く吐き出される吐息は熱を帯びていて、放っておけばすぐにでも眠りに就いてしまうのではないかと思うほどだ。
 ――いや、実際に思っていたのだ。先程の静寂が広がる場所へと戻って、気が済むまで眠ってしまおうかと思っていたのだ。

 ――しかし、今、終焉の傍にはノーチェが居ない。その事実が男の焦燥感を掻き立て、不安が波のように押し寄せて止まないのだ。こんな状況で深い眠りに就こうなど、誰が思えただろうか。
 とはいえ終焉の体は重く、ろくに姿勢を正すこともままならないまま、刻一刻と時が過ぎていく。相も変わらず人の波は中方へと流れていて、終焉はただそれを見下ろすだけ。流れに身を任せる気も逆らう気もないままで、ただぼんやりと思考を巡らせていく。

 今一度彼の言葉を信じてみることにするべきだろうか――。

 終焉がノーチェを離す前に彼は「自分で戻れる」と言ったのだ。ろくに街を巡ったわけではなく、全てを把握しているわけもないのに、終焉の身を案じて足手まといにならないよう気を遣った。本人はおろか、終焉さえもそれは信用できないものに等しいのだが――、思うように体が動かなければ彼の言葉を信じる他ないだろう。
 何より、愛している以上、信じることも大切なのだと思ってしまうのだ。

 ――皆殺しは勘弁しておいてやろう。

 ほう、と吐息を吐きながら心中で言葉を紡いだ終焉は、壁に寄り掛かりながら腕を組む。レンガ造りの壁はフードが落ちて隠さなくなった頭に当たり、僅かに痛みさえも覚えたほど硬かった。「寝心地が悪いな」なんて独り言を呟いてはゆったりとした呼吸を繰り返し、今にも寝てしまいそうな雰囲気を醸し出す。
 フードをかぶり直そうかと何度思っただろうか――閉じる瞼越しにやって来る街の明るさは酷く煩わしく、はあ、と呆れるように溜め息を吐いた頃、それが不意に目の前にやって来た。

「……無防備なのに殺せやしねぇ」

 チッ、と大きな舌打ちを洩らす赤髪の男――ヴェルダリアが不愉快そうに呟いた。彼は〝教会〟に居る頃の服装とは違って深緑を強調とした色合いのものをまとっているが、終焉に向ける敵意は相変わらずのものだった。頬や額にある古びた傷痕も隠すことなく横目で終焉を睨むと、「お得意の存在認知の回避かぁ?」なんて言う。

 ヴェルダリアが怪訝そうに終焉に呟いたのも無理はない。男は街に赴くときは大抵自分の存在を朧気にしている。以前終焉がノーチェを拉致するときにも使ったひとつの手だ。――それは魔法とは一風変わった、ただの技術である。

 魔法が存在を主張するためのひとつの手だとすれば、終焉が行っているのは自分への意識が向かなくなるもの――自分の気配を極端に朧気にしたものだ。例えば、道端に落ちている小石など誰も見向きはしない。野に咲く小さな花など、意識をしなければ認識することもできない――といったようなもの。
 極端に気配を薄めた終焉は住人からすれば、ルフランに住む住人の中の一人、という認識になる。一度は目にするものの、誰もがその姿形を記憶に留めておくことはできず、先程まで誰とどう会話していたのかさえも思い出せない。誰かが居たような気がするのに誰が居たのか思い出せない――そんな存在だ。
 無論そうすることによって終焉や住人にはメリットがある。極力存在を薄めたことにより男は〝教会〟の目につくことはなく、住人は〝終焉の者〟の象徴として恐れている「黒」を目にすることはない。互いに平和的に過ごせるからこそ、終焉はそれをやめることはないのだ。

 ――しかし、そんな終焉を認識することのできる人間が多少なりとも居る。パターンで言えば二通りになるだろう。

 ひとつは終焉と日常的に直接関わる機会のある者。リーリエやノーチェがいい例だろう。彼らは「ルフランの住人」として街に居るだけでなく、普段から終焉と関わることが殆どだ。どれだけ終焉が存在を朧にしようとも、彼らに刷り込まれた「終焉への印象」が見逃すことをよしとはしないのだ。
 そしてもうひとつは、終焉とは波長の合わない者――謂わば、終焉を心から嫌い、終焉が最も嫌悪する者だ。

「…………犬の鳴き声が煩わしいな」

 嫌悪丸出しに紡がれた言葉に、終焉はさも興味無さげにぽつりと言葉を洩らした。壁に寄り掛かりながら溜め息を吐く様はあまりにも鬱陶しげで、目は閉じたままヴェルダリアの姿を見ようともしない。
 あまりにも露骨な嫌悪に彼もまた神経が逆撫でされたのだろう。ヴェルダリアは眉間にシワを寄せて「はぁ?」と言った。

 終焉と波長の合わない人間は嫌でも男の存在に気が付いてしまう。例えるならば、いくら終焉が気配を薄めようとも動物が発している振動が波のように打ち寄せて、本人の肌を刺すような空気を感じるのだ。ピリピリやチクチクといった、気になってしまえば酷く不快な感覚がこびりついて離れない――ヴェルダリアが体感しているのはそういった感覚だ。
 故に彼はいくら終焉が極端に気配を薄めようとも、ヴェルダリア自身が見たくなかろうとも、結局は見付けてしまうのだ。

「ルフランの異端者が暢気に祭りなんて堪能しなければ、煩わしさなんて感じなかっただろうがよぉ」
「……ほう、貴様には今、私は堪能しているように見えると……」

 「随分とネジの外れた頭と目だな」終焉は相も変わらずヴェルダリアの顔を見ないまま挑発的に言葉を紡いで、相手の様子を窺った。ヴェルダリアは終焉の一言一句にただひたすら苛立ちを覚えているようで、爪先が石畳を突く音が次第に速くなり、目付きは悪くなる。

 放っておいてしまえば今すぐにでも男に飛び掛かるのではないかと思えるほどだが――そうしないのは彼が〝教会〟の人間であり、今日という日が祭りだからだろう。

 終焉は挑発しながら〝教会〟の姿勢には何気なく安堵の息を吐く。何せ〝教会〟にとって男は「異端者」や「化け物」であり、見付けたら速攻で排除すべき存在なのだ。祭りや人通りの多いところでは手を出さない彼らではあるが、それは極力被害を出したくない一心なのだろう。
 かくいう終焉もまたそういった場所で暴れる気はなかった。勿論被害を最小限に留めたいから――ではなく、あくまでノーチェの安全を確保できないからだ。
 人通りが多ければ多いほど、今のように人の波に攫われて終焉の目の届かないところにまで流されてしまっては気が気でない。そういった懸念をしているからこそ、男はむやみやたらに手を出すことはしないのだ。
 針のように鋭く刺してくる殺気を向けてくるヴェルダリアは、終焉がろくに――と言うよりは普段から――相手をしないのだと分かると、大きく舌打ちをしてから気を紛らせるように「そういや」と唇を開く。

「近頃不審な失踪事件が起こってるって噂だなぁ……」
「…………」

 それに終焉は返事をすることはなかったが、ゆっくりとヴェルダリアに視線を投げ掛けた。視線の先に居る赤い髪の男は徐に笑みを浮かべると、「何でだろうなぁ」と呟く。

「――…………さあ?」

 終焉は投げ掛けたときと同じよう、ゆっくりと視線を離して目を閉じる。暗に「これ以上話すことは何もない」と表しているのだ。終焉は行動にこそ起こさないものの、雰囲気や態度でヴェルダリアを追い払おうとしている。彼はそれに気が付いていながらも独り言のようにふ、と呟いた。

「血塗れの筈なのに、なぁんにも残んねぇんだもんなあ~」

 理由を知っているけれど公言はしない。――そんな口振りで続けて言う「お陰で〝教会〟は追求もできやしねぇ」に、悔しさなどは込められていなかった。
 ――不意に駆け出す子供や大人達を目にしたヴェルダリアは、面倒臭そうに「あー」と頭を掻きながら多少気持ちを緩める。祭りやイベント事は基本的に〝教会〟が主導権を握っているのだ。賑わいが大きければ大きいほど、陰で怪しい動きを取る人間が居るこの時期には、〝教会〟に所属する人間達はそれに対する警戒心を持たなければならない。
 勿論それはヴェルダリアも例外ではなくて――。

「……面倒くせぇなあ」

 ――彼は酷く気怠そうな言葉を残したまま、終焉を置き去りに歩いていった。
 祭りの賑わいは夜になればなるほど激しく、人の波は中央に集まっていく所為で店の前には既に人だかりはできていなかった。どのみち店じまいになるのだろう、と終焉は暫くその様子を眺めていたが、流されていったというノーチェがその人だかりに巻き込まれていないかが酷く不安だった。

 彼は奴隷だ。終焉が頑なに認めなかろうとも首輪がある以上、ノーチェは奴隷のままだ。そんな彼が目をつけられて誰かに連れ去られでもしたらどうしようかと不安が過る。抵抗さえしてくれればいいのだが――彼にはもう抗う意志はろくに残されていないのだ。たとえ嫌でも「何をしても無駄だ」という先入観が邪魔をしてくるに違いない。

「…………やはり探しに行くべきか……」

 あれやこれやと可能性を考えた末、終焉は重い体をゆっくりと動かした。
 いくら目を閉じようと体を休ませようとも、重荷を背負っているかのように男の体は気怠さを一向に忘れることはなかった。足は鉛を引き摺っているような感覚にまで陥るほどだ。匂いを辿ることも難しい今、無事にノーチェを探し当てる自信が終焉にはなかった。
 全く厄介な話だ。
 無意識のうちに終焉は舌打ちを洩らし――聞き慣れた声にふと耳を傾けたのだった。