人の波の行く先に

 動き続ける人の波にあちらこちらをぶつけては溜め息を洩らし、小さく足を踏まれては厄介なものだと言わんばかりに人を避ける努力をした。和気藹々とした場所で微かに聞こえるのは水の音だろうか――。必死の思いで波から外れようと動かした足は何かに躓き――ノーチェの手の中から溢れるそれが小さな音を立てて石畳へと落ちていった。
 次に来る衝撃に備えるように覚悟を決めていたが、同時にやって来た腹部に何かが添えられる違和感に呆気に取られる。くしゃりと音を鳴らして落ちたそれはあまりにも無惨で、ああ、とどこか虚しい気持ちに苛まれながら、ノーチェはいつまで経ってもやってこない痛みと、石畳が近付いてこない理由をちらりと横目で見た。

「危なかったね、大丈夫かい?――ああ……でもそれは駄目になってしまったね……」

 低く人のよさそうな声色と、いやに優しげな――敢えて言うなら胡散臭い――表情が印象的な男がノーチェを支えていた。黒い神父服のようなものに身を包んでいて、彼は思わずそれに目を奪われる。
 黒い衣服で全身を包んでいる人間を彼は終焉やリーリエ以外に見たことがなかった。街の外に住んでいると思われる二人が黒を身に付けていたとしても何の違和感もなかったが、街に居る人間が黒い服を着ているとどうも違和感が残る。
 その違和感と衣服が相まってより怪しそうに見える男は、双方違った色を持つ瞳をしていて、終焉以外に見たこともないオッドアイにノーチェはぼんやりとそれを見つめていた。

 「……ええと、大丈夫かい?」再び彼の無事を確認するかのように同じ言葉を紡いだ男は、心なしか困るように眉尻を下げる。ノーチェは咄嗟に残ったひとつのりんご飴を強く握り締めながらこくこくと頷いて、自らの足で立ち上がる。

「そう、それはよかった。これから人通りが多くなるから気を付けて。……それはどうしようか?」

 男はにこにこと胡散臭い笑みを絶やさずノーチェの足元を見て呟いた。
 形がよかった丸いものは地面に叩き付けられた衝撃で多少ヒビが入り、アメのような欠片がちらほらと散らばっている。普通の考え方をすればそれはもう食べられないものだと思えるのだが――、如何せんノーチェは奴隷の身だ。この程度なら食べられると思ってしまうだろう。
 しかし、男の言う「どうしようか?」の意図が読めず徐に首を傾げてみせると、それは「意図が伝わらなかったか」と言って言葉を続けた。

「もしよければ新しいものを買おうか、という意味さ」
「……え、いや…………」

 男は微笑んだまま自分の非でもないものに金をかけようかと話を持ち掛けてきたのだ。
 ノーチェは咄嗟に首を横に振って「俺が食べるんじゃない……」とその話を断る。何故ふたつ持っているのかと問われると、彼は好意でもらったことを説明して下手に迷惑をかけないように徹した。男は「成る程」と理解すると、「じゃあ誰が食べるんだい」と再びノーチェに問い掛ける。

「……もう一人居て…………」
「今ここには居ないのかい」
「えっと……俺が、はぐれて…………」

 初対面だというのに随分と訊いてくる変な人だな。――そう思いながらノーチェは問い掛けに答えていくと、男はノーチェを見つめながら「迷子でいいのかな?」と言う。

 正確に言えば迷子というものではなかったのだが、説明するほどでもない状況に彼は小さく頷いて、自分が街のどこに居るかも分からない状況であることを教える。その旨を伝えたところで何かしらのメリットがあるかどうかを考えれば、ノーチェのしていることは自らを危ない目に遭わせようとしていることと同じだった。
 ノーチェを見つめる男の目付きは相変わらず胡散臭い笑みを浮かべていた柔らかいものだが、その目はしっかりと彼の首にあるものを捉えている。仮に男が奴隷を〝商人〟に手渡して賄賂を受け取っているとすると、ノーチェは格好の餌食なのだ。

 そんな可能性を男もほんのりと頭の隅に置いていたのだろう――「あまり正直に答えない方が身のためだよ」と困るように言った。

「もし仮に、私が君のような人を手渡して利益を得ていたら……なんて考えたことはないのかい?」
「……!」

 白い手袋に包まれた男の人差し指がノーチェの首輪をトン、と突いた。それに彼はハッとして体を強張らせると、りんご飴を持ったまま襟を寄せ、首輪を隠すように身構える。「……そう、すんの……」思わず呟いた言葉に男が指先を離しながら「すると言ったら?」と聞き返した。
 すると、ノーチェは一度目線を逸らした後、手元にあるそれをきゅっと握り締めて――

「…………これ……渡してからで……」

 ――なんて言ったのだ。
 逃げるでも大人しく従うでもない――予想もしない回答に男は口許を押さえてくつくつと笑う。
 彼は自分のために買ったものではないりんご飴を渡してから引き渡されると言ったのだ。終焉が易々とノーチェを手放すような人物でないことは分かっている筈なのに、そうであることが当たり前なのだと思っているような態度だ。

 その様子が男の笑いを呼び寄せてしまったのだろう。肩で笑う男をノーチェは訝しげな目で見ていると、「ああ、ごめんね。予想外で」と目元を擦りながら言った。そこに可笑しなものがあったのかは分からないが、不快というよりは不思議な気持ちに苛まれたのは言うまでもないだろう。
 彼は思わず顔を俯かせると、男が「どっちから来たか分かるかい?」と再び問い掛ける。多分あっち――そう言ってノーチェが指を差した方向には沢山の人が押し寄せていて、その道を辿ろうにも難しく思えた。

 煌々と照る三日月以外が浮かばない夜空は深みを増していて、ノーチェはどうにも終焉の落ち着きと静かさが恋しくなった。恐らく街の中が星すらも掻き消してしまうほど明るく、賑やかさが耳に障るからだろう。その光景が奴隷を使役している汚れた貴族を彷彿とさせてしまうようで――離れなければよかった、と後悔が押し寄せた。

 終焉は今何をしているだろうか。気怠そうに目を閉じていた男は、今になって唐突に目を覚まし、ノーチェの帰りが遅いことに腹を立てるかもしれない。――怒るということがなくとも、無表情のまま凝視され続けるかもしれない。
 それを思えば彼は酷く気持ちが重くなってしまって、遂にはあ、と溜め息を吐いてしまった。

「よし、それじゃあ行こうか」

 ――不意に呟かれた男の言葉に彼は茫然とその顔を眺める。
 若くもあるが、初老とも言えそうな顔付きに柔らかな表情がよく似合っていた。藤紫の毛髪が祭りの灯りに合わせて揺れ動いているように見えるが、単なる錯覚なのだろう。紫と白の双方違う瞳はあまりにも慈悲深く、そして――違和感さえもあった。
 本当に〝商人〟にでも手渡されるのだろうか。
 ノーチェは僅かに身構えていると、男は「話を聞いていなかったのかい」と微笑む。考え事に没頭していた彼は男が紡いだらしい言葉の一片さえも聞き取れていなくて、思わず目を逸らした。

「正直だね。まあ、そんなに気にしなくていいよ。さっきも言ったけれど、この時間帯は人通りが多くなるから、ルフランに慣れていないとすぐに迷ってしまうんだ」

 「よかったら案内するよ」男は彼に慈悲の手を差し出して言った。嘘かどうかの見極めはつかないが、誰かに頼らなければ終焉の元に帰れそうにない彼は、差し出された手と男の目を交互に見ていた。
 本当にこの手を取っていいのか――先程言われた通り本当に〝商人〟の元に行くだけでないのか、漸く彼の中に僅かながらも警戒心が芽生える。男の目は嫌になるほど柔らかい微笑みを浮かべているだけで、読み取れるような感情が何一つなかった。
 しかし、案内無しで先程の場所へと赴くのも難しい話であることは間違いなかった。

「………………」

 酷く悩んだ挙げ句、ノーチェはその手を取ることはなかったが、小さく頭を下げて「…………お願いします……?」とだけ呟いた。
 警戒した方がいいことを教えたつもりだが、露骨に手を取らないノーチェの様子を目の当たりにして男が小さく目を細める。終焉ほどではないが、冷めたような色が素肌に刺さるような気がした。
 ――一瞬、男の中に生まれた嫌悪を、彼は見逃さなかった。ぐっと息を呑み、選択を誤ったのかと自問自答を繰り返していると、それが手を引きながら言う。

「私はモーゼ。モーゼ・ヘルツローズ。好きなように呼んでくれて構わないよ」

 裾の長い黒の神父服に身を包んだモーゼにノーチェも名乗るべきかを考えたが、間髪入れずモーゼは「なるべく人通りが少ないところから向かおうね」と言って踵を返す。
 恐らく癪に障ることをしたのだ。
 ノーチェは慣れた足取りで街を歩き進んでいく男の背を追いながら、せめてりんご飴を渡すまでは無事でいられることを小さく祈っていた。