次の満月がやってくるまであと数日。その日が来るまでに何人もの反逆者が顔を出してきた。彼らは時折身内と親しげに話をしては、情報を集めて仲間たちに共有を行っているらしい。どの道が人目につきにくいとか、誰がどこに行くからその時間帯は平気だとか。そういった情報を獣たちはクレーベルトへ教えてきた。
やはり持つべきものは忠実な獣たちだなと男は頷き、ゆったりとした足取りで夜道を歩く。空は暗く、星の瞬きはおろか月の輝きさえも見受けられない。どんよりとした鈍色の雲が空を覆い尽くしているのだ。かろうじて露出している頬を撫でる風は仄かに冷たく、数時間とすれば雨が降りそうだとクレーベルトは小さく顔を俯かせた。
ハインツやノーチェが執務室を訪れてから早二日。二日前までには感じられなかった魔力の枯渇を、男は痛感していた。日を追うごと────ではなく数時間が経つごとに強い疲労感を覚えてしまい、不意に訪れる強烈な眠気に襲われる日々。獣たちとの感覚共有や、常日頃から造り上げている義手によって魔力を消費している他、反逆の芽を潰していることが主な要因のようだ。
男の魔力補給は他者から奪うか、睡眠を取るかによって回復速度が変わってくる。主な回復として使っているのは、長期間の睡眠を貪ることによる安定した方法。――しかし、一分一秒が惜しい今では、その睡眠も取るに至らない。自分の『主人』に仇なす者は全て消し去らなければならないという、強い忠誠心が男の体を突き動かしていた。
それによって滾々と募り続ける疲労感は、体だけではなくクレーベルトの心を少しずつ蝕んでいた。彼ら人間から洩れる冷たい言葉や、自分を裏切ったという事実はいつも大きな蟠りとなって喉の奥に詰まる。呼吸が苦しくなり、時折自分が何をしているのかも分からなくなった。自分の何が至らなかったのかと、男は不意に考えることがある。物事の最中に虚空を見つめ、それを思い出しては他にもやり方があったのではないかと考え込む始末。
足は鉛のように重くなり、遂には立ち止まってぼうっと地面を眺める時間すらも増えてしまった。
つい先刻、クレーベルトは相も変わらず仲間たちを裏切る元身内を屠った。魔力の補給も兼ねて食事を行っているつもりではあったが、やはり他者から奪う方法は魔力の回復よりも、単純に腹を満たす方法としか捉えられないようだ。奪った魔力の波長が合うことは少なく、クレーベルトは先程から強い不快感を覚えていた。
胃の中が掻き回されるような強烈な吐き気、感情の起伏が影響を及ぼす体温の低下。彼らは不味いと判断できるような味わいで、思わず口元を押さえてしまう。直接口にしたわけではないため、吐き出すようなものはなく、吐き気が治まるまでただ耐えるしかない。――そんな状況下で精神面が保つはずもなく、男はフラフラと夜道を彷徨っていた。
普段なら真っ直ぐに部屋に向かう足も、棒のように重い。心なしか誰にも会いたくないような気がして、男は森の中を歩き続ける。――そのうち、フードから覗く顔にポツリと冷たいものが当たった気がして頭上を見上げると、数分もしないうちに雨が降り始めた。
ポツポツと弱く降る雨ではあるが、細かく量も多い。数分も経てば男の黒いコートは全身がずぶ濡れになり、前髪は水が滴り始める。ずっしりと重みのあるコートは更に足を重くさせ、男は無意識のうちに小さく溜め息を零した。
────寒い。芯から震えるほどの寒さが体を蝕んでくる。男の特異な体質は、様々な状況と条件が揃うことで男に影響を与え続けた。中でも一番に体に影響を与えてくるものといえば、感情の起伏によって起こる体温の低下だろう。クレーベルトにとって寒さとは何よりも嫌いで、苦手で、避けたくて堪らないものだ。それが錯覚だとしても男にとっては耐え難い現象で、思わず両腕を抱え顔を俯かせる。
同時に起こる他人への不信感は次第に胸の奥に募り続け、いつしか表に顔を出さなくなってしまう――そんな未来が見えたような気がした。
――それでも男は決して自分の役割を誰かに押しつけようとはしなかった。一度でも心が折れそうになる度、他の人間たちは彼らと知り合いの可能性があるのだと叱咤した。彼らは皆何かを殺めてこの世界に招かれた人間ではあるが、必ずしも敵対している側の人間を殺したという事実はない。病死、衰弱死、事故死、安楽死――それらの理由で泣く泣く死別せざるを得なかった人間たちが、無差別に招かれているのだ。その結果、彼らは思わぬところで再会を果たしたものの、殺し合いをしなければならないという現実を突きつけられてしまう。
相手方だけでなく、男が愛している身内ですらも悲しい思いを抱えている。――そう考えると、胸の奥が軋み、痛みを訴えているような気がした。そういった思いを分け合っている身内も少なくはない。そうして彼らはボスであるクレーベルトを裏切り、相手の方へと身を翻すのだ。
万が一にでも彼らと仲の良い人間に、彼らの処分を命じれば、身内は確実に悲しみを胸に抱えてしまうだろう。そうしてまた、男はその命令を下した自分の責任を感じ、彼らとはまた別の悲しみを抱え込むことになってしまう。
――その悪循環を避けるべく、クレーベルトは何度も自分に言い聞かせてきた。身内を処分するのは自分の役目だと。血縁関係が存在しない自分が手を下せば、他の誰が傷付くことはないと。そう思って。
――それなのに何故、胸の奥が痛むのだろう。
ふと、男の脳裏に疑問がよぎる。誰とも血縁関係を持っていないのに、幼い頃から親しくしていたわけではないのに、身内であった人間に手をかける度に胸の奥が刺されたかのように強く痛む。喉の奥の方に何かが詰まっているかのように息が詰まる。彼らはこういう人間であった、と思い出す度に、じんわりと目頭が熱くなってきてしまう。
彼らと過ごした時間は殆どないに等しいのに、どういうわけか男は仲間を失う度に胸の奥がぽっかりと空いた気分に陥った。それは塞がれることはなく、仲間を手にかける回数を重ねる度に深く、大きくなっていく。何日も何日も繰り返していくと、次第に何も考えられなくなり、虚しさだけが残るようになった。
その時間が今、やって来ているのだと男は思う。次第に雨が強くなっていくのにも何も思わず、時間が経つにつれて雨粒が大きくなっていくのにも感情は抱かなかった。ただじっと地面を見つめて、雨に濡れる大地をぼうっと眺めている。少しずつ小さな水溜まりができて、足下が汚れていくのを傍観していた。
――涙が目尻から零れているのか、それとも顔を打ち付けた雨が涙に思えているのか、それも定かではない。体感時間にして数十分ほどではあるだろうが、不思議と何時間も独りで森の中を佇んでいるような気持ちに陥っていた。冷たい雨が体を打ち付けることも、寒さが体を蝕んでいくことも、最早何も思うことはない。ただふと、体を温めたいという衝動に駆られるのを、男は痛感していた。
体を温めるのには何がよかったか、働かない頭を懸命に動かし、思考を巡らせる。鈍い動きをする頭はいくつかの案を片隅から引き寄せてきたが、どれもこれも決定打には欠けるものだった。気持ちも、体も重いという観点において、自ら足を進めて歩くということを体が億劫に思っているのだと男は気が付いた。
それでも気持ちは相反するもので、ふと風呂に入りたいなどと思っている自分がいることにも気が付くのだ。
あまりの矛盾にクレーベルトは失笑して、立ち尽くしたまま静かに目を閉じる。すると、先程から聞こえてきているはずの雨音が、草木を打ち付ける音に混じって鮮明に聞こえてきた。木の葉を打ち付ける音は少しだけくぐもっていて、薄らと風が吹いているのが分かる。雨粒は数センチほどの大きさだと推測してみて、その中で微かに息衝く生き物の気配に気が付く。小鳥は木の幹に作った巣穴に閉じこもり、獣たちは丁度いい隠れ家を見つけて雨宿りをしていた。
物音に意識を向けていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。重苦しかった胸も、少しずつ軽くなっていって、本当にしたいことが何なのかを鮮明にさせてくるのだ。
温かな場所に行きたい。そのためには足を動かさなければならない。足を動かし、極力誰にも会わないように――。
────俺は、お前の役に立ちたい
――自分の体を休めるために思考を巡らせていたところ、不意に男が思い出したのは誰よりも傍に居続けた男の存在だった。
彼は数日前に直接役に立ちたいと言う前に、行動で示してくるような男だ。どれだけ体を大切にしろと忠告しても、一切聞き入れない姿はまさにそのものだ。自分の体を犠牲にしてでも実力を示し、クレーベルトに「自分は頼れる男だ」と行動で伝えてくるのだ。
そんなノーチェの存在を思い出し、男は俯かせていた顔を少しだけ上げる。返り血は浴びてしまったかもしれないが、後々風呂に入ることを考えれば、多少の汚れは見逃せるもの。寧ろ降り始めている雨によって幾ばくかは流れ落ちたのではないかと思えるほど、男は雨に打たれている。このまま立ち尽くしていれば、人間の皮をかぶっていたとしても体調不良は免れないだろう。
「…………寒い」
雨の当たらない場所に戻らなければ。体を温めなければ。――そうして男は数時間の熟考の末、漸く足を踏み出した。
泥濘みで足が縺れかける。柔らかくなった土が裾に跳ねる。鉛かと見紛うほど重くなった体を引きずって、男は雨の中をただ歩く。――行き先はとうに決まっていた。