俺の部下の愛が重い4

 ザアザアと耳障りな雨が降り頻っていた。数時間前までは痛くもなかった雨粒は、気が付けば大粒となって降り続けている。コートの上からでも微かな痛みが伴うほどの雨量に、クレーベルトが小さな息を洩らした。森から住宅街の方へと歩いた結果として、足下に汚れはつかなくなったものの、雨音が頻りに気になって仕方がなかった。人工物を打ち付ける雨音は、やはり草木を打ち付ける音とは質が異なる。歩けば足音が鳴り、硬い感触が体を伝うのが分かった。
 夜ということもあってか、――それどころか深夜という時間帯に等しいからか、街中にはポツポツと街灯が聳え立っているだけで、人の気配は殆ど感じられない。民家から灯るはずの明かりは既に途絶えており、誰もが眠りに就いていることを裏付けている。この住宅街で、クレーベルトが探しているのは――他でもないノーチェの姿だった。

 生憎の雨天の所為で男が好んでいる夜空を仰ぐことはできない。それでも、夜の名を持つ彼の姿を一目でも見れば失った何かを抱え直すことくらいはできるような気がしていた。相も変わらず重い足を引き摺るように歩き、呆然と街中を見つめながら彷徨い歩く。見慣れない店、見慣れない家具、見慣れない花壇――それらを流し見て、ふと男は自分がノーチェがどこにいるかも分からない事実に気が付いてしまう。
 クレーベルトはこの世界でいうボスだ。そのボスが普段のように街中を闊歩していれば、その雰囲気の違いから誰もが意識を奪われ、恐れに感情を囚われかねない。招かれただけの人間は殺し合いに参加させられてしまうが――、それ以外の時間に恐れや畏怖を感じることはしなくてもいいと、人間を気にかけて敢えて街中を出歩くことはしなかった。唯一息抜きの時間を取るために外に赴くとしても、クレーベルトが向かうのは街中から離れた自然により近い木陰の下だ。男が自然を好んでいるという事実も相まって、クレーベルトは夜の街をぼんやりと眺めることしかできずにいた。
 招かれた人間にはそれぞれ衣食住を確保できるよう、家も与えることになっていた。しかし、それぞれが民家に住み着くわけではなく、ある人は集合住宅の一室を借りて寝食を取り、またある人は友人と同じ屋根の下で過ごすことがあった。時折その場のノリでどこかへ泊まりに行ったり、夜更かしをして帰ってこなかったりと、様々な事情を抱えているらしい。
 その中でノーチェはどこに該当しているのか、クレーベルトには分からなかった。彼はどこかに住み着いているのだろうか、と民家を眺めるものの、今日に限ってはどこかに泊まりに出掛けているのかもしれないと手指が止まる。あるいは、クレーベルトの執務室がある大きな建物の部屋を借りて寝泊まりしているかもしれない。

 男の執務室がある場所は、五階建ての最上階に位置していて、一階から四階までがそれぞれの個室になっている。移動する際に誰かと鉢合わせることがないよう、影を伝っているお陰で、屋内で擦れ違うことはまずないのだが――、そのことが理由で誰がどこに住み着いているのかも把握していなかったのだ。
 その代わりに、彼らもまた知る由もないのだろう。一番離れにある孤独に用意された部屋の一室。そこが男に与えられた自室であることなど――。

 ――行くあてもなく、男は街中をゆっくりと歩き、そして遂には立ち止まってしまった。歩かなくとも全身を打ちつける雨数は変わらないが、心なしか風を感じなくなり、少しばかり兼ね備えていた凶暴性を落ち着かせている気がした。こうしている間にも体は刻一刻と寒さを訴えており、息苦しさは募るばかり。もうじきにやってくる満月の夜までに気持ちを持ち直さなければ、自暴自棄になり彼らに身を委ねることもやぶさかではないだろう。
 そうなれば自ずとノーチェは酷く傷付いた顔をするのは明白だ。彼のようにコロコロと表情が変わるような人間の、傷付いた表情を見るのは心が苦しくなった。彼のためにも、自分自身のためにも早く部屋に戻るべきだと男は静かに踵を返す。

 目指すのは少しばかり離れた大きな建物。仕事部屋も兼ねているために、街中ではなく森にほど近い場所にあるのだ。そこへ向かうためにクレーベルトはゆっくりと雨に打たれるのを楽しむように歩を進めた。
 身内もしっかりと部屋で休息を取っているに違いない。近くに見えたそこに灯る明かりは片手で数えられるほどしかなかった。その中に誰がいるのかなど分かりかねるが、睡眠は何よりも大切なものだと知っている男はほんの一瞬だけ悩む。睡眠の邪魔をするわけにはいかないと、寸前で足を止めた。
 極力魔力の消費を避けるべく自らの足で階段を上ろうかと思ったのだが、見上げたそれは今のクレーベルトにとっては億劫なものだった。たかだか五階――普段なら大したこともないのだが、建物を見上げるという動作をしただけで憂鬱な感情が湧いてくる。彼らの世界に合わせ、エレベーターというものも存在しているようだが――、男にはそういったものを使う機会は全くなかったのだ。

 ここはやはり削りを入れてでも快適な方を選ぶ他ない。

 窓から洩れる明かりがひとつ、またひとつと減っていくのを見つめながらクレーベルトは小さく方向を変えた。目指すのは建物の傍にある森の中だ。この森は広大で、街を囲むように生えている。獣たちを放り込むのにうってつけで、クレーベルトが身を隠すのにも十分すぎるほど役に立つ森だ。獣たちが彷徨いているため、常人ならば滅多に近寄ることのないそこは、一部からは人食いの森と呼ばれていることを、男は小耳に挟んだことがある。
 それはあながち間違いではない――なんて気を紛らせるように思いながらも、男は森の方へ足を進めた。
 雨が打ち付ける音。足元の水が跳ねる音。そして何かが地面に強く足を着ける音――。

「ベル……!」
「――…………」

 ――唐突に手を引かれ、男は振り返る。見れば男が探し続けていたノーチェが、目の前の建物から出てきたようだ。彼は普段とは異なった服装をしていて、夜に溶け込むようなマントもどこにもない。ただ部屋でゆっくりと寛ぐためだけに着ているタンクトップの姿で、雨に打たれるのも気にせずクレーベルトの前に現れた。
 その姿についクレーベルトはなんて格好をしているのだと口を開きかけたが、あまりの衝撃か、あるいは不調の所為か、思うように口が動かずに開閉だけを繰り返す。言葉を絞り出そうとした形跡が吐息となって零れ落ち、そのまま何かを言うこともなく男は口を閉ざした。

 ノーチェの動向を探れば、彼は自室で体を休めていたところ、ふと外にある気配に気が付き窓を眺めたのだという。深夜に近しい時間帯ということもあり、誰かが外に出歩いているのは珍しいと、好奇心から出た行動だった。その上外は強い雨が降り頻っている。相当な用がない限りは誰かが出歩くなどないはずで、ノーチェが知る限りでは外に用がある人間は殆どいないはずで――。万が一にでも寝首を掻こうとする不届き者がいるのなら対処しなければならないと、気配の出所を探ったのだ。
 そうして見かけたのは、暗闇の中に溶けるような色の、ボスがたった一人。雨に打ち付けられながら呆然と建物を見つめている姿だった。
 降り頻る雨の中で呆然と佇んでいるのがボスであり、且つノーチェの想い人であるのなら駆け出さない理由がない。――そうして彼は自分の体がずぶ濡れになるのも厭わず、窓から飛び出してクレーベルトの元へと駆けていったのだ。

「どうしたんだよ、こんな時間に……」

 ずぶ濡れじゃんか、そう言ってノーチェは頻りに男の頬や手に触れて、男の体温を確かめる。濡れなくとも元から体温が低い男は、彼の様子を黙って見つめていた。初めは乾いていたノーチェの体が瞬く間に濡れていくのを、男は止めてやることもできなかった。
 人間は酷く脆いことを男は重々承知している。それはノーチェとて例外ではなく、このように雨に打たれ続けていれば風邪を引き、熱を出しかねない。彼はクレーベルトの身を案じてくれているが、男はそれを断って部屋に戻れと背中を押してやるのが最善だと分かっていた。人間よりも多少は頑丈な体を持っているクレーベルトは、自分の心配はいらないと言うべきだと、誰よりも理解しているつもりだった。
 ふと、ノーチェが再びクレーベルトの頬に手を当てる。本来ならば彼は手を握り、温めてやりたいと思っているのだが、男は常に黒い手袋をつけている状態だ。その手を握ったとしても自分の体温を分けてやることなどできないと、判断しているのだろう。唯一露出が許されている顔に手を当てることで、少しでも温めてやろうという優しさが男に染み渡る。
 ――一体何故、ノーチェの姿を探していたのか、クレーベルトは疑問に思ってしまっていた。ぬくもりが恋しいと思ったのは確かではあったが、何も人肌でなくとも構わないはずだった。熱い風呂を沸かし、湯船にゆっくりと浸かって落ち着きを取り戻すのが最善であるはずだと知っているのに、男は人肌に――ノーチェに拘った。
 その理由を突き止めようとすると、不意に自尊心が虚無の間を縫って顔を出してくる。自分はボスという立場であるのだから、弱音を吐いてはいけないのだと囁きかけてきた。
 ――弱味を見せたら失望されてしまうのだと、そう告げていて――。

「………………」

 そこで男は、ノーチェに弱音を吐いてしまった夜を思い出してしまった。
 あの夜を知るノーチェに、今更何を怯える必要があるのだろうか。――そんな考えと共に男はそっとノーチェの肩に顔を埋める。彼は男の突拍子もない行動に一度だけ肩を震わせたあと、男の様子を窺うように「ベル?」と声をかけた。普段の好戦的な声色とは異なり、酷く優しい声色だ。ほんのり甘く、滲み出るぬくもりが男の体を這う。
 彼はそれ以上に声をかけることはしなかったが、代わりにクレーベルトの背中を宥めるように軽く叩いた。それが、ノーチェ自身ができる最善の優しさだと、彼なりに思っているようだった。数回トン、トンと一定の間隔で叩いてくるそれが少しばかり心地よく、男は次第に自分の体が眠りを求めていることに気が付く。
 耐え難い虚無感と、蓄積されていた疲労に隠れていて気が付かなかったそれが、ノーチェの体温によって引き出されたのだ。そう思えば、男の自我を支えている自尊心が少しずつ溶けているような気がした。

「…………疲れた……」

 たとえ弱音を吐いたとしても、彼は失望することはなかった。――その安心感から男は吐息を吐くように小さく呟きを洩らす。普段なら決して口にすることはない言葉ではあるが、不思議と彼の前にいると隠していた疲労が露呈するようだ。ノーチェの肩に額を押しつけて黙りを決め込んでいると、不意にノーチェがクレーベルトの体を抱き締めるように腕を回す。
 そして彼は「そうか」と一言呟いたものの、理由を聞こうとはしなかった。――ただ、酷く落ち着く声色で、「部屋に戻ろうぜ」とクレーベルトに促したのだ。