俺の部下の愛が重い4

 ほうほうと沸き立つ湯気が冷えた体を温めようとしてくるのがよく分かる。体と髪を洗い、湯船に身を沈めた男は体温と湯船の温度差に体が驚いたのに肩を震わせた。熱い、と感じるのはこれが初めてではなかったが、熱さを感じるほど体が冷えていたのだとは思わなかったのだ。
 浴槽に身を預け、肩まで深く沈めば肺の奥から空気が押し出されるように溜め息が洩れる。体中の疲労感が息を伝って抜けていくような錯覚を覚えた。所詮は錯覚でしかないと分かってはいるが、湯船に浸かって一息吐いている時間は何よりも心地が良い。湯船によって体がぬくもりを覚える度、少しずつ奥底からやって来る眠気が質量を増しているような気がして、ゆっくりと瞬きをした。
 ――それでも男が完全に瞼を閉じきることがないのは、風呂の中で眠るのはいけないという一般的な常識があることと、自室にノーチェを招いているからだ。彼を部屋に招くのは何も初めてというわけではない。体の関係を持って以来、クレーベルトが人肌恋しさに彼を眠りに誘うことも少なくはないのだ。初めは何も思うことはなかったというのに、人肌のぬくもりを覚えさせられた男は、一人で眠るということが難しくなってしまっていた。
 人肌を知らなくとも眠れていたはずなのに。あの体温がいやに恋しくなる。――それは特に疲労感を覚えた頃に強くなる気持ちであり、今日も遺憾なく発揮されてしまう現象だった。彼は男がこうして風呂に浸かっている間に一度自室に戻り、体を乾かしてから再びクレーベルトの部屋に訪れていることに違いない。
 
 ――普段なら男はノーチェと入浴を楽しむ時間を送っているはずだった。彼がクレーベルトのことを好いていると自覚して以来、過ごすことが多かった男は、成り行きでノーチェを風呂に招いたことがある。何もしないという条件下ではあるが、それを了承した彼は、どうやら自分の風呂場の違いに驚いているようだった。黒光りする浴槽に、広い浴室は、『主』がわざわざ男のために用意したものだった。
 ここまで待遇が違うのかよ、と小言のようなものを洩らしていたのを聞いたことがある。それにクレーベルトが「不満か」と問えば、ノーチェは一度だけ考える素振りを見せてから、首を左右に振った。寧ろお前はもっと堂々と構えるだけでいいんじゃないか、とすら言われたことがある。それがノーチェの知る「ボス」という姿だったようだ。
 クレーベルト愛用の風呂場は大の大人が二人並んで入っても、いくらか余裕がある造りだ。それに二人並んで入ったあと、向かい合って他愛ない話をしていた。友人が下らない話をしていただとか、ベルの好きそうな菓子が売っていただとか、――殆どがノーチェの一方的な会話ではあったが、男はそれを静かに聞き入っていた。自分にはない交友関係を聞くのは好奇心を満たすものがあったからだ。
 彼は交友関係を話すときは決まってクレーベルトに向けるようなものではない表情をしていた。男の前では自分は頼れる人間だと懸命に主張するような自信家のような表情が、話をしているときは呆れたような表情をしている。それは良くも悪くも男にとって新鮮な表情そのもので、見ていて飽きが来なかった。
 こっちにもそんなに強いやつはいないんだな、と少しだけ退屈そうな顔をしているのも見たことがある。その頃にはノーチェは慣れない長風呂に顔が火照り、呼吸が少しだけ荒くなっているように思えた。無理に自分に付き合う必要はないのだと申し出たが、ノーチェは頑なに男に付き合うのだと言って聞かなかった。
 そのうちウトウトと船を漕ぎ出し、クレーベルトも自分自身が限界に近付いていると知った頃、突然ノーチェが目を見開き、水飛沫を上げながら男の手を掴む。

「何してんだお前!」

 残っている左手を掴み上げながら声を張り上げたノーチェに、クレーベルトは疑問を掻き抱いた。突然手を掴まれたかと思えば、焦ったような声を投げかけられるなど、いくら身内に甘いと言ってもクレーベルトは黙って許せる生き物ではなかった。一体何を言い張っているのだと口を開きかけると、彼は掴み上げた左手に視線を移す。その手首には先程ついたであろう真新しい傷跡があり、男の黒い血液が腕を伝っていた。
 それに気が付くや否や微かな痛みが迸り、クレーベルトは反射的に手を引こうと試みる。――しかし、気を抜いていた男が力を込められるはずもなく、手を引くことは叶わなかった。それどころかノーチェは男を軽く一瞥したあと、その傷口を口に含み溢れ出す血液を飲み込み始めてしまう。
 彼の血液を使った魔法は貧血を伴う。そのため、彼は定期的に血液を口にすることがある。その対象は友人が主ではあるが、不思議なことに男の特殊な血液に拒絶すら抱かない彼は、クレーベルトからも吸血することがあった。
 その一環で、彼は勿体ないと呟きながらも流れるそれを懸命に飲み下していく。湯船によって体が温まっている所為か、出血は止まることは知らず溢れ出ていくだけだった。一体いつついた傷なのかと思ってそれを傍観していると――、ふとクレーベルトは自分の口内から錆びた鉄の香りがすることに気が付く。ころころと舌を転がしてみれば、鼻腔を抜ける香りが鼻を突いた。どうやら無意識のうちに自傷行為に出ていたらしいと気が付くと、ノーチェは苦い顔をして咄嗟に男の体を引き寄せる。

「こんなところじゃ止まるもんも止まんねえ! 出るからな!」

 そう言ってノーチェが声を張り上げてからは行動が速かった。彼は男の体を抱き抱えた後、風邪を引かないよう近くにあるタオルで全身を軽く拭いてから、男に着替えるようにと言った。何を慌てる必要があるのかと疑問に思いながら、渋々ノーチェの指示に従って服を着ていると、傷口から溢れた血液が手を伝うのが視界に入る。このまま放置していればいつかは滴り落ち、床を汚してしまいかねない。
 クレーベルトはそうっと自分の口元に左手を寄せた。タオルや何やらを汚してしまうのは忍びない――そう思った男ができることと言えば、それを口に含むことだけだった。
 ――しかし、突然横から伸びてきた手が男の左手を攫ったかと思えば、先程同様に口をつけ、血を飲んでいくノーチェがいる。その様子は焦りよりも少しばかり苛立ちを覚えているようだった。
 そのあとに部屋に戻され、ノーチェに慣れない手当てをされてしまう。その手当ての間に何故そんなにも怒っているのかと問いかけると、彼は驚いたように顔を上げて自分が何をしたのか分かっていないのかと、男に言った。

 彼曰く、クレーベルトは話の途中で突然自分の手を口元に当てて、歯を突き立てたのだ。躊躇なく肉を食い千切らんばかりに噛みつくものだから、ノーチェは咄嗟に手を引き離したのだという。

 風呂から上がったとはいえ、温まった体の出血は止まる兆しをまだ見せてこない。頻りに血溜まりを作る血液を彼は舌で掬い、近くにあったタオルを強く傷口に押し当てていた。そんなことをしなくても死にやしないと呟いたが、ノーチェはそれに「好きなやつが傷を負うのを見て焦らない方がおかしいだろ」と言い放つ。心配から来ているであろうその言動は、男には慣れないものだった。
 何せ男は不定期に自分の手首を噛み、自傷に至ることが多々あるからだ。その度に男は流れる血液を見つめて、首を傾げて何故自傷に至るのかと頭を悩ませる。いくつかの候補のうち、「口寂しいから」という理由が一番納得がいっていたのだが、体は納得していなかったようだ。
 普段なら誰かと話をしている間は自傷に至ることはなかった。その事実を含め、彼を風呂に誘ったのだが――、無意識で体を傷付けてしまっていたようだ。
 このことを含め、男はノーチェが賢明に手当てをしてくれている間にも呑気に理由を探っていた。口寂しいのは相変わらず候補に挙がるのだが、今回ばかりはそれだけではないような気さえする。特に自傷に至ることが多かった日の出来事を頭の中で整理していくと――、ふとあることに気が付いたのだ。

 クレーベルトが決まって自らの体を傷付けるときは、寂しさを感じるときだと。彼の交友関係を聞いて好奇心を満たしていたはずが、自分にはない交友関係の存在に胸が締め付けられていたのだと。人知れず抱え込んだ虚しさを発散させるために痛みで誤魔化し、痛みを抱えて何に気を取られていたのかを忘れるために自傷に及んでいたのだ。
 ――つまり。

「……俺は愛されたいのか……」

 結論を見出した男は小さく呟きを洩らした。自らの口で呟いた言葉は思いの外胸にストンと落ちてきて、欠けていたパズルのピースがはまったかのような落ち着きがある。自分には血縁がいなければ、友人と呼べるような存在もいない。誰からも嫌われるような存在であり、愛されることのない存在なのだという事実が、知らない間に心を削り取っていたようだった。その事実から目を逸らしたいばかりに行為を続けていたのだとすれば、遥かに納得がいく。
 男は愛されたかった。ボスとしてではなく、一人の存在として個を認識されたかった。理想を体現していない自分を見てほしかった、誰にも見捨てられたくはなかった。
 ――そういう気持ちが働いていたのかと一人頷いていると、左手を握るノーチェの手に小さく力が込められたのに気が付く。ふと男は伏せていた顔を上げてノーチェを見れば、彼は真剣そうな顔付きでじっと男を見つめていた。心なしか、睨みを利かせているような気がしてならない。
 そうして見つめ合うこと数秒。ノーチェは不満げに、それでも確かにクレーベルトに言ったのだ。

「愛されたいんなら俺がいるだろ。俺はお前を愛してやれる……お前が望むことは何だってしてみせる。だから……」
 
 ――こういうことは二度とすんなよ。
 ――彼は確かにそう言ったのだ。