「………………」
ふと、男は意識を手繰り寄せて瞬きをする。いつの日か告げられた言葉が脳裏をよぎり、意識しながら目の前を見れば、口元に左手を寄せていることに気が付いた。かろうじて気が付くのが早かったためか、唇を開き、歯を突き立てかけているところだった。このままでは以前と同じ末路を辿ってしまうと思い、クレーベルトは意図的にそっと左手を引き離す。
忠告を受けてなお衝動が収まらないのはノーチェだけでなく、クレーベルトも同じだった。気が付けば手首から血液が滴り、入浴剤を入れた湯船が汚れていくのを傍観することしかできず、男は頭を悩ませる日々が続いていた。このままではノーチェに示しがつかないのだ。言われたことは守らなければ、いつの日にか見捨てられてしまうような気がしてならなかった。
そんな男が捻りだした提案は――、彼を風呂に招き、傷を付けたいという衝動に蓋をすること。傷を付けようとする唇を、ノーチェに塞いでもらうことだった。
初めはクレーベルト自身も馬鹿げていると何度も思った。――しかし、ノーチェは男を馬鹿にすることはなく、役得だと言わんばかりに了承した。半ば食い気味のその了承に男は引け目を覚えかけたが、ノーチェが嬉しそうに顔を綻ばせている様子が可愛らしく見えて何も言わなかった。
その結果、男の自傷は目に見えて減ったのだが――、代わりに彼がいなくてはならない状況に陥ることとなったのだ。愛されたいという気持ちを埋めるためには、自分を愛してくれる誰かが必要不可欠で、それ故にクレーベルトはノーチェを縛りつけることとなった。彼が、何かに縛り付けられるような性格ではないと知りながら。
「…………ノーチェ……」
思い出したかのように彼の名前が口から零れる。自分が何故歩いてでもここまで来たのかなど答えは明白だ。男は裏切り者の処分に疲労しきった心を彼に慰めてもらいたかったのだ。どう足掻いても嫌われて傷付いた心を、ノーチェが与えてくれる愛情で癒やしてしまいたかったのだ。――そうして自身の弱い一面を隠すための英気を養い、再び理想のボスを体現しようとした。
そして、目当ての彼は風呂から出てくる男を今か今かと待っているに違いない。普段のように風呂を共にしなかったのは、あくまで男が疲れ切った顔をしているからだ。そのため、ノーチェは布団を整えるからと言ってクレーベルトを一人浴室に押し込んだ。
――彼は、男が自傷行為をするとは思わなかったのだろうか。そう疑問が浮かばざるを得ない。彼のことを傷付けないようにするために、自傷を耐えることがどれほど難しいことなのか、ノーチェは知らないのだろう。
クレーベルトは徐に立ち上がり、浴槽から足を乗り出す。十分に温まった体は眠気を訴えているが、それだけでは心は満足しなかった。浴室の扉を開けて視界に飛び込んできたのは、乱雑に投げ捨てられた黒い衣服たち。それらを横目に見ながら傍にあるタオルで懸命に水気を拭い取り、用意された服へと着替える。
褒められたいがために伸ばしている髪を乾かすのにドライヤーは必須だった。――しかし、疲労が溜まった体はドライヤーに手を伸ばすこともなく、水気を含んだ髪のまま男は浴室を後にする。
部屋を開けてすぐ隣にある自室――兼寝室には、必要最低限の家具が鎮座している。これはクレーベルトが常人のように必要なものが多いわけではなく、寝具や机、暇潰しの本棚以外に使うものがないからそうなった結果だ。彼らのように料理をすることはなく、娯楽といったものにも興味がない。男に必要なのは主に睡眠――それを解消するための寝具のみだ。
その寝具に、ノーチェは天井を仰ぎ見ながらぼんやりと寝転がっていた。クレーベルトが浴室から出たと気付くや否や、彼は体を起こし、「温まったか?」と優しい声をかける。そのまま寝具から足を下ろし、男の元へと歩み寄った。
頬に触れて、手を握る。そうして体が温まったのを確認すると、ノーチェは漸く安心したかのようにホッと吐息を洩らす。どうやら人知れず心配をかけてしまったようで、クレーベルトの胸には微かに罪悪感が募った。タオルで体を拭いただけのノーチェは風呂上がりの男よりもいくらか体が冷えていたが、それでも男よりは遥かにまともな温度をしていた。
「髪、乾かしてないのか? 俺がやるか?」
「……いらない」
満足に乾かしてもいない髪を軽く指先で梳きながら、ノーチェは男に問いかける。このまま眠れば髪質にも影響が出かねない。彼はクレーベルトが髪を伸ばす理由を知っていて、疲れているのなら自分がやると言い出した。
――それを男は一言で断り、徐にノーチェへ体を預ける。再び肩に顔を埋め、ゆっくりと呼吸を繰り返した。生臭い鉄の香りを、ノーチェの香水が少しずつ上書きしていくのがよく分かる。加えて分け合う彼の体温は酷く心地が好かった。
「……じゃあ横になるか。お前、疲れた顔してるもんな」
優しく壊れ物を扱うような手は、ポンとクレーベルトの頭に置かれる。彼と男の身長差は十数センチほどあり、ノーチェの方が低いのだが、頭を撫でるのにどちらが上かも何もなかった。彼は男の頭を二、三回ほど撫でてやったあと、その体を抱えて寝具へと向かう。赤黒いカーペットは柔らかな素材を使っていて、素足で歩けばほんの少し擽ったい。
クレーベルトは寝具の上に載せられたあと、ノーチェが部屋の明かりを消しに行くのを見送っていた。頼られたことが余程嬉しいのか、それともボスではない弱い一面を見せられたことに気持ちが浮かれているのか、ノーチェの足取りは軽い。そのまま彼が部屋の明かりを消すと、外の暗さも相まって部屋は一気に暗闇に沈んでしまった。
まるであの夜のようだとは言い出さなかった。
クレーベルトもノーチェも、暗闇には強い目を持っている。男はノーチェが真っ直ぐに自分に向かって歩いてくるのを見つめて、自分の隣の空いている場所を軽く叩いた。ここに転がれという暗黙の指示に、ノーチェは大人しく従う。男二人を余裕で支えてくれる大きな寝具は、小さくスプリングが軋みを上げていた。
「仰向けに……」
クレーベルトがそう呟くと、ノーチェは何も言わずに従って体を仰向けにする。髪がしっとりと濡れているのは何もクレーベルトだけではない。雨に濡れたノーチェもそのままの状態で男の部屋に戻った所為で、彼は少しだけ頭が気持ち悪いと小さく愚痴を洩らした。
その愚痴を男は聞き流し、横に倒していた体を持ち上げてノーチェの上に体を乗せる。彼は文句を口にすることはなかったが、ほんの一瞬だけ体を強張らせるのをクレーベルトは見逃さなかった。その様子に、前回体を許したのはいつの頃だったのかとふと思考を働かせる。
彼は男をこの上なく愛しているのだと言った。女で遊ぶのをやめて、クレーベルト一筋になったとも言った。ここ最近は男が忙しなく動いているため、夜を共にすることはなかったのだが、彼は無事でいられるのか――。
そう考えてから、自分が酷い眠気に襲われていることを思い出して、男はそっとノーチェの体に寝そべった。彼の小言に反応を示すのは翌日でも構わないのだ。
ノーチェは人間の中でも随分と体を鍛えていると思う。彼の体に身を委ねたクレーベルトは頬や手のひらから伝わる体の質量に、ほう、と吐息を吐いた。安堵から来る安心感のようなそれに、じんわりと胸の奥が熱くなっていくのがよく分かる。胸元に寄せた耳からは彼の鼓動が聞こえてくる。ドクドクと通常よりも幾ばくか高鳴っていて、少しばかりの緊張感が伝わってきた。
「何でもいいけど……あんま聞くなよ」
彼はそう言って男に布団を掛けてから、布団ごと男の体に腕を回す。力はなく添えられるだけのそれに、男は更なる安心感を掻き立てられた。ノーチェは緊張からか、現状に耐えるためか、小さく唸るような声を上げて何かと葛藤している節を見せる。頼られて嬉しいものの、この現状は限りなく限界に近いと言わんばかりのそれに、男はノーチェの服を軽く握り締めた。
言葉にしなくとも、彼は手を出すことはしないだろう。握り締めたそれは、彼を手放さないようにするための一種の保険だ。万が一身動きのひとつでも取れば、男はそれに気が付く自信があった。
彼は温かく、男の冷えていた体をゆっくりと温めてくれる。風呂で与えられるぬくもりではなく、人肌にしかない唯一のぬくもりだ。そのぬくもりが酷く心地よく、男は意識が微睡んでいくのを自覚していく。鍛えられている彼の胸元は、力がこもらなければふわふわとしていてクセになった。その上、かけられた布団がそのぬくもりを手放さないと言わんばかりに、体を閉じ込めてくれるから尚更だ。
このままでは本当に駄目になってしまう――そう分かっていても、体は彼を求め続けているのだ。
明かりを落とした暗闇の中では様々な音が耳に届く。息づく心臓の音、呼吸音。外で降り頻る雨の音――それらは確かに男の眠気を誘い、今すぐにでも眠ってしまおうかという衝動に駆られる。――しかし、今はまだ眠りに就かずにこの温度を堪能していたいと思うのもまた事実。一体どうしようかと悩んでいると、ノーチェが何気なくクレーベルトの頭を撫でながら「よかったな」と言った。
「これだけ雨が降ってるのに雷が鳴ってないなんて」
「…………む……」
髪を一房掬い上げ、しっとりと濡れている黒髪をノーチェは手のひらから零す。そう言いながら気晴らしに呟いているであろう言葉は、恐らく男のことを思ってのことだった。男は雷のような突然の轟音を酷く毛嫌いしていたのだ。
クレーベルトは生まれてこの方、雷に多大なる被害を受けたわけではない。ただ突然、鈍色の空を突き破って鳴り響く雷鳴が耳を劈くのが耐えられなかったのだ。眩く光るあの閃光も、驚くべき要因のひとつになっている。平常心を保てていれば男の得意な無表情で誤魔化すことは容易いのだが、こうしている間に雷がなれば、男は自分を装える自信がなかった。
その弱味をノーチェはからかうような口振りで口にした。けれど、決して失望や自尊心を傷付けようとする意思はなく、寧ろ可愛いものを愛でたいがために言葉にしたような雰囲気が見て取れる。徐に顔を上げてノーチェの方を見やれば、彼はクレーベルトの顔を眺めていたようで、すぐに目が合った。
生憎の天気で見えない夜空がノーチェの瞳で瞬いている。程良く優しい月明かりが、なおのこと男の弱い部分を突いてくる。暴いて全てを受け入れて駄目にしてこようとする悪い男の目をしていた。
その目に絆されないよう、クレーベルトは顔を逸らして先程と同じようにノーチェの胸元に耳を押し当てる。すると、彼が少しだけ笑いを零しながら「何だよ」と言っているのが聞こえた。ほんの少し、鍛えられた腹周りが小さく動いたのが分かった。
厚い胸板に顔を寄せ、男はぼんやりと考える。鍛えられているこの体を好んでいるのは何もクレーベルトだけではない。彼は様々な女と体の関係を持ってきたのだ。ノーチェ自身が本気にしていないにしろ、彼女たちの中には本当にノーチェのことを好きになってしまった人間もいるのだろう。ガタイの良い体は誰もを魅了してやまないのだ。
ノーチェは今更ながら人を好きになったと言った。暇潰しに読んだ本には、恋とは人生を変えるものであると記されていた。恋をした青年は、その日初めて今までの人生は死んでいたのではないかと錯覚するほど、血液が全身を駆け巡るのが分かったのだ。頬は熱くなり、動悸は激しくなる。目の前は色褪せていた世界が鮮やかに見えるなど――心身に変化が現れたのだという。
ノーチェも実際にそうなっているのだろうか。彼の視界を共有できるわけではないからこそ、クレーベルトは不安になってしまう。何せ自分にはそういった景色が見えてこないからだ。
胸に耳を押し当てている間、ノーチェの動悸が激しいかどうかと問われれば、男は「否」と答えるだろう。体温が平常よりも高いかと訊かれても「否」と答えるだろう。――それほどまでに彼はこの状況に慣れているようだった。
彼が本当に本気であるかどうかをクレーベルトに確かめる術はない。今までの彼の体温と動悸を確かめることなどなかったのだから、今の状況が昂っているのかどうかも定かではない。――しかし、ひとつ断言はできるのだ。クレーベルトは体温が上がるわけでも、動悸が激しくなるわけでもないということは。
この状況で、果たして嘘が真実かも分からないノーチェの言葉を鵜呑みにしてもいいのか悩んだ。たとえ本物だとしても、何の変化も現れない自分にこのまま付きまとわせていいのかとも悩んだ。ノーチェとクレーベルトは生まれどころか過ごしていた世界そのものが異なっている。彼には寿命があるが――、造形でしかないクレーベルトには寿命という概念が存在しなかった。
彼は――、ノーチェは同じように寿命を持つ人間と過ごすのが、一生を終える方がいいのではないかと頭を悩ませてしまう。初めて愛を返され、彼に絆された結果としてノーチェのことを好きになってしまったのだとしても、自分の気持ちに蓋をして彼の幸せを願う方がいいのではないかと、思う。
他の誰にも抱かないこの感情を愛と宣ってもいいのか――、クレーベルトには分からなかった。
そんな考えをしていると、ノーチェが何かを察したように抱き締める腕に力を込める。絶対に離してやらないと言わんばかりのそれは、男の意識を思考よりも自分に向けるためのものに思えた。思わずノーチェの顔を見上げようとしたものの、それよりも先に彼が「あんま変なこと考えるなよ」と先手を打ったように呟く。やはり彼は男の体質を理解しているようで、少しばかり落ちた体温の変化に目敏く気が付いたようだ。
先手を打たれ、クレーベルトは顔を上げることもなく、身動ぎをしながら「ん」と答えた。その間にも彼はあやすような手付きをやめず、男の頭を優しく撫で続ける。その手が妙に眠気を誘ってくるものだから、男は幼子の心情を理解したような気がした。
「……ノーチェ」
「ん~?」
「……お前は何を基準に、俺を愛していると言ったんだ……」
朧気になる意識の中で、クレーベルトは言葉を捻り出す。彼は様々な人間と関係を持ち、男よりも遥かに広い人脈を持っている。その結果として様々な感情を持ち合わせてきたノーチェが、何を基準としてクレーベルトに愛というものを抱いたのか知りたくなった。――それを知ることで、自分の欠けている部分を補い、ノーチェに対する感情の正体を知ろうとしたのだ。
彼はその問いに歯切れが悪い生返事をしたあと、「それを俺に聞くのかよ」と苦笑いを浮かべたような声色で返した。彼も彼で誰かを好きになることを知ったのは、クレーベルトが初めてで、男の問いに正確な答えを残せるとは思わなかったのだろう。ノーチェは何度も呻きながら「やりたいのは違うよな……」とか、「お前が欲しいのも何か違うか……?」と呟いては頭を悩ませている。それほどまでに難しい問いだったのかと男は反省しながらも、少しずつ意識が落ちていくのを自覚した。――もう、眠気に抗えなくなったのだ。
――それでも先程投げた問いに関する回答だけは聞き届けようと、クレーベルトは懸命に抗った。もう半分ほど瞼が閉じかけ、雨音もノーチェの呟きも遠く聞こえるようになってしまったが、薄らぼやける頭を働かせて意識を保とうとしていた。雨音も、鼓動も眠気を誘う音でしかなかったが、それでもノーチェの胸元から耳を離そうとしないのは、男の我が儘だったのだろう。
――やがて彼は何かを思い立ったように「あ」と声を上げた。そのあとに続くであろう言葉に耳を傾け、クレーベルトは抗い続ける。その呼吸はゆっくりと、眠ろうとするものへと変わっていた。
「愛とか恋とか何も分かんねぇけどさ……ベルのこと、俺が幸せにしてやりたいとは思ってるかもな」
こればかりは他のやつにも思ったことはないかも。――そう言ってノーチェは男の頭を撫でる手を再開させて、眠れと言うように穏やかに話をする。たった一人のことを想っているんなら、それは愛と言ってもいいんじゃないの――と言ってから小さく「恥ずかしい言葉だな」と口を洩らしていた。
たった一人を想うことが愛だとするのなら、果たして自分の感情は一体何に当てはまるのか。少なくとも平等に愛することを、愛とは呼ばないのだろう。それはただ「愛されたい」という自分を満たすための常套句に過ぎないのだ。
ならば、ノーチェのことを想って行動する原理を、「愛」と形容してもいいのだろうか。彼の幸せを願って想うことも、愛と呼んでもいいのではないだろうか――。
熟考の末、クレーベルトは遂に意識を手放してしまう。その寸前、男が眠りに就くことに気が付いた彼は、「おやすみ」とクレーベルトに告げた。隙を見せる自分の目の前に他人がいると言うのに、安心感を抱いて眠れるのも、ノーチェのことを心から信頼しているからだろう。
全てに片がついたのなら、彼が自分の一族のことを打ち明けてくれたように、男も心情を打ち明けてみようと決意した。そうして自分を受け入れてくれれば、ノーチェの愛に応えられるような気がして――、男は遂に深い眠りへと落ちるのだった。